一人じゃない
執務室に、張り詰めた空気が満ちていた。
――その静寂を破るように、扉が開く。
現れたのは、ヴァーミリオンだった。
彼は部屋の隅々まで視線を滑らせ、最後にルベルへ視線を止める。
目が合った瞬間、ふわりと表情が和らぎ、穏やかすぎる笑みを見せた。
――さきほどルミエルに向けた、あの軽蔑の笑みとは正反対のもの。ルベルはその笑顔に、むしろ危機を覚えるように姿勢を正し、椅子に座り直した。
「……先生。来ていたのですね」
その呼び方だけは、今も体に染みついている。
“先生”と呼ばれたヴァーミリオンは、わずかに目を細めて嬉しそうにする。
「若様に先生と呼ばれるとは……これはこれで悪くない。
ところで、エルはきちんと務めを果たしているのか?」
向けられた視線に、エルは静かに頭を下げ、礼を返す。
「おかげさまで。先生のご指導もあり、主君との連携も上手くいっています」
エルの返答に、ヴァーミリオンは満足げに頷いた。
そして――
ためらいなく、隣国での事件へ話題を切り替える。
「聞いた話だと、王都にある教会は破壊したとか。」
ヴァーミリオンは、ルベルの返答を楽しむように目を細める。
「あいつらがしつこいから少しお灸を据えただけだ。」
叱る気配はない。むしろ、褒めるかのように軽く手を叩いた。
「素晴らしいよ。ただ――理由が、少々気に入らなかっただけだ」
ルベルは、珍しく言葉を慎重に選んだ。
「……理由が気に入らないとは?」
ヴァーミリオンはゆっくりと机へ歩み寄り、手を置いた。
次の瞬間、指の力を強め、机上の資料を無造作に握りつぶす。
紙の擦れる音が、部屋の緊張をさらに強めた。
ルベルとエルは、その音に思わず息を呑む。
「噂だがな……小娘を庇ったと聞いている。
そうだ、先ほど廊下ですれ違った小娘と、歳が同じらしいが」
ヴァーミリオンがわざとらしく視線を向けた瞬間、
ルベルは机に手をつき、強く叩いた。
鈍い音が室内に響く。
「先生。その少女に……何かしたんですか?」
「そんなに怒るな。少し警告しただけだよ」
明らかに“ただの警告”ではない声音だった。
「……何を言ったんです?」
「なに、挨拶は基本だと教えただけだ」
その言い草に、ルベルの眉間が深く寄る。
このままでは衝突は避けられない――
そう判断したエルが、両者の間に静かに割って入った。
「ここで争っても仕方がありません。
先生、今日は何のご用件で?」
ヴァーミリオンは肩を揺らし、あっさりと答える。
「少々、忠告にな。若様、昔から教えているだろう。
――同族以外は“敵”だとな」
その声には、先ほどより濃い警告の色があった。
ルベルは顔をそむけ、小さく息を吐いた。
「……それは、先生の“思想”です」
執務室の空気が、再び沈み込む。
ヴァーミリオンは、静かにため息を漏らした。
指先がわずかに震えながら、テーブルの上から手を離す。
「この話は――また今度にしよう。
……ただ、小娘のことは、くれぐれも注意しておきなさい」
低く告げると、彼はゆっくりと背を向けた。
そして、軽く右腕を振るように上げ、誰とも目を合わせず部屋を後にする。
扉が閉まった瞬間、
張りつめていた空気が一気にほどけた。
ルベルは深く息を吐き、椅子へ腰を落とす。
指先がまだ熱を帯びている。
そのまま視線を時計へ移した。
「……まだ起きているな」
ルベルは立ち上がる。
「エル、ルミエルの部屋に向かうぞ」
エルは黙ってうなずき、二人は歩みを進めた。
廊下に出ると、足は自然と早まった。
ルベルは、ルミエルの身を案じながら歩く。
別荘よりも広く、静まり返った廊下に自分の足音が反響する。もどかしさが胸の奥で募る。
やがて、重厚ながらもどこか品性を感じさせるドアの前にたどり着く。
指先でそっとノブに触れ、押し開けると、ソファーに座ったルミエルが目に入った。
肩の力を抜き、柔らかく微笑むその姿に、胸の奥で小さく安堵の息をつく。
空気のひんやりとした感触が、少しだけ心を落ち着かせた。
ルベルとエルは互いに目を合わせ、ブラインに合図を送った。
ブラインは直感で頷く。
「ルミエル、この部屋はどうだ?」
まずは当たり障りのない会話で様子を探る。
ルミエルは微笑みを崩さず答えた。
「すごくきれい…ぬいぐるみもいっぱいで嬉しい」
その言葉を聞き、ルベルは胸の奥で安堵した。
しかし、モミジの表情は微妙に硬い。
背中の毛が逆立ち、耳がぴくりと動く。瞳の奥にわずかな苛立ちが光る。
ルミエルの笑顔を見て、心の中で小さく苛立ちが湧き上がる――
体を小さく震わせ、尾をわずかに振る。
その尻尾は、力なく垂れ下がっていた。
エルはモミジの動きを察し、静かに眉をひそめた。
ルベルもまた、その微妙な違和感から、何かがあったことを理解する。
モミジの視線はルミエルに向かうが、口には出せない感情が残ったままだ。
胸の内で、安心と苛立ちが複雑に絡み合っている。
エルはルミエルの様子を見て、何かあったと確信した。
そして、静かに問いかける。
「意地悪なおじさんとか、居なかったですか?」
