初めての安心な香り
目を覚ましてから、いくつもの日が過ぎた。
目覚めた直後は高い熱を出して倒れ、その後も体力が戻らず寝込む日が続いた。
ようやく落ち着いたと思えば、今度は警戒心の塊だった。近づこうものなら肩を強張らせ、手を伸ばせば猫のように威嚇する。
指先が触れた瞬間、ビクリと震え、反射的に引っ掻いてくることさえあった。
髪は乾ききった泥で固まり、体もまともに拭けないまま。
可愛い顔立ちも、白い肌も、煤けたようにくすんで見えた。
このままでは病気にもなりかねない。
エルは思い悩んだ末、甘い焼き菓子を手にルミエルをお風呂へと誘導した。
「ほら、怖くないから。少しだけでいいから」
お風呂場の扉の前でルミエルは一瞬ためらったが、菓子につられて中へ入る。
服を脱ぐまでは、思いのほかすんなりだった。
けれど、湯気が立ちのぼる湯船を見た瞬間、ルミエルの表情が一変した。
「……っ!」
目を見開き、後ずさり。
次の瞬間、浴室の隅に逃げ込み、小さく丸まって震え始めた。
その顔には、ただの恐怖ではなく――何か過去の痛みに怯えるような影があった。
「ルミエル、大丈夫だよ……痛くしない」
エルはできるだけ穏やかに声をかけ、桶にぬるま湯を汲んで慎重に肩へとかけた。
だが、その瞬間――
「――あっ……!!」
ルミエルの体が跳ねた。
湯が傷口に染みたのだ。
次の瞬間、彼女は激しく暴れ出した。
腕を振り回し、湯桶を払いのけ、逃げようとする。
濡れた床で足を滑らせながらも、必死に壁際へと逃げる姿は、まるで罠にかかった小動物のようだった。
「待って!痛いのは少しだけだから……!」
エルが手を伸ばすが、ルミエルはびくりと体を強張らせ、涙目で睨み返す。
湯気の中で彼女の頬を伝う雫が、涙なのか湯なのかも分からない。
それでも、汚れと血が混じる水が流れ落ちていくにつれ、ようやくルミエルの肌が本来の白さを取り戻していった。
湯気が立ちこめる浴室の中、ルミエルは痛みに耐えきれず暴れていた。
腕を振りほどこうとし、濡れた床で足を滑らせる。
エルは何とか押さえようと、必死にその細い肩を抱きとめた。
「落ち着いて、ルミエル!もう少し、もう少しだけでいいから!」
しかしルミエルは怯えた子猫のように身をよじり、掴まれた腕を振るわせる。
髪は濡れて頬に張り付き、涙と湯が混じりあって小さな顔を濡らしていた。
その姿を前に、エルもどうしていいか分からず翻弄される。
「大丈夫、大丈夫だから――っ!」
その時――。
勢いよく、ドンッ! と音を立てて浴室のドアが開いた。
一瞬、湯気が外へ押し出される。
そこに立っていたのはルベルだった。
「――何してやがる!」
怒号が響いた。
ルベルの目は剣のように鋭く光り、空気が一瞬にして張り詰める。
彼の視線の先には、裸で怯えるルミエルと、彼女の腕を掴むエルの姿。
その光景は、どう見ても誤解を招くものだった。
「ルミエルを襲う気か!」
ルベルの声には、怒りだけでなく、明確な殺意が混じっていた。
その一歩ごとに、床板が軋むような圧がある。
エルは慌てて両手を上げ、言葉を絞り出した。
「ち、違います!こんな幼児を襲うほど、俺は女に飢えてないですよ!」
「何だと?」
ルベルの声が低く沈む。
湯気の向こうで、その瞳は燃えるように赤く光って見えた。
「そしたら何か?――ルミエルは可愛く無いとでも言うのか?」
一瞬、空気が凍りつく。
怒気と殺気が混じったルベルの問いに、エルは目を見開き、即座に叫んだ。
「可愛いですよ!誰が見たって可愛いです!
