賭けられた未来
バタバタと大きな足音が、廊下から響く。
静かな部屋に、嵐が近づいてくる――そんな予感が走った。
次の瞬間、ドアが壊れる勢いでバタン!と開かれる。
ルミエルはその音に、思わず肩を跳ねた。
胸の奥が、嫌な形でざわつく。
エルヴィアンは、感情の読めない冷静な目で、
中に飛び込んできたルベルを黙って見ていた。
ルベルは周囲を一瞬だけ見回すと、
すぐにルミエルを見つけ、迷いなく駆け寄る。
「ここにいたか!」
勢いのまま、ルベルはルミエルに抱きついた。
そのまま抱き上げ、自然と視線はエルヴィアンへ向かう。
ルミエルを腕に抱いたまま、ルベルは一歩距離を取った。
その一連の動きに、エルヴィアンは小さく息を吐く。
「若様。そんな目で見ないでください。
お嬢様が、自ら来られたのです」
ルベルは疑うような目でエルヴィアンを一瞥し、
それからルミエルへと視線を移した。
「……今のは、本当か?」
ルミエルは、ゆっくりと頷く。
「気になったことがあって……。
それに、エルヴィアンさんは、優しい人だよ」
その言葉に、ルベルは思わず目を見開いた。
妙な沈黙が、部屋に流れる――
その空気を破るように、ルベルが口を開いた。
「……なにか、されたか?
言ってくれたら、俺がエルヴィアンを黙らせる」
ルベルはエルヴィアンを軽く睨む。
その様子を、抱かれたまま見ていたルミエルは、
そっと両手でルベルの頬を包んだ。
そして、逃がさないように顔を自分へ向けさせる。
「ルベル……ダメ。
エルヴィアンさん、何もしてない」
真剣な瞳が、真正面からルベルを射抜いた。
ルベルは、自然と視線を逸らす。
……少しだけ、間を置いて。
頬に、うっすらと熱が浮かんだ。
エルヴィアンは、その光景を眺めながら、
ふっと柔らかく微笑んだ。
「いやはや。
お嬢様は、もう若様を手玉に取っておられるようですね」
揶揄うような口調に、ルベルの目がきっと細くなる。
「何を言っている。
手玉になど、取られていない」
そう否定する声は、わずかに揺れていた。
「そうは言われましても……」
エルヴィアンは肩をすくめる。
「照れておいでで。
これは、なかなか珍しい」
エルヴィアンの「珍しい」という一言に、
ルミエルは思わずルベルの顔を見た。
頬を赤らめたルベルを見るのは、これが初めてだった。
その意外な表情に、ルミエルの表情も自然と柔らぐ。
それに気づいたルベルは、すぐにいつもの険しい顔に戻した。
「ルベル……いつも、さっきみたいな顔してたら……
きっと、みんな話しかけてくれるよ」
その言葉に、ルベルは眉間を寄せる。
「……めんどくさいだけだ。
俺は、ルミエルだけでいい」
短く言い切るその声には、照れと本音が滲んでいた。
エルヴィアンは、空気の変化を察したように、
そっとソファーから立ち上がる。
そして、いつになく真剣な眼差しで、ルベルを見つめた。
ルベルは、その真剣な眼差しに応えるように、
そっとルミエルを床へ下ろした。
「若様。私はすでにお嬢様と話しました。
……そのうえで、認めてもよいと判断しました」
一瞬、ルベルの目が見開かれる。
視線は、自然とエルヴィアンの右腕へ向いた。
先ほどまでの不自由さが嘘のように、
その動きは滑らかだった。
「……治せなかった腕を、治してもらったからか」
エルヴィアンは、軽く右腕を動かしながら、
口元に手を添える。
「さすがですね、若様。
ですが――その程度で私が心を決めるほど、
軽い男だと思われては困ります」
言葉が落ちたあと、しばし沈黙。
二人の間に流れる空気は、
刃を抜かぬまま向け合うような、
張り詰めた静けさを帯びていた。
「……だから、不思議なんだ」
ルベルは静かに言った。
「簡単に人を認めないエルヴィアンが、
この短い時間でルミエルを支持する。
腕を治してもらった――それ以上の答えを、
見つけたということか?」
そう言って、ルベルはちらりとルミエルを見る。
その視線に気づいたルミエルは、
無意識に背筋を伸ばした。
その小さな仕草に、
ルベルの目がわずかに柔らぐ。
「若様」
エルヴィアンが低く声を落とす。
「今は真剣な話をしているのですよ。
それ以上、甘い顔をなさっては困ります」
少しだけ調子を崩されたように、
エルヴィアンはルベルをたしなめた。
ルベルは、ばつが悪そうに視線を戻す。
「……それで?」
エルヴィアンは一拍置いて、答えた。
「ありました。