その言葉を聞くと、ルミエルの手に持っていたジュースの入ったガラスコップがピタリと止まった。
小さな震えが手先に伝わり、ジュースがわずかに揺れる。
恐怖を押し殺すように、ルミエルは必死で表情を保つ。
「あ…あいさつしただけ…」
声はかすかに震え、手にしたガラスコップが小さく揺れた。
ばぁやは、ルミエルが周りに心配をかけたくない気持ちを察した。
その言葉を聞くと、自然とため息がもれた。
ルミエル様……そこは本心を話さなければ
ばぁやは、人は簡単には変わらないことを知っていた。
ルベルは、強がるルミエルを見て胸を痛める。
「分かった。ルミエル、ブラインに用事があるんだ。連れて行っていいか?」
ルミエルはブラインをじっと見つめ、にっこりと笑った。
「うん。ブラインさん、さっきはありがとう」
小さく手を振って見送る。
ドアが閉まるまで、ルミエルは静かに見つめた。
閉め切られるのを確認すると、ゆっくりと目を伏せ、肩の力を抜いた。
明らかな安堵が、ルミエルの表情にふっと浮かんだ。
その横顔を、モミジはすぐそばでじっと見つめていた。だが、その瞳には小さな不満が宿っている。
――なぜ、あの子は“大丈夫”なんて嘘をつくんや。
胸の内でつぶやいたモミジは、堪えきれずに口を開いた。
「嬢ちゃん。なんでも隠したらええってもんちゃうで?」
その声に、ルミエルは視線を揺らし、小さく息を呑んだ。
本当は困っていたのだ。だが、ルベルに頼るのが嫌だと思ってしまった。迷惑をかけたくない――その思いが、素直な言葉を押し込めていた。
「……迷惑、かけたくないの。自分で、頑張りたいから」
ルミエルの弱い告白に、モミジは少し素っ気ない態度で応じる。
「それでええと思うんやったら、ワイは何も言わへんよ。ただな……」
言葉を区切ると、モミジはルミエルの目をしっかり見据える。
「反対の立場の気持ちも、ちゃんと考えたることや」
その声音には、叱責だけではない、守りたい者への優しさが滲んでいた。
モミジは珍しくルミエルから距離を取ると、家具の上へひょいと跳び乗った。
そこでしばらく身じろぎし、丸くなりやすい場所を探すように小さく動いたあと、落ち着いたように身体を丸めて外の景色へ視線を向ける。
ルミエルは、その姿を黙って見つめていた。
さっきモミジが言った言葉が、頭の奥にゆっくりと沈んでいく。
――反対の立場の人の気持ち。
ルベルは、あの時どう感じたのだろう。
どうしてモミジは、あんな悲しそうな目をしたのだろう。
考えた途端、胸の奥で不安だけが静かに膨らんでいく。
その膨らみは、手で押さえても逃げていかない。
ただ、じわじわと広がって、息を詰まらせる。
ルミエルは唇を噛み、モミジの小さな背中から目を離せなかった。
ばぁやは、ルミエルの強がりを見て胸を痛めた。
その目に宿る怯えと我慢は、長い経験でよく知る“助けてほしい子の目”だった。
「ルミエル様……。例えば私が意地悪をされていて、何も言わずに隠していたら、どう思いますか?」
その問いは、静かにルミエルの胸に落ちた。
返事をしようとした瞬間、悔しさがこみ上げてきて、指先が震える。
「そんなの……悲しいよ……」
声は震えていたが、その言葉だけは真っ直ぐだった。
ばぁやは、その純粋さにほっとしたように微笑んだ。
「……ルベル様は、きっと気づいておられますよ。
ルミエル様が、怖かったのだということも」
ルミエルは息を呑んだ。
胸の奥がぎゅっと痛む。
助けてと言いたい。
でも言ったら嫌われるかもしれない。
拒絶されるのが怖い。
その恐怖は、昔から体に染みついて離れなかった。
ばぁやの言葉を聞いたルミエルは、そっと視線を動かした。
家具の上で丸くなっている白と茶色の虎柄の猫――モミジが目に入る。
その尻尾は、力なく垂れ下がっていた。
ルミエルは胸が痛くなり、ゆっくりと近づいた。
家具の下から見上げるように、そっと声をかける。
「モミジ……心配かけてごめんね。
でも、もう少しだけ待ってほしいの。わたし、まだ勇気がないの」
しばらく沈黙が続いた。
モミジはゆっくり顔を上げると、細い瞳でルミエルを見つめ、立ち上がる。
「ほんなら……しばらくはオレに言いや。
ルベルの旦那には、まだ話しづらいんやろ?
──オレが聞いたる」
優しい声だった。
ルミエルは小さくこくりと頷いた。
「嬢ちゃんは、ほんま変なとこで怖がるんやな。」
モミジは小さく笑うと、軽やかに家具から飛び降りた。
床に着地した尻尾が、ゆっくりと揺れる。
その動きには、どこか誇らしげな喜びが滲んでいた。
頼られたことが――ただ嬉しかったのだ。
ルミエルはその姿を見つめ、小さく息をついた。
胸の奥に、ささやかな温もりが灯る。
「……ありがとう、モミジ」
その言葉に、モミジの尻尾がほんの少しだけ弧を描いた。
部屋の空気が、穏やかに静まっていく。
重かった不安は、まだ胸の奥に残っている。
けれど――ひとりではない。
その事実だけが、今日を終えるための支えになった。
見にきてくれてありがとうございます。
次回も気も休まることなく。屋敷は荒れます
そして、モミジに異変も徐々に




