闇に溶ける爪痕
見に来てくださりありがとうございます。
今回、残酷な描写あるので苦手な人は飛ばしてください。
日は暮れかけ、空は赤く染まりながら、次第に濃い闇へと溶けていった。
屋敷の外庭には人影も少なく、昼の喧騒が嘘のように静まり返っている。
石塀の上に、小さな影があった。
冷たい風が吹き抜け、虎柄の毛並みを揺らす。
猫の姿をしたモミジは、低く身を伏せ、尻尾をゆっくりと揺らした。
ひくり、と鼻が動く。
土と草、湿った石の匂い。
そこに混じる、人間特有の油と布の匂い。
――覚えがある。
栗色の瞳が、夕闇の中で静かに光った。
ルミエルを陥れた使用人たちだ。
ブローチを渡したメイド。
新しい服を破いたメイド。
悪意をもって、馬車の窓を開けた御者。
小さな身体の奥で、獣の本能が静かに蠢く。
一度刻まれた匂いは、猫の記憶から決して消えない。
モミジは音もなく石塀から地面へ降りた。
爪が石を噛む音すら、夜に吸い込まれていく。
怒りは鳴き声にならない。
ただ、追うべき匂いだけが、はっきりとそこにあった。
匂いを嗅ぎ分け、モミジは地面を強く蹴った。
小さな身体が弾かれるように走り出し、夕闇の庭を音もなく駆け抜ける。
辿り着いた先には、馬車をしまうための倉庫があった。
木造の大きな扉。その隣には、簡素な造りの馬小屋が併設されている。
匂いは、ここで一度、分かれていた。
モミジは迷いなく跳び上がり、馬小屋の低い窓枠に軽やかに飛び乗る。
中を覗くと、そこにいたのは数頭の馬だけだった。
干し草の匂い。
獣の体温。
鼻をくすぐる、穏やかで重い呼吸音。
――違う。
人間の悪意の匂いは、ここにはない。
モミジは音を立てずに窓から降り、馬小屋を後にする。
その足は自然と、隣の倉庫の前へと向かっていた。
そこから、はっきりと――
探している匂いが、濃くなっていた。
倉庫の入り口に、モミジはそっと足を踏み入れた。
中は薄暗く、夕暮れの光が高い窓から斜めに差し込んでいる。
――いる。
明らかに、人の気配があった。
倉庫の中には何台もの馬車が並べられ、壁際には整備用と思しき器具が無造作に吊るされている。
木箱は開け放たれ、工具や部品がはみ出したまま放置されていた。
油と鉄の匂い。
それに混じる、人間の汗の匂い。
モミジは気配を殺し、影から影へと移動する。
猫の身体で身を低く保ったまま、匂いの濃い方へ静かに歩み寄った。
一台の馬車のそばで、男が屈み込んでいた。
車輪を回し、何かを確かめるように手を動かしている。
――今や。
一瞬、空気が揺らぐ。
次の瞬間、そこにいたのは猫ではなく、人の姿のモミジだった。
音もなく、男の背後に立つ。
「なんや。ちゃんと整備してるんやな」
低く、落ち着いた声。
男は飛び上がるように振り返り、そのまま床に尻もちをついた。
工具が乾いた音を立てて転がる。
「誰だ?」
倉庫に響いた男の声は、わずかに上ずっていた。
薄暗い空間に、油と鉄の匂いが重く漂う。
モミジの鋭い栗色の瞳が、座る男を捉えていた。
歳はそれなりに取っている。
手を見れば、長年の仕事で皮が厚くなっていた。
――それだけで、真面目に働いてきた人間だと分かる。
「名乗る必要あらへん。今からお前は死ぬんやから」
男は床に座ったまま、背中を少し丸めてモミジを見上げる。
手元の工具に目をやるが、座ったままではどうすることもできない。
小さくヒィ、と声を漏らすだけで、体を動かすことすらできない。
モミジは静かに、男の背後には回らずとも、視線だけで圧をかけた。
人間の姿で立つその存在感は、男の恐怖を際立たせる。
「持ったところで敵わん。
お前に、ここの騎士以上の強さがあれば、勝てるかもしれんな」
低く、感情のない声。
男は床に座ったまま、ただ息を呑むしかなかった。
「ま、待ってくれ…殺したのがバレたら…お前も困るんじゃないのか?」
男の声は、床に座ったまま必死に震えていた。
薄暗い倉庫に、油と鉄の匂いが重く漂う。
工具や木箱が散らばる床に、男の影が小さく揺れている。
モミジは男の言葉に一瞬、固まった。
頭の中にルミエルの顔が浮かんだからだ。
バレたら、ルミエルは怒る。
それどころか、幻滅さえするだろう。
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
自分の行動が、正義と矛盾していることを痛感した。
「せやな…バレるのはあかん…」
男はゆっくりと立ち上がり、距離を少し取りながら言葉を選ぶ。
「そうだろう? お前が勝手にしてるなら…お前のご主人様はガッカリするんじゃ無いか?」
モミジはじっと、その背中を見下ろす。
人間の姿で立つ体は静かだが、その瞳には確かな冷たさが宿っていた。
「なら、殺さんは…お前、元老側やろ?」
男は一度立ち上がり、わずかに息を呑む。
倉庫の薄暗い光が、床や工具の影を揺らす。
金属の匂いと油の匂いが混ざり、緊張感を一層高めていた。
「そ、そうです…しかし、ルベル様にも忠誠はあります」
