過去と現在の狭間
ルベル達がいなくなった部屋は、耳鳴りがするほど静かだった。
モミジは一人、ソファーに沈み込み、身じろぎもせず座り続ける。
逃げ場のない静寂が、否応なく内側へ意識を引きずり込んでいった。
呼吸は浅い。
それに反して、心臓だけが異様な速さで脈打っている。
目を閉じた瞬間、景色が反転した。
黒髪の少年が、鉄格子の檻の中に立っている。
痩せ細った身体。光の届かない牢。
――前世の、自分だ。
そう理解した途端、その姿が耐えがたいほど惨めに映った。
コツ、コツ、と。
牢屋の外から、規則正しい足音が近づいてくる。
「今日も生きてるな。食事の後は訓練だ」
淡々とした声。
少年はゆっくりと顔を上げた。
感情を削ぎ落とした鋭い視線が、男を射抜く。
そこにあったのは、憎悪だった。
かつて宿っていた――
助けを求める、幼い瞳の面影は、どこにもない。
「分かっとる」
少年の声は、諦めとも苛立ちともつかない、乾いた音だった。
「それじゃ、早く食え」
差し出されたのは、冷え切ったパンと、味のほとんどしないスープ。
それが今日の食事だった。
少年は、男が背を向けて去っていくのを、ただ黙って見送る。
睨むことすら、もうしなかった。
その様子を眺めながら、モミジは拳を強く握り締めていた。
――どうして。
「なんで……戦わないんだ」
押し殺した声が、漏れる。
少年はゆっくりと振り向き、モミジを見た。
「そんなもん、分かっとるやろ」
自嘲するように笑い、
自分の首元を指で示す。
そこに嵌められた首輪が、
ピコ、ピコ、と赤く点滅していた。
「それが、なんや」
モミジは吐き捨てるように言った。
今、自分が生きている世界に――
こんな形の拘束具は存在しない。
少年は呆れたように、深く息を吐く。
「……そんなことも忘れたんか」
苛立ちと諦めが混じった声。
「アイツに刃向かったらどうなるか。
首が跳ね飛ぶんや。目の前で、見とるやろ」
その言葉が終わるのと同時に、
記憶が、唐突に再生された。
悲鳴。
閃光。
次の瞬間――
刃向かった子供の首元が、
赤く光った。
爆ぜる音と共に、肉片が飛び散り、
身体だけが床を転がる。
少年は、それを無表情で見下ろしていた。
見たことのない光景に、モミジは反射的に口元を押さえた。
喉の奥がひくりと引き攣り、息がうまく吸えない。
視界が滲み、足元の感覚が曖昧になる。
身体が、船にでも乗っているかのように大きく揺れた。
――まずい。
そう思った瞬間、
視界の奥で、少年が立ち上がった。
気づけば、すぐ目の前まで近づいている。
「だから、助けを待ってた……」
掠れた声。
唇が、わずかに震えていた。
「……なのに、誰も来ぇへんかった」
その口元が、歪む。
「せやから、恨むことにしたんや」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
胸の奥を、鈍い衝撃が叩き抜く。
「助けに来ないでくれ……」
声が低くなる。
「オレは……大人になっても……
結局、救われへんから」
次の瞬間、
少年の輪郭が崩れた。
骨が軋むような音。
身体が引き伸ばされ、関節の位置がずれていく。
目の前で、時間だけが暴走していた。
気がつけば、
モミジの視線よりも高い位置から、男が見下ろしている。
――三〇代。
皺の刻まれた顔。
濁った瞳の奥で、獣のような光が揺れていた。
空気が変わる。
皮膚に、冷たい何かが這い回る感覚。
背中を、無言の圧が押し潰してくる。
モミジは、思わず息を呑んだ。
それは、ルベルの殺気とは違う。
覚悟でも、使命でもない。
世界そのものを恨み尽くした者の殺気だった。
男は、喉の奥から絞り出すような低い声で言う。
「だから――」
一歩、前に出る。
「何もかも、道連れにした」
視線の先。
床に転がる、いくつもの身体。
血の匂いが、鼻を刺す。
赤黒い水溜まりが、ゆっくりと広がっていた。
男は、淡々と告げる。
「……それも全部、
お前が殺したんや」
男が言葉を放った、その瞬間。
モミジの内側で、
何かが音を立てて崩れ、溶け合う感覚が走った。
足元の地面が、わずかに揺らぐ。
辺りの景色は薄暗く、輪郭が曖昧で、
まるで誰かの記憶の底に立たされているようだった。
空気は重く、息を吸うだけで胸が痛む。
次の瞬間――
目の前に立っていた男の姿が、
霧が風に散るように、静かに掻き消えた。
その代わりに。
男の思考が、
冷たく濁った水のように、モミジの中へ流れ込んでくる。
「せや……せやからや……」
声は耳ではなく、
直接、頭の奥に響いてきた。
「許したら、あかん」
胸の奥で、何かが軋む。
それは怒りとも、諦めともつかない、
長い年月を耐え抜いた末の感情だった。
「オレは……もう解放された……」
一瞬、声が弱まる。
「……でも……」
途切れた言葉の隙間に、
別の映像が割り込む。
健気に笑う、ルミエル。
汚れを知らないその表情が、
この暗い記憶の中では、異様なほど眩しかった。
モミジの喉が、ひくりと鳴る。
「あの子は、まだ……」
声が、微かに震える。
「……救われてへん。
救わな、あかん」
その言葉に呼応するように、
モミジの中で、復讐心が形を変えていく。
かつて向けられていたのは、
前世の主人や、調教師。
鎖を握っていた者たち。
だが今――
その刃は、静かに向きを変えた。
ルミエルを虐げる、大人たちへ。
ソファーに座っていたモミジが、ゆっくりと目を開けた。
天井が視界に入る。
だが、その輪郭はどこか曖昧で、現実から一枚隔てられているようだった。
瞬きを一つ。
胸の奥に、重く冷たい感覚が沈んでいる。
――違う。
これまでのように、周囲の温度を測るような、柔らかな視線はもうなかった。
そこにあったのは、
感情を削ぎ落とした冷たい瞳。
空気が張り詰める。
わずかな動きにも反応できるよう、身体が自然と力を帯びていた。
獲物を前にした獣の眼。
だが、衝動だけに支配されたそれとは違う。
計算と覚悟を孕んだ、危うい光だった。
モミジは、ゆっくりと腰を上げる。
身体は驚くほど素直に動いた。
考えるよりも先に、筋肉が正解を選ぶ。
重心の置き方。
足の運び。
呼吸の合わせ方。
記憶の欠片が戻ったことで、
身体の使い方だけが、先に蘇っていた。
次の瞬間、
モミジの輪郭が静かに崩れる。
骨格が縮み、衣服が落ち、
人の形は音もなくほどけていった。
そこに現れたのは、
茶色と白の毛を持つ、小さな虎柄の猫。
背中から尾にかけて走る縞模様が、
まるで幾重にも刻まれた過去の傷のように浮かび上がる。
窓辺へと跳び乗り、
夜の外を静かに見据えた。
月明かりを受け、
その瞳が淡く光る。
栗色。
燃え盛る怒りでも、
完全な闇でもない。
深く沈み、
決して冷めることのない色。
その奥に宿るのは、
かつて人であった記憶と、
守るべきものを失わない意志。
次の刹那、
虎柄の猫は音もなく窓を抜け、夜へと溶けていった。
ここで、モミジの過去編はいったん一区切り、という感じです。
次回は、今のモミジについてもう少し書いていこうと思っています。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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