でも主君、少し落ち着いてください!頭も体も綺麗にしないと、ルミエルがまた病気になりますよ!」
その声には焦りと必死さが滲んでいた。
ルベルは睨みつけたまま、しばらく何も言わなかった。
ただ、震えるルミエルの姿を見て――ゆっくりと息を吐く。
その間にも、エルの手の中でルミエルは怯えたまま、目を閉じて震えていた。
湯気が静かに三人を包み込み、張り詰めた空気だけがそこに残っていた。
ルベルは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
怒気を含んだ空気がわずかに緩む。湯気が彼の肩越しに流れ、濡れた床に静かに広がっていった。
「……言いたいことは分かった。」
低く、しかしもう怒りを抑えた声でそう言うと、ルベルは視線をルミエルに向けた。
怯えきった彼女は、浴槽の隅で膝を抱え、濡れた紺色の髪を前に垂らして小さく震えていた。
その姿はまるで、打たれた小鳥のようだった。
「ただ……まだ俺たちに慣れてない状態で。しかも、なんでよりによってお前が風呂に入れるんだ?」
その問いには、わずかな苛立ちと、言葉にできない保護の感情が混じっていた。
ルミエルの肩がその声に反応してぴくりと揺れる。
ルベルの声音がどれだけ優しくても、まだ彼女には“怖い音”にしか聞こえない。
「それは――主君にやらせるわけにはいかないですよ。」
エルは湯気の中で背筋を伸ばし、しっかりと言葉を返した。
「従者である俺がやることですよ。主君の手を煩わせるべきことじゃありません。」
ルベルはしばらく無言のままエルを見つめた。
その目には、責めるよりも“信じたい”という複雑な感情が浮かんでいた。
やがて、静かにルミエルのそばへ歩み寄る。
「……手を離せ。」
エルが一瞬迷いながらも、ゆっくりとルミエルの腕を放した。
自由になった途端、ルミエルはびくりと体をすくませ、そのまま床の上で小さく身体を丸める。
湯が滴り落ち、白い肌に赤い傷跡が浮かび上がった。
その痕はまだ新しく、いくつかは痛々しく腫れていた。
ルベルはその様子を黙って見つめ、片膝をつくと視線を合わせるように身を低くした。
彼女は怯えたまま、濡れた髪の隙間からちらりと彼を見上げる。
言葉はない。ただ、呼吸のたびに小さく肩が震えるだけだった。
「……俺がやる。」
静かな声だった。
「見る限り、洗い終わったんだろう?」
エルは軽く頷いた。
「大体は終わりました。ただ……やはり生傷もそうですが、古い傷跡が酷くて。
正直、消せるかどうか……」
ルベルの眉がわずかに寄る。
彼の目が、痛みをこらえている少女の小さな背中を捉える。
その胸の奥に、怒りとも悲しみともつかない感情が沈んだ。
「……分かった。」
そう呟くと、ルベルはゆっくりと立ち上がった。
「とりあえず、タオルを持ってこい。いつまでもこの状態じゃ、また風邪をひく。」
エルは無言で頷き、浴室を後にする。
扉が閉まると、静寂が戻った。
残されたルベルは、ルミエルの前でそっとしゃがみ込み、彼女の肩に触れるでもなく、ただ見守る。
湯気が静かに二人を包み、しばらくの間、誰の声も響かなかった。
エルがタオルを手に戻ってくると、浴室の湯気はまだ薄く漂い、静かな空気が満ちていた。
ルベルは振り返りもせず、そのタオルを受け取ると、濡れたルミエルの肩へそっと掛けた。
それはまるで、壊れ物を扱うような優しい仕草だった。
白い布が彼女の小さな身体を包み込むと同時に、ルベルはそのまま自然な動きでルミエルを抱き上げた。
驚いたように一瞬だけ身体が強張ったが、次の瞬間――不思議なことが起きた。
ルベルの腕の中から、柔らかな風がふわりと吹き出したのだ。
まるで春先の陽だまりに包まれたような温もりが、ルミエルの全身を包み込む。
温風は彼女の濡れた紺色の髪を撫でながら、ゆっくりと乾かしていく。
肌に残っていた水滴もいつの間にか消え、淡く紅潮した頬が静かに光を帯びていた。
その心地よさに、ルミエルの小さな身体から力が抜ける。
恐怖と警戒で張り詰めていた瞳が、わずかに和らいでいくのが分かった。
小さな手がルベルの服をきゅっと掴む。
