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奴隷だった少女は悪魔に飼われる   作者: アグ
帰国編

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35/39

張り詰めた朝

ルミエルが本邸に来てから、まだ数日しか経っていなかった。

それでも、彼女の世界は思っていた以上に狭かった。


行き先は、与えられた部屋と食堂だけ。

広い屋敷の中で、そこを往復するだけの毎日が続いている。


廊下へ足を踏み出すたび、空気がひんやりと肌に触れた。

冷たさは温度のせいだけではない。

言葉にされない視線や、控えめすぎる距離感が、静かに胸を圧迫する。


息が詰まるようで、長く立ち止まっていたくはなかった。

自然と足早になり、周囲を見ないように視線を落とす癖がつく。


使用人たちの接し方も、別荘とは明らかに違っていた。

丁寧ではあるが、どこか壁がある。

近づきすぎず、踏み込みすぎず――

まるで、触れてはいけないものを扱うような距離だった。


ルミエルはそれを「気のせい」だと思うことにした。

そう考えたほうが、楽だったからだ。


しかし、今日は少し違った。

ルベルが、ルミエルの部屋を訪れていたのだ。


「朝ごはんを食べに行く。今日は少し忙しくなるから、一緒に食べよう」


久しぶりに会うルベルに、ルミエルの胸は小さく跳ねた。

嬉しくなり、つい駆け足で近づく。


「忙しくなるの?」


「食堂に行きながら話そう。ばぁや、悪いが今日は部屋に戻るまで、モミジの教育を頼む」


モミジは数日前、ルミエルに少し冷たく接していた。

そのことがルベルの耳に入っていたのだ。

それから、教育――いや、躾という名の指導が始まっていた。


モミジは窓辺でまどろんでいた。

ルベルの言葉に、耳がピーンと立った。

そして、嫌そうな顔をした。


「勘弁してや。オレだって厳しくしたかった訳やないやで。ルベルの旦那が厳しくしないから、代わりに言っただけやん。」


ルベルはモミジに目を向けた。

その視線は、哀れな猫を見るようなものだった。


「ルミエルが口にすることは、すべて正しいんだよ。」


ルベルは、そう言って見栄をはった。

しかし、ルミエルに隠されていた事実を改めて知ったとき、胸の奥が重く沈むのを感じた。

その瞬間、一番落ち込んでいたのは、ほかでもないルベル自身だった。


「ルベル…早く行こ」


ルミエルの頬に、じんわり熱が広がる。

ルベルの言葉に、思わず目を伏せた。


その小さな仕草に、ルベルの口元が緩む。

彼はそっと、ルミエルの小さな手を握った。


握られた手の温もりに、ルミエルは胸の奥がきゅっとなる。

でも、手を離さず見守るルベルの眼差しが、少しだけ勇気をくれる。


「ほら、行くぞ」

ルベルの声は柔らかく、確かな安心感を帯びていた。

ルミエルは小さく頷き、手を握り返す。


二人の足取りは軽かった。

久しぶりに会えた喜びが胸を温かく満たす。

ルミエルは思わず笑みを浮かべ、指先が小さく震えた。

その様子をルベルは優しい目で見つめ、微かに口元を緩めた。

廊下に響く二人の足音は、いつもより軽やかに弾んでいた。


ルミエルは、ルベルの手の温もりを感じると、胸の奥が小さくドキドキした。

思わず目を伏せ、頬がじんわり熱くなる。


食堂の扉の前に着くと、ルミエルは足を止めた。

ルベルはエスコートするように、先にドアノブを握り、そっと扉を開ける。

ルミエルが先に入るかどうかをうかがっていたルベルは、すぐに気づき、優しく肩を押して中に入るよう促した。

ルミエルは少し緊張しながら、ゆっくり右足から入った。


ルミエルはそのまま、いつもの席に向かった。

広く華やかな食堂の中、二人は席につく。


ルミエルの身長に合わない椅子。

膝を軽く曲げて、ちょこんと飛び乗る。


ルベルはその小さな動作を、やさしい目で見つめた。

眉間には少し皺が寄っているが、口元は柔らかく緩んでいる。


「今度、新しい椅子を調達しないとな。」


ルベルの声に、ルミエルは目を大きく開いた。

慌てて顔を横に振る。

膝の上に手を置き、小さく震える指先を押さえる。


ルベルは微笑みながら、そっと視線を落とす。

ルミエルの小さな背中や、座り方の一つ一つに、気遣いと愛おしさが滲んでいた。


「焦らなくていい。ゆっくり座ればいいんだよ」


その言葉に、ルミエルはほっと息を吐く。

少しだけ肩の力が抜け、頬に柔らかい赤みが広がる。


ルベルは大皿に盛られたおかずを取り分け、その皿を静かにルミエルの前へ置いた。

所作は穏やかだったが、どこかいつもより慎重に見える。


「食事中で悪いが、少し聞いてほしい」


低く落ち着いた声だった。

その真剣な表情に、ルミエルは思わず背筋を伸ばす。


