張り詰めた朝
ルミエルが本邸に来てから、まだ数日しか経っていなかった。
それでも、彼女の世界は思っていた以上に狭かった。
行き先は、与えられた部屋と食堂だけ。
広い屋敷の中で、そこを往復するだけの毎日が続いている。
廊下へ足を踏み出すたび、空気がひんやりと肌に触れた。
冷たさは温度のせいだけではない。
言葉にされない視線や、控えめすぎる距離感が、静かに胸を圧迫する。
息が詰まるようで、長く立ち止まっていたくはなかった。
自然と足早になり、周囲を見ないように視線を落とす癖がつく。
使用人たちの接し方も、別荘とは明らかに違っていた。
丁寧ではあるが、どこか壁がある。
近づきすぎず、踏み込みすぎず――
まるで、触れてはいけないものを扱うような距離だった。
ルミエルはそれを「気のせい」だと思うことにした。
そう考えたほうが、楽だったからだ。
しかし、今日は少し違った。
ルベルが、ルミエルの部屋を訪れていたのだ。
「朝ごはんを食べに行く。今日は少し忙しくなるから、一緒に食べよう」
久しぶりに会うルベルに、ルミエルの胸は小さく跳ねた。
嬉しくなり、つい駆け足で近づく。
「忙しくなるの?」
「食堂に行きながら話そう。ばぁや、悪いが今日は部屋に戻るまで、モミジの教育を頼む」
モミジは数日前、ルミエルに少し冷たく接していた。
そのことがルベルの耳に入っていたのだ。
それから、教育――いや、躾という名の指導が始まっていた。
モミジは窓辺でまどろんでいた。
ルベルの言葉に、耳がピーンと立った。
そして、嫌そうな顔をした。
「勘弁してや。オレだって厳しくしたかった訳やないやで。ルベルの旦那が厳しくしないから、代わりに言っただけやん。」
ルベルはモミジに目を向けた。
その視線は、哀れな猫を見るようなものだった。
「ルミエルが口にすることは、すべて正しいんだよ。」
ルベルは、そう言って見栄をはった。
しかし、ルミエルに隠されていた事実を改めて知ったとき、胸の奥が重く沈むのを感じた。
その瞬間、一番落ち込んでいたのは、ほかでもないルベル自身だった。
「ルベル…早く行こ」
ルミエルの頬に、じんわり熱が広がる。
ルベルの言葉に、思わず目を伏せた。
その小さな仕草に、ルベルの口元が緩む。
彼はそっと、ルミエルの小さな手を握った。
握られた手の温もりに、ルミエルは胸の奥がきゅっとなる。
でも、手を離さず見守るルベルの眼差しが、少しだけ勇気をくれる。
「ほら、行くぞ」
ルベルの声は柔らかく、確かな安心感を帯びていた。
ルミエルは小さく頷き、手を握り返す。
二人の足取りは軽かった。
久しぶりに会えた喜びが胸を温かく満たす。
ルミエルは思わず笑みを浮かべ、指先が小さく震えた。
その様子をルベルは優しい目で見つめ、微かに口元を緩めた。
廊下に響く二人の足音は、いつもより軽やかに弾んでいた。
ルミエルは、ルベルの手の温もりを感じると、胸の奥が小さくドキドキした。
思わず目を伏せ、頬がじんわり熱くなる。
食堂の扉の前に着くと、ルミエルは足を止めた。
ルベルはエスコートするように、先にドアノブを握り、そっと扉を開ける。
ルミエルが先に入るかどうかをうかがっていたルベルは、すぐに気づき、優しく肩を押して中に入るよう促した。
ルミエルは少し緊張しながら、ゆっくり右足から入った。
ルミエルはそのまま、いつもの席に向かった。
広く華やかな食堂の中、二人は席につく。
ルミエルの身長に合わない椅子。
膝を軽く曲げて、ちょこんと飛び乗る。
ルベルはその小さな動作を、やさしい目で見つめた。
眉間には少し皺が寄っているが、口元は柔らかく緩んでいる。
「今度、新しい椅子を調達しないとな。」
ルベルの声に、ルミエルは目を大きく開いた。
慌てて顔を横に振る。
膝の上に手を置き、小さく震える指先を押さえる。
ルベルは微笑みながら、そっと視線を落とす。
ルミエルの小さな背中や、座り方の一つ一つに、気遣いと愛おしさが滲んでいた。
「焦らなくていい。ゆっくり座ればいいんだよ」
その言葉に、ルミエルはほっと息を吐く。
少しだけ肩の力が抜け、頬に柔らかい赤みが広がる。
ルベルは大皿に盛られたおかずを取り分け、その皿を静かにルミエルの前へ置いた。
所作は穏やかだったが、どこかいつもより慎重に見える。
「食事中で悪いが、少し聞いてほしい」
低く落ち着いた声だった。
その真剣な表情に、ルミエルは思わず背筋を伸ばす。
「今日、このあと元老たちに挨拶へ行く」
