天敵の正体
血と肉の焦げる匂いが混ざり合う地下牢──
石壁は冷たく湿り、鎖の軋む音が静寂を裂く。
その中で、一人の男がルベルとヴァーミリオンに取り押さえられ、拷問を受けていた。
「もう一度聞く。なんで私を狙った。」
ヴァーミリオンの声は冷たく、それでいて淡い興味を含んでいた。
杖の先に揺れる火が、男の顔に赤い影を落とす。
間者の胸は跳ね、手のひらは汗でぐっしょりだった。
逆らうことも、死ぬこともできず、ただ生き延びる方法だけを思考が彷徨う。
左手が背中に隠れ、さっき受けた痛みを思い出す。
「それは……あんたを邪魔にしてる奴がいる。」
男の声は震え、言葉を紡ぐたびに微かに喉が鳴った。
ヴァーミリオンは顎の髭を軽く撫で、杖をコツコツと地面に打ちつける。
火の揺らめきが、男の心拍のように見えた。
「ほぉ──それは誰だ?」
ルベルは冷たい瞳で間者を見据え、手元の鎖を軽く揺らした。
静かだが確かな威圧。間者は思わず目を逸らすしかなかった。
「答えないのか?」
ヴァーミリオンは杖を上げ、男の右肩に押し当てる。
火が皮膚に触れる瞬間、焦げる匂いが地下牢に充満した。
服の裂ける音が微かに響き、男の肩からは煙のように熱が立ち上る。
その光景を見た数人の警備兵は、口元を抑え身体を震わせた。
誰も声を出せず、ただ目を逸らすことしかできなかった。
「い、言うから…や、やめてくれ…!」
間者の身体は震え、膝から崩れ落ちる。
汗と血で湿った床に手をつき、必死に息を整えようとするが、恐怖で頭は混乱していた。
目の前で揺れる火と、杖の冷たさが、彼の全神経を締め付ける。
「早く答えろ」
ルベルは怯える間者を見下ろした。男は喉を鳴らし、震える唇を無理やり動かす。
「……教会からだ」
短い沈黙。
「あんた、教会に味方いるだろ……」
ヴァーミリオンの視線がわずかに揺れた。
「……バレたか」
短く息を吐く。
「無能な連中には辿り着けんと思っていたが。差し詰め――天使か」
その一言で、ルベルの中で何かが繋がる。だからルミエルを知っていた。だが教会の情報には妙な欠落があった。知っているはずのないことを知り、知っているべきことを知らない。偶然ではない。
ルベルはゆっくりと視線を上げる。
「内部にいるな。……ヴァーミリオン、お前の部下だ」
焦げた匂いが残る地下牢で、ヴァーミリオンは横目にルベルを見た。その視線に迷いはない。ただ、握った杖にわずかに力がこもる。
「若様。勘違いなさらぬよう」
低く、はっきりとした声だった。
「情報は武器になります」
ヴァーミリオンは一歩、ルベルの前に出る。
「武器は使う者を選びません。だからこそ――我らが握っておく必要があるのです」
ルベルは睨みつける。だがヴァーミリオンは目を逸らさない。
「公爵家のためです」
その一言で、視線の衝突は終わった。焦げた匂いが残る地下牢で、ルベルはゆっくりと間者へ向き直る。
「ルミエルのあの力を見たら……誰でも欲しがる」
鎖がわずかに鳴った。
ヴァーミリオンの脳裏に、幼い手から溢れた穢魔の光景がよぎる。魔族でもない子供が扱うには、あまりにも異質な力。なぜ使える――思考が沈みかけた、その時。
間者が笑った。
乾いた、ひび割れた笑み。
「それより……お前ら。ここでのんびりしてていいのか?」
ルベルは即座に胸ぐらを掴み上げる。鎖が激しく鳴り、顔を引き寄せた。
「どういう意味だ」
だが間者の目には、もはや怯えはない。恐怖とは別の色が宿っている。
