闇、満ちて
ルミエルの一言――
か弱く、小さな声が、部屋の空気を支配した。
それは叫びでも、訴えでもない。
それでも、確かにそこにあった。
ヴァーミリオンの鋭い目が、わずかに揺らぐ。
思考の裏を突かれた者特有の、ほんの一瞬の隙だった。
ヴェルディアンもまた、その変化を見逃さず、
無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
タリウスは顎に手を当て、ルミエルをまじまじと見つめる。
年齢でも、立場でもなく、
一つの“可能性”として。
そしてレヴァントとイラオンは、
まるで珍しい宝石を見つけたかのように、
目を輝かせて身を乗り出していた。
先に口を開いたのは、タリウスだった。
「なぜ、そう思った?」
低く、静かな問い。
試す声だった。
そう言いながら、彼はルベルへと視線を向ける。
――口を出すな。
その圧は、言葉以上に雄弁だった。
ルベルは一瞬、反射的に何かを言いかけ、
すぐにそれを飲み込む。
唇を噛みしめ、ただ沈黙を選んだ。
ルミエルは小さく肩を震わせながらも、
逃げ場を探すように視線を揺らし、言葉を紡ぐ。
「だって……不自然で……」
か細い声が、
張り詰めた空間に、糸のように落ちていく。
「風が……勝手に、火を助けて……」
そこで一度、言葉が止まる。
思い出すのが、怖いのか。
それとも、理解してしまった自分が怖いのか。
「それに……爆発する瞬間……火が……」
小さく、息を呑む音。
「……教会の中に、集まって……
逃げ場を、塞いだ……」
沈黙が降りた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
否定も、肯定もできない沈黙。
タリウスは、その説明を頭の中で反芻するように一拍置き、
やがて、短く一つ頷いた。
「確かに……投資する才能はあるようだな」
それは称賛ではない。
価値の確認だった。
ルミエルは、その言葉に胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
救われた気がしてしまった自分に、
ほんのわずかな戸惑いを覚えながら。
――だが。
その空気を、意図的に壊す音が響く。
ヴァーミリオンは、両手でテーブルを叩きつけた。
乾いた衝撃音が室内に反響し、
評価の空気は、一瞬で緊張へと塗り替えられる。
「ここまで賢い子供も珍しい……
ただ、出身がな」
向けられたのは、憐れみの仮面を被った視線。
その瞳に、温度はなかった。
慈悲でも、関心でもない。
――値踏み。
ルミエルの喉が、ひくりと鳴る。
次の言葉を待つ間、
彼女の手は膝の上で、小さく、小さく震えていた。
「私の調べでは……
奴隷だったそうだな」
言葉が落ちた瞬間、
ヴァーミリオンの口元が、ゆっくりと歪む。
勝ち誇った笑みだった。
その瞬間――
ルベルの中で、何かが反転する。
血流が、逆流する感覚。
右手を強く握り締めると、
呼応するように、穢魔が腕へと絡みついた。
考えるより早く、
拳が振り下ろされる。
轟音。
元老たちは一斉に椅子から飛び退き、
誰も、止める言葉を持たなかった。
テーブルは真っ二つに裂け、
黒い穢魔が、傷口を侵すように広がっていく。
破壊の余韻が、場を支配する。
ただ一人――
レヴァントだけが。
少年のように目を輝かせ、
その光景を、心から楽しむように見つめていた。
「もし、そうだとして何が問題だ。
それに――なぜ、先生がそのことを知っている」
ルベルの声は低く、冷静に抑えられていた。
だが、その静けさこそが、
内に渦巻く怒りの深さを物語っている。
ヴァーミリオンは、悠然と椅子に座り直し、足を組んだ。
「十分に問題です。
こんな――ドブネズミを連れてきて、
ヴェルファレイン家の養子などと。
先代たちが泣きますよ」
言葉には、隠そうともしない悪意が滲んでいた。
ルミエルは、胸の痛みを堪えるように、
小さく顔を歪める。
続いて、ヴェルディアンが口を開いた。
「若様。
ヴァーミリオン殿の言葉は、正しい」
淡々と、断じるように。
「奴隷出身となれば、家の品格にも関わります。
この子が平民であるだけでも、印象は良くない。
まして――奴隷など、もってのほかです」
そして――
これまで中立を保っていたタリウスまでもが、反対に回った。
「今回ばかりは、私もヴァーミリオン殿の意見に賛成です。
いくら慧眼があろうとも……
それ以上の価値がなければ」
言葉を選ぶように、一拍置き。
「私も、ヴェルファレインに仕える身としては」
それで、十分だった。
ルミエルも、ルベルも。
この展開を、まったく想像していなかったわけではない。
――それでも。
ルミエルにとって、
“奴隷”として育てられた過去が、
ここまで生きづらさとして立ちはだかるとは、
思っていなかった。
力が抜けたように、身体が傾ぐ。
瞳から、ゆっくりと光が消えていった。
