二人で一人
時間だけが、静かに過ぎていった。
あれから、モミジと会うことは叶わないままだ。
ばあやに聞いても、曖昧に微笑むだけで、答えてくれなくて。
様子を見に来てくれるルベルもまた、何も教えてはくれなかった。
胸の奥に、小さな棘が残ったまま。
――だから。
勉強を教えてくれているエルに、頼ることにした。
「ねぇ、モミジ……どこにいるの?」
エルは少し困ったように、頬をかく。
「いくら、ルミエル様でも」
一拍置いてから、静かに言った。
「教えられません」
エルの返事もまた、ばあややルベルと同じだった。
ルミエルは、無理に聞き出そうとはしなかった。
あの事件の後、一人で出歩かないとルベルに約束している。
それでも――
モミジに会いたい一心で、ルミエルは動き出した。
「エル……勉強が終わったら、ばあやを呼んできて?」
ルミエルがそう尋ねると、
「はい。呼んできますよ」
エルは、何も疑わずに頷いた。
部屋を出たことを、ルミエルは後悔していた。
騎士に絡まれたこと。
モミジを止められなかったこと。
思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
息が浅くなり、何もかもから逃げたくなる。
それでも。
エルの言葉が、耳の奥に残っていた。
気づけば、握った拳に力が入っている。
「……勉強する」
エルは、この会話に覚えた違和感を、気にしなかったことを後悔する。
「今日は、ここまででいいでしょう。ルミエル様は優秀ですから、終わるのも早いですね」
ルミエルは頬を赤らめ、何も言わずに、軽く頷いた。
エルがテーブルの上の本とノートを手際よく片付ける。
揃えたそれを脇に抱え、ルミエルを見た。
「それで、少し待っていて下さい。ばあやを呼んで来ますね」
「……待ってる」
軽く頷いて、エルは部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
その音が完全に消えるまで、ルミエルはその場を動かなかった。
胸の奥が、また微かにざわつく。
さっきの感覚が、まだ消えていない。
そっとドアに手を伸ばし、音を立てないように開く。
できた隙間から顔を覗かせ、誰もいないか周囲をきょろきょろと見回した。
静かな廊下が、どこまでも続いていた。
胸に手を当て、ルミエルは一歩、外へ踏み出す。
引き返したい気持ちを振り切るように、足を前へ。
気づけば、小走りになっていた。
硬い床に足音が響くのが怖くて、息を殺す。
肩で息をしながら、廊下の曲がり角に差しかかった。
――そこにあったのは、ルベルの執務室。
立ち止まり、もう一度だけ周囲を見回す。
人の気配は、ない。
唇を噛み、両手をそっと扉にかける。
そして、耳を寄せた。
中からは、ルベルの声と、知らない声が聞こえた。
「……から……引き渡す……」
「しかたない……エルヴィアン……任せれば……モミジも……」
途切れ途切れの言葉。
その中の名前に、ルミエルは息を呑む。
ドアから耳を離し、
廊下の曲がり角に身を小さくした。
――引き渡す。
――モミジを。
胸の奥が、ひやりと冷える。
エルヴィアン。
どこかで聞いたことのある名前。
思い出そうとするほど、頭の中がざわついた。
きっと、元老の一人だ。
ルミエルは勢いよく立ち上がり、廊下へと駆け出した。
頭の中に浮かぶのは、あの日一度だけ会ったエルヴィアンの顔。
穏やかな声と、感情の読めない視線。
静まり返った廊下は、どこまでも殺風景で、足音だけがやけに響く。
止まりたいのに、止まれない。
勝手に入っていいはずがない。
そう分かっていながら、足は迷うようにいくつもの扉の前を通り過ぎ、
やがて、ふと目に留まった扉の前で立ち止まった。
ルミエルは一度息を整え、
そっと、ゆっくりとドアを押し開ける。
覗き込むと、外の日差しがそのまま部屋へと流れ込んでいた。
冬のはずなのに、春の陽気のような柔らかな暖かさ。
その光に包まれて、ルミエルの張り詰めていた気持ちが、ふっと緩む。