次の瞬間、首元が青白く発光した。皮膚の奥から見覚えのない紋章が浮かび上がる。ルベル達が刻んだ蛇とは違う。
震えていた身体が止まり、ゆっくりと顔が上がる。その目にあるのは、静かな蔑み。
「……ようやく繋がった」
声が違う。響きが違う。
石壁がわずかに軋んだ。
ヴァーミリオンの視線が鋭く細まる。
「天使か」
間者――いや、天使が口元を歪める。
「人間の身体は脆い。長くは持たん。だが、声を届けるには十分だ」
その視線はルベルへ向けられていた。もはや観察する者の目だ。
「何処の誰かは知らんが……何を考えている?」
ルベルの声は低く、怒気を押し殺していた。
「先ほど、その男は意味深なことを言っていたな」
チッ、と舌打ち。
青白い光に照らされた焼け焦げた肌を、天使は一瞥する。
「……まぁいい」
間者の身体が、糸の切れた人形のように揺れ、ゆっくりと背筋を伸ばす。その動きは、もはや拷問を受けた人間のものではない。
「今に、大量の魔物が押し寄せる」
淡々とした宣告。
「お前達の領土には、既に魔物を引き寄せる魔法石を設置してある」
ヴァーミリオンの目が細まる。
「……いつだ」
「さぁな。今頃かもしれん」
薄く笑う。
その瞬間、ルベルは動いた。
「エル!」
声が石壁を震わせる。
「直ちに偵察を出せ!全域に警戒を敷け!魔石を探し出し、即刻回収しろ!」
鎖が鳴り、兵達が一斉に駆け出す。地下牢は一瞬で戦場の緊張へと変わった。
――ピキッ。
乾いた音。
間者の首元に走った亀裂が、蜘蛛の巣のように広がる。
「……そろそろ時間か」
青白い光が明滅する。
「お嬢ちゃんを一度見ておきたかったが……無理なようだ」
ルベルの視線が鋭くなる。
亀裂は手足へ、顔へと走り、焼けた皮膚の下から淡い光が滲み出す。
「どういうことだ……!死ねないように――」
言葉が止まる。
手の甲に刻まれていた二匹の蛇が、静かに崩れ落ちた。
ヴァーミリオンの目が見開かれる。
「……器、か」
ひび割れた口元が歪む。
「この身体は、私には小さすぎた」
亀裂が限界まで走る。
「次に会う時は――是非、直接」
そう言った瞬間、身体は音もなく崩れ落ち、砂となって床へ散った。
青白い光だけが、最後まで残っていた。
最後の言葉と同時に、身体が崩れた。
砕ける音はない。ただ、さらさらと砂となり、床へ落ちていく。
地下牢に残ったのは、焦げた匂いと沈黙だけだった。
ルベルは崩れゆく砂を睨みつけ、舌打ちする。
「……くそ。早く見つけ出せ!」
重い扉が開き、階段を駆け上がる足音が石壁に反響する。すでに上階では兵の怒号が飛び交い、警鐘が低く鳴り始めていた。戦の予兆だ。
「先生はここで待機してくれ。何かあれば即座に指示を」
振り返らずに告げる。
「ああ」
ヴァーミリオンの声は低い。
「若様――これは遊びではない。失敗は、公爵家の終わりに直結します」
一瞬だけ視線が交わる。
ルベルは短く頷いた。言葉は要らない。
足元に魔法陣が展開する。青白い光が石床を走り、圧縮された魔力が空間を歪ませた。
次の瞬間、視界が裂ける。
領地外壁の上へと転移した。
冷たい夜風が頬を打つ。
城壁では兵士たちが慌ただしく走り、石床の隙間や塔の影を探っている。だが数も場所も分からない。間者はすべてを抱えたまま砂となった。
ルベルは城外へ視線を向ける。
森が揺れている。
風ではない。もっと重いものだ。
地鳴りが、かすかに足裏へ伝わる。
まだ何も見えない。それでも確実に“何か”が近づいていた。
遠くで低い唸り声が響く。
それは、始まりの音だった。




