それは俺じゃない
執務室には、わずかな緊張が張りつめていた。
それでも、不思議と冷たさはない。
つい先ほどまで悲惨な惨劇があったとは思えないほど、
空気は穏やかだった。
ルベルとエルは、嫌な顔ひとつ見せない。
焦らせることも、責めることもせず、
ただ静かに――優しい眼差しでルミエルを見守っていた。
ルミエルの内心は、追い詰められていた。
心臓は早鐘のように鳴り、言葉が喉の奥で重く沈む。
その様子を、エルは静かに察する。
エルは執務室にあった水をコップに注ぎ、
そっとルミエルの前へ置いた。
「今はこれしかありませんが……。
すぐに、メイドに温かいココアを用意させますね」
エルはそう言って、扉の外へ指示を飛ばす。
水に触れた冷たさと、その言葉に、
ルミエルの張りつめていた心が、わずかに緩んだ。
それと同時に、罪悪感が胸から溢れ出した。
「……あのね……私が……」
ルミエルは一度、言葉を探すように視線を落とす。
「一人で、部屋を飛び出して……。
それで、モミジは……私が危なくないように、ついて来てくれたの……」
か細い声が、執務室に静かに落ちた。
誰も責めなかった。
遮る者もいない。
ただ、その場にいる全員が、ルミエルの言葉に耳を傾けていた。
「……何も考えないで歩いてたら……
演習場に、着いて……」
そこで、ルミエルは言葉を濁す。
騎士たちが何を言ったのか――口にはしなかった。
その沈黙を聞いた瞬間、
ルベルの表情が、はっきりと歪む。
両手を胸の前で組み、
テーブルに体重を預けるように身を乗り出した。
低く、押し殺した声が落ちる。
「……誰が、ルミエルを責めた」
ルミエルは、答えようとしなかった。
「……それは、いいの。
モミジが、守ってくれたから……」
ルベルとエルの視線が、
猫の姿で耳を垂らすモミジへと向けられる。
そこにあったのは、批判でも擁護でもない。
ただ、事実を受け止めるための沈黙だった。
「モミジは……私の代わりに……」
ルミエルは一度、息を呑む。
「騎士さんに、立ち向かって……
……酷い言葉を、浴びせられたの」
その瞬間、
ルミエルの脳裏に、あの時の光景が、音と感情を伴って蘇る。
ルミエルの脳裏には、
モミジが、まるで別人になっていく姿が焼きついていた。
「それで……だんだん、様子が……おかしくなって……。
まるで……」
そこで、ルミエルの言葉が止まる。
浮かびかけたのは――
助けを求める、無力な子供の姿。
「……まるで、何ですか?」
エルが、急かすことなく問いかける。
「……えっと……」
一瞬の沈黙のあと、
ルミエルは視線を逸らした。
「……理性が、なくなったみたいで……」
口に出した瞬間、
それが本心ではないことを、
ルミエル自身が一番よく分かっていた。
モミジの、あの姿は――
ルミエル自身と、重なって見えていた。
モミジが自分と同じではないことくらい、分かっている。
それでも――
私と、同じだ
そうだと、直感が告げていた。
「……怖かったんだな、ルミエル」
ルベルは、あまりにも軽く言った。
本心なのかどうか、判断できないほどに。
「あれは……鎖が外れた獣、そのものだったからな」
「獣かどうかは分かりませんが……」
エルが静かに続ける。
「躾けられていたペット、という印象でしたね」
ルベルとエルにとって、
モミジは――その程度の存在にしか見えていない。
「……大体は分かった」
ルベルは、声の調子を落とす。
「それで、ルミエル。
なぜ、部屋を突然出た?」
その問いは、
責めるものではなく、
逃げ場を与えるような優しさを帯びていた。
「向き合いたかった……この前、挨拶してくれたおじさん達と……」
その言葉に、ルベルの表情はさらに険しさを増した。
あれほど責め立てられ、貶められたというのに――。
一度は折れたはずの心で、
ルミエルは再び、向き合うことを選んだ。
子供なら、逃げてしまってもおかしくない。
大人を頼り、庇護を求めても、誰も責めはしないだろう。
だが、ルミエルはそうしなかった。
自らの意思で、立ち向かおうとしている。
「……認めてもらうことも大事だがな」
ルベルは静かに言葉を選んだ。
「別の場所で暮らすのも、一つの手だ。無理に、ここの連中と関わる必要はない」