お嬢様の――根幹を、見せていただいたのです」
「……根幹とは?」
ルベルは低い声で、エルヴィアンに問い返した。
「お嬢様の未来に、賭けようと思ったのです」
エルヴィアンは、静かに言葉を続ける。
「近い将来、お嬢様が成果を示されたその時。
私は改めて、次期当主としてご挨拶いたしましょう」
あまりに抽象的な答えに、
ルベルはわずかに眉を寄せる。
「……正直、よく分からんが。
だが、分かった」
それだけ告げると、話を打ち切った。
ルミエルは、ほっとしたように
エルヴィアンへ向かって微笑む。
その視線を受け止め、
エルヴィアンもまた、わずかに口元を緩めた。
だが次の瞬間。
その二人の間へ、
ルベルがすっと割って入る。
「……話は、まだあります。」
エルヴィアンは一度咳払いをしてから、
表情を引き締めた。
「ああ、話してみろ。」
「獣人の彼に、今から会わせていただけませんか?」
エルヴィアンの唐突な提案に、
ルベルは小さく息を吐いた。
「……なぜだ。
俺たちと、まだろくに話もしていない。
モミジを、エルヴィアンに会わせる理由は?」
問いかけは静かだが、拒絶の色は濃い。
エルヴィアンは一瞬だけ間を置き、
あえて核心を伏せた言い方を選んだ。
「お嬢様が、どれほど彼の心を掴んでいるのか。
それを、この目で確かめたいのです」
「それは……ルミエルにも会わせる、という意味か?」
ルベルの問いに、
ルミエルは背後で小さく息を呑み、
思わず目を輝かせた。
その変化を、エルヴィアンは見逃さない。
……やはり
内心でそう呟きながら、
彼は静かに心を決める。
――必ず、ルベルの許可を得ようと。
「はい。お嬢様と合わせて。それでも落ち着かないようであれば、彼をお嬢様に使わせるのは難しい、と判断いたします。」
エルヴィアンの言葉に、ルミエルの胸はぎゅうっと締め付けられた。
どこまで本気なのか、まったくわからない──その思いだけが、恐怖となって心を押し潰す。
眉が下がり、指先が小さく震える。
その様子を見て、ルベルは無言で頷いた。
「試してみる価値はあるだろう。もしモミジが戻らなければ……それまで、ということだ。」
冷たい言葉が、胸に深く刺さる。
大切なものを失うかもしれないという恐怖が、喉を詰まらせ、息が止まりそうになる。
思わずルベルの袖を握りしめ、声を震わせる。
「もし、戻らなかったら……本当に、会えなくなるの……?」
胸の奥が押し潰されそうで、涙がにじむ。
必死にルベルの表情を探すルミエルの目に、不安と恐怖が映っていた。
ルベルは一瞬、胸を痛め顔を歪めた。
だが、すぐにその感情を打ち消し、冷たい声に変える。
「ああ、危険人物を一緒に置いてられないからな。」
その様子に、エルヴィアンの胸も痛んだ。
酷く傷ついているルミエルを前に、心の中でため息をつく。
「しかし、会えばお嬢様をきっかけに落ち着く可能性もあります。若様はあれからまともに会話もしていないのでしょう。」
事件の後処理に追われ、ルベルは直接顔を合わせることすらしていなかった。
「会っていない。エルに行かせていた。報告ではかなり良いらしいが……たまに混乱することもある。」
その答えに、エルヴィアンは眉をひそめ、思わず呆れを滲ませた。
「若様……そんな曖昧な答えでどうするのです。今すぐ会いに行くべきです。」
視線をルミエルに送ると、エルヴィアンの真剣な目が心に届いた。
ルミエルは小さく息をつき、肩の力を少し抜く。
心の奥に、ほんのわずかな希望が灯った気がした。
ルベルは少し後ろに下がり、改めてルミエルを見つめた。
その瞳に宿る期待の光に、心がわずかに揺れるのを感じる。
「分かった。その代わり、俺が無理だと判断したら会わせない。」
ルミエルは小さくうなずき、何度も頷きながら声を震わせる。
「わ、分かった……それでも、会いたい。」
そう言うと、ルミエルは自然とエルヴィアンの側に歩み寄った。
そして袖をそっと引っ張る。
エルヴィアンは目線を合わせるように体を屈ませ、その視線に応える。
ルミエルは耳元で、笑顔を浮かべながら囁いた。
「ありがとう…エルヴィアンさんは、本当にすごいね…」
その言葉が胸に響き、エルヴィアンの頬に軽い温かさが差す。
「お嬢様、今度から私のことはタリウスと呼んでください。」
ルミエルの目がきらりと光り、ふっと微笑む。
その瞬間、二人の間に小さな信頼の橋が架かったように感じられた。