その仕草は言葉こそないが――「安心」という気持ちを静かに伝えていた。
ルベルの腕の中に収まるのは、これで三度目。
最初は拒絶、次は怯え。そして今回は――心地よさ。
少しずつ、ほんの少しずつだが、確かに変化していた。
ルベルはその様子を感じながら、口を開いた。
「……もちろん服は用意してあるんだろうな?」
その問いに、浴室の入口で見守っていたエルが、肩をすくめながら答える。
「もちろんです。ただ……主君、こんなところで高等魔法を使わないでもらっていいですか?」
その言葉に、ルベルは軽く片眉を上げた。
「乾かすだけだ。別に大した魔法じゃない。」
「それでも、風呂場でやる奴はいませんよ……」
エルは半ば呆れたように小さくため息をつき、持ってきた服を差し出した。
それは淡い桃色の柔らかな布地で作られた寝間着だった。
首元と袖口には白いレースの縁取りが施され、胸元には小さなリボンがいくつも結ばれている。
子どもらしい愛らしさと、穏やかな温もりを感じるデザインだ。
「寝やすいように、柔らかい生地にしてあります。リボンは……まあ、俺の趣味じゃないですが。」
「いいだろう。似合うと思う。」
ルベルはそう呟き、腕の中のルミエルを見下ろした。
まだ言葉を知らない少女は、まぶたを少し伏せながら、静かにルベルの胸元に顔を埋めている。
湯気の中で、彼女の髪がすっかり乾いて光を帯び、淡く揺れていた。
ルベルはタオルで最後にルミエルの頬の水滴を拭うと、エルから受け取ったパジャマを手に取った。
柔らかな桃色の布地を、そっとルミエルの頭に通してやる。
まだぎこちなく動く彼女の腕を導くように袖へと通し、ボタンを留め終えると、ふわりとリボンが胸元に揺れた。
「よし。」
ルベルが軽く息を吐きながら彼女を両手で支え、ゆっくりとその場に立たせる。
濡れていた髪はすっかり乾き、ふわりと広がった紺色が光を受けて淡く輝いた。
夜空の深い群青を思わせるその髪の中に、金色の瞳がきらりと瞬く。
まるで星が夜を飾るように。
ルベルは思わず目を細めた。
「……ルミエル、可愛くなったな。」
その言葉に、ルミエルは一瞬だけ肩を震わせた。
まだ“褒める”という意味を理解できてはいない。
けれど、彼の声に宿る優しい響きと、そっと頭に置かれた大きな手の温もりに、何かが伝わったのだろう。
小さく瞬きをして、拒むように逃げることはしなかった。
ルベルの掌の下で、ふわりとした髪が指に触れた。
彼女の体温が確かにそこにある。
今まで感じていた“怯え”よりも、“戸惑いながらも受け入れている”ような静かな反応だった。
「本当に可愛くなりましたね。」
エルが腕を組んで、にやりと笑いながら言葉を続ける。
「これで、もう少し肉付き良くなれば――そこら辺のご令嬢よりも可愛いですよ。」
「ふっ……そうか。」
ルベルはどこか嬉しそうに口元を緩めた。
普段なら軽口を流す彼が、今日はその言葉を素直に受け取った。
胸の奥に小さな誇らしさのようなものが灯る。
何を話しているのか、ルミエルには分からない。
けれど、二人の声の調子が柔らかく、穏やかなものだと感じ取ることはできた。
言葉にならない安心感が、胸の奥で小さく弾ける。
それは心のどこかがくすぐったくなるような、温かい気持ち。
ルミエルは無意識のうちに、小さく息を吐き、金の瞳を細めた。
その仕草を見たエルが小声で「ほら、笑ってる」と呟くと、ルベルはほんの少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「部屋に戻るか。処方された薬を塗らないとな。まだ足の裏も痛いだろうから、しばらくは歩くなよ」
ルベルの言葉に、ルミエルは小さく頷くようにまぶたを動かした。
湯上がりの頬はうっすらと紅く、紺色の髪は風に乾かされてふわりと揺れている。
リボンのついた淡い色のパジャマが彼女の小さな体を包み、湯の香りがほのかに残っていた。
エルは手に薬瓶を持ち、後ろから二人を追う。
三人の足音だけが廊下に響き、外では夜風が木々を撫でていた。
部屋に戻ると、ルベルはベッドの端に腰を下ろし、ルミエルをそっと横に寝かせる。