本当は、頼られたかった。
守る側として、手を差し伸べたかった。
それでも――
ルミエルの瞳には、揺るがない強さが宿っている。
その眼差しが、逃げ道を拒んでいた。
「それじゃ……ダメ……。私、前に進みたい」
弱々しい声だった。
それでも、言葉の芯ははっきりしている。
その様子を見て、エルは「大人の負けだ」と言わんばかりに、静かにルベルへ視線を向けた。
「主君。私は、ルミエル様のご意見に賛成です」
淡々と、だが揺るぎなく言い切る。
「ルミエル様がここで受け入れられることは、主君の立場を強めることにもなります」
理と現実を突きつけられ、
ルベルは一瞬だけ視線を伏せ――やがて、諦めたように息を吐いた。
表情から険が消え、ゆっくりと柔らぐ。
「……分かった。だが、危ないことはするな」
ルミエルは、小さくうなずくと、
テーブルに突っ伏し、元気を失っているモミジの背中に、そっと手を伸ばした。
撫でる指先は、驚くほど優しい。
「……うん」
ルベルは、ルミエルの手に撫でられているモミジへと視線を移した。
「それで……お前は、何か言うことはないのか?」
少し間を置き、続ける。
「まずは、謝罪くらい聞いてやる」
これまで無反応だったモミジが、
ルベルの声に、ゆっくりと顔を上げた。
「……すまん」
それだけだった。
いつもの張り合うような、刺のある返事は返ってこない。
ルベルは、調子を狂わされたように頭を掻く。
その瞳に映ったモミジの姿は――
どこか、ルミエルと重なって見えた。
誰も信用していない、あの目。
感情を押し殺し、何も期待していないような表情。
気にならない方が、おかしい。
で……なんでお前は、錯乱していたんだ」
ルベルの抽象的な問いに、
モミジは頭の中を整理するように、少し間を置いてから答えた。
「……しらん。記憶が、流れて来たんや」
ぽつり、ぽつりと、言葉が零れる。
エルが、興味深そうに視線を向けた。
「“知らない記憶”とは?
幼い頃の記憶、ということですか?」
モミジは、ゆっくりと首を振る。
「ちゃう……。見たこともないもんや」
視線を落とし、言葉を探す。
「牢屋みたいやのに……土も、藁もなくて……」
少し考え込むようにして、続けた。
「床は……鉄みたいで。
寝るとこも……藁ちゃう。“ベット”が、あって……」
この世界には存在しないものを、
どうにか言葉にしようとする声音だった。
「そんで……子供が、手錠をはめられて……」
「檻の前に、男が立っとったんや」
モミジの言葉は、次第に歯切れを失っていく。
自分の身に覚えはない。
それなのに、映像だけが、否応なく頭の中に流れ込んでくる。
沈黙を破るように、ルベルが口を開いた。
「……その子供は、お前じゃないのか?」
その問いに、モミジの瞳が大きく揺れた。
思い出したくないのか。
それとも――受け入れたくないのか。
モミジの声が、焦りとともに荒くなる。
「ちゃう! オレやない!」
「オレの髪の色は、黒やない!」
「……人間ちゃう!」
吐き出すような否定だった。
分かっているのに、
それでも認めたくない――
そんな叫びに、聞こえた。
モミジの毛が逆立ち、尻尾がぴんと硬く伸びた。
身体を低く構えるその姿は、追い詰められた猫そのものだった。
それを見た瞬間、ルミエルは立ち上がった。
迷いはない。
モミジとルベルの間に割って入り、
小さな背で、必死に視線を遮る。
「……ルベル。これ以上は、だめ」
震えを抑えた声だった。
ルミエルは分かっていた。
思い出したくない記憶を引きずり出される恐怖を。
胸の奥が凍りつく、あの感覚を。
だからこそ――
今、止めなければならなかった。
ルミエルに止められたことで、エルはこれ以上踏み込むのは得策ではないと悟った。
軽く息を整え、わざとらしく肩をすくめる。
「主君は、やはりルミエル様には勝てないようですね」
その言葉に、ルベルは鋭くエルを睨みつけた。
「……勝てる勝てないの問題じゃない」
「承知しました。では、この話はここまでにしましょう」
エルはそう言って、視線をモミジへ移す。
「これ以上続ければ――
彼が、何をするか分かりませんでしたから」
それ以上、誰も言葉を発しなかった。
張りつめていた空気が、ようやく静かにほどけていく。