だが次の瞬間。
落ち着いた、低い声が背後から掛けられた。
「これはお嬢様。何か御用ですか?」
ルミエルの身体が、びくりと跳ねる。
反射的に視線を向けると、ソファに腰掛けた緑の髪の男が、静かにこちらを見ていた。
ルミエルは部屋の中へ入り、ばあやから教わったことを思い出す。
スカートを軽く持ち上げ、小さく会釈をした。
「ルミエルです……勝手にお部屋に入ってしまって……すみません……」
その所作と声色から、目の前の男がエルヴィアンだと察する。
「お嬢様、こちらへどうぞ」
エルヴィアンの声は、初めて会った時よりも柔らかく、穏やかだった。
あの時の威厳に満ちた姿とは、まるで別人のように見えるほどだ。
ルミエルは戸惑いながらも、ゆっくりと近づき、示されたソファに腰を下ろした。
エルヴィアンはソファに腰掛けるルミエルを横目で見やりながら、
何事もない様子で本を読み続けていた。
静かすぎる部屋に、緊張感も威圧感もない。
そこにあるのは、ただ落ち着いた、ゆっくりとした時間だけだった。
その空気があまりにも――
ばあやと一緒にいる時と似ていて。
ルミエルは、思わず小さく呟く。
「……ばあやといるみたい……」
その言葉を聞いたエルヴィアンは、静かに本を閉じた。
嫌な顔ひとつ見せず、柔らかな笑みを浮かべる。
「ばあや、というのは……もしかして、セリナのことかい?」
ルミエルは、ばあやの本当の名前を知らず、答えに詰まる。
その様子を見て、エルヴィアンは察したように続けた。
「若様の乳母だった女性だ」
ルミエルは、こくりと小さく頷く。
「……そうだよ」
エルヴィアンの口角が、ゆるやかに上がる。
その穏やかな表情につられるように、
ルミエルは、考えるより先に口を開いていた。
「あのね……モミジ……連れて行くの?」
元気のない声が、静かな部屋に落ちる。
「どうして、そんなことを聞くんだい?」
怒っている様子はない。
それでも――
空気だけが、ひとつ重くなった。
「えっと……モミジに……会いたいの……大切だから」
エルヴィアンは膝の上に両肘を置き、静かに手を組んだ。
「それは……あの惨劇を、きちんと見たうえで言っているのかい?」
演習場で理性を失ったモミジの姿が、脳裏に蘇る。
ルミエルの指先から、少しずつ熱が失われていった。
エルヴィアンの目に映るルミエルは、
哀しみから目を逸らそうとしている子供だった。
それでも――
「言える……」
ルミエルは、震える息を整えながら続ける。
「私に、モミジは……必要なの……。
そして……モミジにも、私が必要……。
……私たち、同じだから」
その言葉に、
エルヴィアンはわずかに目を見開いた。
子供とは思えぬ答えだった。
「まるで、二人で一人みたいな言い方だ。
君は……いや、君たちは、何がそんなに怖いんだい?」
その問いに、エルヴィアンは本気の興味を滲ませていた。
「……世界が、怖い」
ルミエルは、言葉を探すように続ける。
「人間が怖い……自分が怖い……」
一瞬、言葉に詰まり、
「……それから、優しさが怖い……」
それは、奴隷だった者にしか分からない恐怖だった。
「では、あの獣人は怖くないのか?」
「……怖いよ」
即答だった。
思いもよらない答えに、
エルヴィアンは、思わず息を呑む。
「……矛盾していないかい?」
ルミエルの手が、わずかに震えだす。
「……わからない……。
でも、手放せない……。
もし、そうしたら……自分のことも……否定することになる……」
ルミエルは、モミジを通して、
自分自身を見ていた。
「なら、その大切な獣人を、
私が連れて行くことには反対なのかい?」
ルミエルは、エルヴィアンを真っ直ぐに見据えた。
「モミジが……望むなら……反対しない。
でも……モミジが、嫌がるなら……
……許せない」
生まれて初めて。
ルミエルは、
誰かを「許さない」と口にした。
それほどまでに、
モミジは――
彼女にとって、失えない存在になっていた。




