信用と覚悟
ルミエルはブラインと共に部屋へ戻った。騒動の後も落ち着かず、椅子に座っては立ち上がり、窓へ向かっては引き返す。胸の奥がざわつくのに、理由がはっきりしない。
見かねたばぁやが後ろから肩を優しく掴んだ。
「ルミエル様、お菓子でも食べましょう」
有無を言わせぬ柔らかさでソファへ導かれる。銀皿の焼き菓子はいつもと同じ香りをしているのに、今日は妙に遠く感じた。
ブラインも自然な所作で紅茶を注ぐ。
「こういう時こそ、落ち着くものです」
その声音も動きも、普段と変わらない。外で何が起きていようと、この部屋だけは日常を守ると決めているかのようだった。
ルミエルは二人を見上げる。
「……外、騒がしいね」
小さな声に、ばぁやは穏やかに微笑む。
「ええ。でも、ルミエル様が心配なさることはございません」
優しい言葉なのに、不思議と揺るがない。
外では確実に何かが動いている。それでも、この部屋の空気はまだ壊れていなかった。
穏やかな部屋が、ひとつのノックで壊れた。
ばあやが扉を開けると、蒼白な顔の兵士が立っている。
「失礼します。ルベル様より、至急避難命令が出ました」
その一言で、ルミエルの顔から血の気が引いた。
「……ルベルは?」
小さな足で駆け寄り、兵士の上着を掴む。
「どこにいるの? 私も行く……!」
震える指先。必死に縋る声。
ばあやは迷いなくルミエルを抱き寄せ、兵士から引き離した。
「ルミエル様、まずは落ち着いてください」
長年公爵家に仕えてきたブラインは、一歩前へ出る。
「何が起きた」
兵士は息を整え、簡潔に告げた。
「間者が、魔物を寄せ付ける魔石を領内に設置した模様です。すでに各地で魔物の出現が確認されています。大規模な襲撃になる可能性が高いかと」
空気が重く沈む。
ばあやとブラインは視線を交わした。
「……分かりました。私は応援に向かいます」
そう言いかけて、ブラインは言葉を止める。
視線の先にいるのは、ばあやの腕の中で唇を噛み締める小さな少女。
この屋敷でさえ、ルミエルを快く思わぬ者はいる。
本家から来た使用人の中には、未だに“奴隷の子供”と囁く者もいるのだ。
外には魔物。
だが、内もまた安全ではない。
この状況で、ルミエルを一人にするなど――論外だった。
護衛は誰でも良いわけではない。
誤れば、守るはずの屋敷が、檻になる。
ブラインは静かに息を吐いた。
「……私が残ります」
ルミエルには、ブラインが向かわなかった場合どうなるのか想像がつかなかった。
ただ一つだけ分かっている。
――自分が、足手まといにはなりたくない。
ばあやの腕の中で、小さな体が震える。
怖いのではない。
それ以上に、自分が足を引っ張るかもしれないことが怖い。
ルミエルは唇を噛み、ブラインに声をかけようとした。
その瞬間。
窓の外に、影がよぎった。
次の瞬間、外側から窓が押し開けられる。
冷たい風が一気に吹き込み、カーテンが大きく揺れた。
兵士が反射的に剣に手をかける。
窓辺に降り立ったのは、虎柄の猫。
栗色の瞳が、室内をゆっくりと見渡す。
屋敷の中の緊張など意に介さぬように、尾をひと振り。
そして、当然のように座り込んだ。
視線はまっすぐ、ルミエルへ。
「なんや、助けが必要そうやな」
ルミエルはばあやの腕を振り解いた。
迷いなく窓辺へ駆け寄り、虎柄の猫を抱きしめる。
「モミジ……助けて……」
頬を毛並みに押し付ける。
「ルベルの元に行きたいの……」
その必死な声に、ばあやの視線が細められた。
ゆっくりと、モミジへ向けられる。
鋭い。
敵を見る目ではない。
だが、完全な味方を見る目でもない。
「モミジ。どうしてここへ来たのです」
声は静かだが、温度は低い。
「待機命令は出していたはずです」
モミジはルミエルの腕の中で尾を揺らす。
「それは酷いんちゃうか?」
軽い口調。
だが、ばあやは一歩も引かない。
この猫がルミエルに強い忠誠――いや、執着にも近い想いを抱いていることは理解している。