「今日、このあと元老たちに挨拶へ行く」


――元老。


その言葉を、ルミエルは初めて耳にした。


「元老って?」


問い返され、ルベルは一瞬だけ言葉に詰まった。

どう説明すべきかを測るように、わずかに眉をひそめる。


「簡単に言えば……この国でいちばん古い貴族たちの集まりだ」


それだけでは足りないと判断したのか、ルベルは一息置いた。


「王や公爵に命令する立場じゃない。だが――」

「国が正しく動いているかを、常に見張っている連中でもある」


「監視役、と言えばわかりやすいだろう」


ルミエルは手にしたフォークを、思わず強く握りしめた。


「その人たちに……挨拶するだけ?」


ルベルは肩の力を抜くように息を吐き、わずかに視線を伏せる。

声も、自然と低くなった。


「そうなる。ただ……廊下で会ったかもしれないが。

グラヴェル・ヴァーミリオンにも、顔を合わせることになる」


その名を耳にした瞬間、ルミエルの動きが止まった。


体の奥が、冷たくなる。


ルベルは、さらに言いづらそうに言葉を選んだ。


「あそこまで露骨じゃないが……

連中も、曲者揃いだ。

俺が、反対しきれなかった」


短く吐き出すような声音だった。


元老たちにルミエルを会わせることを、

ルベルは最後まで拒んでいた。


だが――

養子として迎え入れた以上、

挨拶は避けられないと強く押し切られたのだ。


「私なら……大丈夫」


ルミエルはルベルをまっすぐ見つめた。

その瞳には、戸惑いと恐怖が滲んでいる。


フォークをゆっくりとテーブルへ置く。

指先は、かすかに震えていた。


「顔を見せるだけだ。何かあっても、俺がそばにいる」


ルミエルは小さく息を整え、視線を逸らさずに言った。


「心配はいらない。……私は慣れているから」


そう言って、無理に作った笑顔をルベルへ向ける。


ルベルは、その無理な笑顔に気づき、悩むように小さく息を吐いた。


「……これが終わったら、明日」

「少し、出かけよう」


それは、少しでもルミエルの不安を和らげようとした提案だった。


一瞬、きょとんとした後――

ルミエルの表情が、ふっと緩む。


「……本当?」


わずかに弾んだ声に、ルベルは安堵を覚えた。


二人は、ほんのひとときの安堵を分かち合った。


朝食を終えると、ルベルとルミエルは集合場所へ向かう。

廊下を進むにつれ、空気は次第に重さを帯びていった。


目的の部屋の前で、ルベルが足を止める。


扉の向こうには、会議用に整えられた長いテーブル。

まだ誰もいない室内には、ひんやりとした静けさだけが漂っていた。


ルベルは迷いなく、長卓の中央の席に腰を下ろした。


すぐ隣に立つルミエルへ視線を向けると、

何も言わずに手を伸ばす。


次の瞬間、軽い体が持ち上げられ、

ごく自然な流れで、ルミエルはその膝の上に収まっていた。


「……ちゃんと、椅子に座った方がいいんじゃない?」


居心地が悪そうに、ルミエルが小さく身じろぎする。


「問題ない」

「それに――お前に合う椅子も、ここにはない」


淡々とした声だったが、

そこには疑いようのない意思があった。



数分も経たないうちに、扉が開いた。


姿を現したのはブラインだった。

その一歩後ろから、待ち構えていたかのように元老たちがなだれ込む。


列の先頭に立っていたのは、

グラヴェル・ヴァーミリオン。


次々と席につくにつれ、

先ほどまで静まり返っていた室内の空気が、一気に張り詰めた。


「若様、先日はどうも」


ヴァーミリオンは、にこやかな笑みを浮かべてルベルに挨拶し、手を差し伸べた。

その視線は、最初から最後までルベルだけを捉えている。

――膝の上にいるルミエルの存在など、意図的に視界から排除しているかのように。


(……なるほど。そう来るか)


ルベルの奥歯が、わずかに噛み合う。

無視というより、否定だ。

「そこにいる価値すらない」と言外に突きつけてくる、年寄りらしいやり口。


だが、ここで表情を崩すわけにはいかない。


「先生も、元気で何よりです」


声は穏やかに、口元には微笑みを浮かべる。

差し出された手を、迷いなく握り返した。


――力は込めない。

だが、引く気もない。


(俺は、引かない)


ルミエルの体重が、膝の上に確かに伝わっている。

その温もりがある限り、この場で譲る選択肢は最初から存在しなかった。


ヴァーミリオンの指先が、わずかに強ばるのを感じる。

互いに笑みを貼り付けたまま、視線だけが静かにぶつかり合う。


その沈黙は、短く――

だが、確かに不穏な気配を孕んでいた。


それは、嵐が訪れる直前の、あまりにも静かな前触れだった。


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