――元老。
その言葉を、ルミエルは初めて耳にした。
「元老って?」
問い返され、ルベルは一瞬だけ言葉に詰まった。
どう説明すべきかを測るように、わずかに眉をひそめる。
「簡単に言えば……この国でいちばん古い貴族たちの集まりだ」
それだけでは足りないと判断したのか、ルベルは一息置いた。
「王や公爵に命令する立場じゃない。だが――」
「国が正しく動いているかを、常に見張っている連中でもある」
「監視役、と言えばわかりやすいだろう」
ルミエルは手にしたフォークを、思わず強く握りしめた。
「その人たちに……挨拶するだけ?」
ルベルは肩の力を抜くように息を吐き、わずかに視線を伏せる。
声も、自然と低くなった。
「そうなる。ただ……廊下で会ったかもしれないが。
グラヴェル・ヴァーミリオンにも、顔を合わせることになる」
その名を耳にした瞬間、ルミエルの動きが止まった。
体の奥が、冷たくなる。
ルベルは、さらに言いづらそうに言葉を選んだ。
「あそこまで露骨じゃないが……
連中も、曲者揃いだ。
俺が、反対しきれなかった」
短く吐き出すような声音だった。
元老たちにルミエルを会わせることを、
ルベルは最後まで拒んでいた。
だが――
養子として迎え入れた以上、
挨拶は避けられないと強く押し切られたのだ。
「私なら……大丈夫」
ルミエルはルベルをまっすぐ見つめた。
その瞳には、戸惑いと恐怖が滲んでいる。
フォークをゆっくりとテーブルへ置く。
指先は、かすかに震えていた。
「顔を見せるだけだ。何かあっても、俺がそばにいる」
ルミエルは小さく息を整え、視線を逸らさずに言った。
「心配はいらない。……私は慣れているから」
そう言って、無理に作った笑顔をルベルへ向ける。
ルベルは、その無理な笑顔に気づき、悩むように小さく息を吐いた。
「……これが終わったら、明日」
「少し、出かけよう」
それは、少しでもルミエルの不安を和らげようとした提案だった。
一瞬、きょとんとした後――
ルミエルの表情が、ふっと緩む。
「……本当?」
わずかに弾んだ声に、ルベルは安堵を覚えた。
二人は、ほんのひとときの安堵を分かち合った。
朝食を終えると、ルベルとルミエルは集合場所へ向かう。
廊下を進むにつれ、空気は次第に重さを帯びていった。
目的の部屋の前で、ルベルが足を止める。
扉の向こうには、会議用に整えられた長いテーブル。
まだ誰もいない室内には、ひんやりとした静けさだけが漂っていた。
ルベルは迷いなく、長卓の中央の席に腰を下ろした。
すぐ隣に立つルミエルへ視線を向けると、
何も言わずに手を伸ばす。
次の瞬間、軽い体が持ち上げられ、
ごく自然な流れで、ルミエルはその膝の上に収まっていた。
「……ちゃんと、椅子に座った方がいいんじゃない?」
居心地が悪そうに、ルミエルが小さく身じろぎする。
「問題ない」
「それに――お前に合う椅子も、ここにはない」
淡々とした声だったが、
そこには疑いようのない意思があった。
数分も経たないうちに、扉が開いた。
姿を現したのはブラインだった。
その一歩後ろから、待ち構えていたかのように元老たちがなだれ込む。
列の先頭に立っていたのは、
グラヴェル・ヴァーミリオン。
次々と席につくにつれ、
先ほどまで静まり返っていた室内の空気が、一気に張り詰めた。
「若様、先日はどうも」
ヴァーミリオンは、にこやかな笑みを浮かべてルベルに挨拶し、手を差し伸べた。
その視線は、最初から最後までルベルだけを捉えている。
――膝の上にいるルミエルの存在など、意図的に視界から排除しているかのように。
(……なるほど。そう来るか)
ルベルの奥歯が、わずかに噛み合う。
無視というより、否定だ。
「そこにいる価値すらない」と言外に突きつけてくる、年寄りらしいやり口。
だが、ここで表情を崩すわけにはいかない。
「先生も、元気で何よりです」
声は穏やかに、口元には微笑みを浮かべる。
差し出された手を、迷いなく握り返した。
――力は込めない。
だが、引く気もない。
(俺は、引かない)
ルミエルの体重が、膝の上に確かに伝わっている。
その温もりがある限り、この場で譲る選択肢は最初から存在しなかった。
ヴァーミリオンの指先が、わずかに強ばるのを感じる。
互いに笑みを貼り付けたまま、視線だけが静かにぶつかり合う。
その沈黙は、短く――
だが、確かに不穏な気配を孕んでいた。
それは、嵐が訪れる直前の、あまりにも静かな前触れだった。