室内に、
誰も言葉を発しない沈黙だけが残される。
ルベルは、咄嗟にレヴァントへ視線を向けた。
そこで、目が合う。
レヴァントは困ったように頭を掻き、
小さく肩をすくめた。
――勘弁してくれ。
そんな声が、聞こえた気がした。
「若様……俺は、強い奴についていく。
そこの嬢ちゃんに、
俺を納得させるだけの実力はあるのか?」
ルベルが口を開こうとした、その時――
のんびりとした声が、場に割り込む。
「あるんじゃないかなぁ。
ただ、レヴァントが納得いく力かは、
わからないけどねぇ」
思わぬ助け舟だと、ルベルは一瞬だけ安堵する。
だが。
イオランの視線は、ルベルではなかった。
静かに、まっすぐに――ルミエルを捉えている。
「ただ、その子……
今は、力を使えるのかなぁ?」
その言葉を境に、
ルミエルの意識は、ゆっくりと現実から遠のいていった。
奴隷だった頃へ。
何も選べず、何も拒めなかった時間へ。
話し声は、もう耳に届かない。
頭に霧がかかったように、
彼女はただ、ひたすら自分を責め始めていた。
イオランの指摘で、ルベルはようやくルミエルへ視線を落とした。
自分の腕の中で、力なく項垂れる小さな身体。
返事もなく、瞳は焦点を失ったままだ。
ルベルは、その身体をそっと揺らす。
「大丈夫か。……聞こえてるか?」
その様子を見て、
ヴァーミリオンが小さく鼻で笑った。
「これでは、この家を支えることなど不可能でしょう。
若様、いっそ――お捨てになっては?」
その言葉が、
皮肉にもルミエルを現実へ引き戻した。
――捨てられる。
その想像だけで、
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
ルベルに、捨てられたくない。
ただ、その一心で――
「……ちょっと……疲れただけ……」
真っ青な顔のまま、
ルミエルは、かすれる声でそう答えた。
ルベルは答えず、
ただ、彼女の顔を覗き込む。
指先が、無意識に背を支えていた。
そんな中、
イオランが、穏やかな声で口を開く。
「ねぇ。
君の力、見せてくれる?
何か……持ってるよね?」
ルベルが、咄嗟に割って入った。
「俺が話す。
ルミエルは、穢魔と光属性が使える」
タリウスは苦笑いを浮かべた。
彼は視線を泳がせ、肩をすくめる。
「若様、冗談はよしてください。」
「幾ら、この子を留めたいからと言って、嘘は…」
レヴァントも口を開いた。
彼は眉をひそめ、拳を軽く握る。
「そうだ。冗談はやめてくれ。
人間で穢魔と光属性が使える? そんな事ができるはずがない。」
彼は少し息を吐き、目を細める。
「もしできたら、才能は若様以上だ。」
元老の中でも最も怒りに満ちていたのはヴァーミリオンだった。
額に青筋を立て、握りこぶしを強く握り締める。
彼の視線は鋭く、室内の空気をさらに張り詰めさせた。
「……ゆ、許されるわけがない」
震えを含んだ声が、沈黙を引き裂いた。
「ただの人間が、穢魔を使うなど……!」
ヴァーミリオンは勢いよく椅子を蹴り、立ち上がる。
「悪魔として生まれても、穢魔を扱える者は一握りだ。
それを――こんな穢らわしい子供が使うなど、あってはならない!」
吐き捨てるような言葉。
だがその激しさは、怒りというよりも、焦燥に近かった。
まるで必死に否定しなければ、
何かが崩れてしまうかのように。
怒声を浴びた瞬間、ルミエルの呼吸が乱れる。
胸が詰まり、息が浅くなる。
その様子に、ルベルの奥歯がきつく噛み合った。
拳に力がこもる。
「……出来ないからと、当たるな」
低く、抑えた声だった。
「その苛立ちを、この子に向けるな」
争いの輪の中で、
ただ一人、崩れた姿勢のまま成り行きを眺めていた男がいた。
イオランである。
彼は、ようやく重たい腰を上げるように身を起こし、
二人の間へと視線を投げた。
「ヴァーミリオンさんも、若様も。
少し落ち着きましょう」
気負いのない声だった。
「面子の話なんて、正直どうでもいいでしょう」
その一言で、二人は言葉を失った。
イオランは姿勢を正し、
次に視線を向けたのは、ルミエルだった。
「試してみればいい」
淡々と、事実だけを並べる。
「穢魔と光属性。
その両方が使えるなら――養子として迎え入れること自体に、問題はないはずです」
視線の先で、
ルミエルの顔色は青白く、身体は小さく震えている。
イオランは、それに気づいていた。
それでも、あえて視線を外さず、言葉を続ける。
「……もっとも」
わずかに間を置き、
「できるかどうかは、別の話ですが」
ルミエルは、ゆっくりと顔を上げた。
大人たちの視線が、逃げ場を塞ぐ。
息が詰まり、視界が滲む。
それでも、逃げなかった。
「……わかりました」
目を閉じる。
願いを呼ぼうとした、その瞬間――
浮かんだのは、希望ではなかった。
暗く、冷たい闇が、
静かに、胸の内を満たしていく。