忠誠――その言葉は、モミジの耳に軽く響いた。
言葉の重みは感じられず、ただの口先に聞こえた。
モミジは素早く男の手首を掴み、肩を押さえる。
小さな手だが、力は十分に伝わる。
男は自分の身体に触れるその手に、思わず油断してしまった。
思ったより力が強いわけではない――
感覚だけで、それが分かる。
「その主人が宣言した言葉の意味も理解出来へんのに、忠誠があるとわな…」
低く、冷たい声。
倉庫の暗がりで、モミジの威圧感だけが男を押し潰すように際立っていた。
男はモミジの言葉を聞き、ふと――
ある少女の姿を思い出した。
その瞬間、表情が変わる。
恐怖に引きつっていた口元が、わずかに歪んだ。
「なんだ、お前は……あの奴隷の小娘のペットか?」
モミジの手は、すでに男の手首と肩を押さえていた。
逃げ場はない。
それでも男は、自分がまだ優位だと勘違いしたまま言葉を吐く。
次の瞬間――
モミジは肩を内側に捻る。
軽い音と共に、関節が外れた。
「ぎゃあああああっ!」
男は突然の激痛に悲鳴を上げる。
その声は倉庫の中で反響し、何倍にも膨れ上がった。
「いちいち喚くなや。肩外しただけやん」
低く、冷たい声。
男は膝を折り、床に崩れ落ちる。
目に涙を滲ませ、口の端から涎が垂れていた。
「おっちゃん。人間て面白いんやで」
モミジは、まだ手首を離さない。
「身体の仕組みが分かってれば……
関節なんか、こうして簡単に外せる。
もっと言うなら――手一つで殺すことも容易いやで」
この時代では、まだ解明されていない知識。
だがモミジは、人間の弱点を把握していた。
それはすべて、
前世の記憶の欠片の一つだった。
モミジは、まだ話せそうにない男を一瞥しながら、静かに口を開いた。
モミジは、まだ言葉を紡げそうにない男を一瞥し、淡々と告げた。
「今からするんは、殺しでも警告でもない。
――躾や。人を大人しくするん、得意なんや」
低く、湿った笑みが浮かぶ。
「今後、嬢ちゃんに手ぇ出したらどうなるか……身体に覚えさせるだけや」
そう言って、モミジは足元に転がっていた工具に手を伸ばした。
ペンチだった。
何度か、確かめるように握る。その金属音に、男の喉がひくりと鳴る。
「道具ってな、使い方次第で正直や。
……拷問に向いとるもんは、ちゃんと理由がある」
男は床を引きずるように後退りし、見上げる顔は血の気を失っていた。
「や、やめてくれ……! もうせぇへん……!
ル、ルミエル様には……二度と……!」
命乞いの言葉は震え、形になりきらない。
「……なんや、ちゃんと名前は覚えとるやん」
モミジはそう言いながら、男の手元へと静かに近づく。
ペンチが、逃げ場のない距離まで寄せられた瞬間――男の呼吸が乱れた。
「許してくれ……」
「せやけどな」
モミジは目を細める。
「おっちゃん、自分が何したか、ほんまには分かっとらんやろ。
この場で頭下げたら済む思とる顔や」
男の思考が、必死に逃げ道を探す。
その浅い焦りは、モミジには手に取るように伝わっていた。
「……やっぱりなぁ」
ぽつりと、独り言のように漏らす。
「獣人の猫は、詰めが甘いんかもしれへん。
次に生まれ変わるなら……肉食獣の方が、向いとったかもな」
金属が、わずかにきしむ音がした。
男の喉から、声にならない悲鳴が零れ落ちる。
男は息を詰まらせ、荒く呼吸を繰り返した。
指先に伝わる、冷たい金属の圧。
それが何を意味するか――考える前に、身体が理解してしまう。
モミジが、少しでも力を込めれば。
心臓が跳ね、全身が熱を帯びたように感じられた。
「……は、反省してる……頼む……」
懇願の言葉は、途中で掠れる。
だがモミジは答えない。
次の瞬間、ためらいのない動きで腕を引いた。
声にもならない苦痛が襲いかかる。
モミジは悪魔の割には、痛みに耐性がない様にも映った
「……大袈裟やな」
モミジは興味なさそうに呟く。
「オレなんか、死ぬほど受けたで。こんなん」
床に、何かが転がる音がした。
男はそれを直視できず、ただ震えるだけだった。
「まぁ……今回はな」
モミジの声が、少しだけ軽くなる。
「条件次第で、見逃したってもええ」
その一言に、男の瞳に必死な光が戻る。
「な、なんでもする……! だから……!」
「ほな、決まりや」
モミジはしゃがみ込み、視線を合わせる。
「お前は間者になれ。
今後、お前の主人の動き……全部、オレに流せ」
男は言葉を失った。
命乞いの先に出てくる条件としては、あまりにも想定外だった。
男は頷くしかなかった。
モミジは返事を待たず、その態度だけで十分だと判断する。
何事もなかったかのように猫の姿へと戻り、
小さな影は駆け足で倉庫を後にした。
闇に溶けるように、その気配は完全に消えた。
最後まで読んでいただきありがとうございます
このエピソードでモミジ編に一区切り打ちます。
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