だからこそ、ルミエルを裏切ることはないと分かっている。
しかし。
それ以外となれば、話は別だ。
命令を守る保証はない。
勝手に動き、状況を掻き乱す可能性は十分にある。
「このまま待機してたら、俺、ほんまに死ぬかもしれへんやろ?」
冗談めかした声音。
だがその瞳は、真っ直ぐルミエルだけを見ている。
ばあやは静かに息を吐いた。
――この猫は、ルミエルのためなら何でもする。
それが、最も信用できて。
そして最も信用できない理由だった。
モミジ殿は、どこでその情報を?」
ブラインの声は穏やかだが、逃げ道を与えない響きがある。
モミジはゆっくりと視線を向けた。
「情報って、何のことや?」
「あなたは先ほど“死ぬかもしれない”と言った」
ブラインの瞳が細められる。
「なぜ、そう判断したのです」
一瞬。
モミジの尻尾が、ぴたりと止まった。
――しまった。
わずかに垂れ下がる。
「……ミスったな」
小さく呟く。
「直接、聞いてもうたんや。地下での話」
空気が張り詰める。
「心配になってな。せやから駆けつけた。それだけや」
ブラインの口元が、わずかに歪む。
「若様方にも気付かれずに?」
“若様方”――屋敷の中枢にいる者たち。
モミジはルミエルの腕からするりと抜けた。
窓辺へ飛び乗る。
そして、軽やかに床へと降り立つ。
その瞬間。
耳が消え、尻尾が霧のように溶ける。
小柄な青年の姿が現れた。
躊躇なくルミエルを抱き上げる。
「せやな」
栗色の瞳が細められる。
「猫って、便利なんや」
ばあやは、モミジの腕の中のルミエルへ静かに手を伸ばした。
「ルミエル様。こちらへ」
しかしルミエルは、モミジの服を強く握る。
小さな指が、布を掴んで離さない。
首を、ゆっくりと横に振った。
「ルミエル様。急ぎましょう」
ばあやの声は冷静だが、その奥に焦りが滲む。
「魔物が押し寄せれば、この屋敷も安全ではありません。領土を離れねば――」
ルミエルはばあやを見上げる。
瞳が揺れる。
怖い。
分かっている。
自分がわがままを言っていることも。
「……ごめんなさい。でも……」
視線を、モミジへ。
小さく、けれど確かに言う。
「モミジ……連れて行って。ルベルのところに……」
部屋の空気が張り詰めた。
ブラインとばあやの視線が同時にモミジへ向けられる。
制止の意思。
命令に近い圧。
だがモミジは、肩をすくめるだけだった。
「そない怖い顔せんといてや」
軽い口調。
けれど腕の力は、しっかりとルミエルを支えている。
「……やっぱりな」
栗色の瞳が細められる。
「俺は、嬢ちゃんの味方や」
その一言に、迷いはなかった。
ブラインはモミジの言葉に、わずかな決意を感じ取った。
小さく、ため息を吐く。
「……あなたは弱い」
静かな断言だった。
「お嬢様を連れて、すべてから守り切れるのですか」
モミジは答えず、腕の中のルミエルを見る。
小さな体。
震えているわけではない。
その存在を確かめるように、腕にわずかに力がこもる。
「……守れる」
低く、はっきりと言う。
「少し前の俺やったら無理やった。せやけどな」
栗色の瞳が、まっすぐブラインを射抜く。
「今の俺なら大丈夫や」
ブラインは目を細める。
初めて会った頃の頼りなさは、もうない。
迷いが消えている。
「……分かりました」
一歩、退く。
「責任は私が取りましょう。ルミエル様の望む通りに」
「何を仰るのです!」
ばあやが詰め寄る。
「すでに魔獣が押し寄せている可能性もあるのですよ!それに——」
鋭い視線がモミジへ向く。
「この者は、私よりも弱い」
「承知しています」
ブラインは揺るがない。
「ですが——お嬢様の決意は、もう止まりません」
ばあやの腕の中で、ルミエルが小さく頷く。
そして、そっとモミジの服を引いた。
「……ばあや」
声が震える。
それでも、目は逸らさない。
「帰ったら、謝る……」
その一言を残して。
モミジは窓枠へ跳び乗る。
夜風が吹き込む。
次の瞬間。
ルミエルを抱えたまま、闇へと飛び降りた。




