赤黒い瞳の訪問者
突然現れたヴァーミリオンのあからさまな態度に、ルミエルは恐怖を覚えた。年長者のブラインが事実とともに警告していたにもかかわらず、ヴァーミリオンはお構いなしに続ける。
「いやはや。それはおかしいのではないかね? 悪魔でもない人間の小娘が、公爵家の家族だとは」
ヴァーミリオンの言葉で、屋敷の廊下の空気は一層冷たく、張りつめたものになった。人間に対する蔑んだ言葉に、ルミエルの心はさらに痛む。モミジはその感情を察するように、ルミエルをぎゅっと抱きしめた。
「なんて古い考えでしょう。若様はルミエル様をとても大切に思っておられます。大きくなれば、正妻として迎える覚悟もおありです」
ヴァーミリオンは鼻で笑った。
「こんな小娘と結婚だと? バカバカしい。まともに挨拶もできない者が、この伝統あるヴェルファレイン家を支えられると思うのか? どうせ、どこかで拾ってきた玩具の間違いだろう」
あからさまな敵意に、ルミエルは言葉を失った。
隣に立って居た、モミジの肩が思わず強張る。
「なんや、その言い方。オレらは道具ちゃう」
モミジの頭の中は、黒い霧がかかったように混乱していた。
――なんやねん、またか……気持ち悪い。
その表情に、ルミエルは異常さを感じ、慌ててモミジの服を引っ張って合図した。
「モミジ…下ろして…」
「それはダメや!」
モミジは状況判断がうまくできなかった。ここでルミエルを下さなければ、屋敷では挨拶もできない非常識な子だと思われてしまう。
それでも感情の波に翻弄され、周囲が見えなくなる。そんな珍しい様子を見たばぁやが、そっとモミジの肩に手を置いた。
「ルミエル様の立場が悪くなります」
ばぁやの小声の注意に、モミジはようやく本来の思考を取り戻す。そしてゆっくりとルミエルを下ろした。
「すまんな。嬢ちゃん、大丈夫か?」
ルミエルは床に足をつけ、ヴァーミリオンを目にした瞬間、思わず息をのんだ。胸の奥がひりひりと痛み、全身に冷たいものが走る。
大丈夫……挨拶の練習、いっぱいした
心の中で何度も言葉を復唱する。動きも、所作も、何度も思い出すように声に出して確認した。
「お初にお目にかかります。この度、養子になりました、ヴェルファレイン・ルミエルと申します」
声は震えていた。けれど、ぎこちなくも所作は丁寧に整えていた。その一連の動作をじっと見つめるヴァーミリオンの視線は、鋭く、重く、ルミエルの背筋を押さえつけるようだった。
「私はグラヴェル・ヴァーミリオンと申します。元は若様の教育係もしておりました。もしかしたら、ルミエル様の教育係になることもあるかもしれませんね」
その言葉は形式上の挨拶に過ぎないのに、威圧感がありすぎて、ルミエルの心臓は速まり、手足がわずかに震える。自分の存在が小さく、無力に感じられた。
……いや、負けちゃいけない
必死に心を落ち着けようとするルミエルの前に、ブラインがすっと割って入った。ヴァーミリオンの圧の中でも、ルミエルを守るように立つ姿に、わずかに安心感が生まれた。
「いえ、教育係はこちらで見つけますので。ヴァーミリオン様はご自身の仕事に専念されたほうがよろしいかと」
「そうさせてもらう。そうそう、これから若様に挨拶しに行かないといけないので、私はもう行くよ」
ヴァーミリオンが立ち去ると、緊張で張りつめていた廊下の空気は一気に緩んだ。
ルミエルはまだ恐怖で体が思うように動かず、足もわずかに震えていたが、ばぁやとモミジがすぐに駆け寄った。
「ルミエル様、もう大丈夫です。早くお部屋に行きましょう」
暖かい声に、ルミエルの胸の奥の緊張が一気に解け、涙が止まらなくなった。ばぁやは迷わず抱きしめ、ルミエルを優しく抱き上げた。
仕方のないことだ。まだ幼い少女で、貴族として育てられたわけでもない元奴隷にとって、あのような威圧的な態度で接されれば、恐怖を感じるのは当然だった。
それでも——
皮肉なことに、ヴァーミリオンの脅しによってルミエルが泣いたという事実は、ばぁやにとって非常に意味のある光景でもあった。
ばぁやが出会った頃のルミエルには、警戒以外の感情がほとんどなかった。
悲しみも、喜びも、怒りでさえも。
それが今、こうして泣いている。
それだけで——
ルミエルの心の成長が、確かにそこにあった。
「もう少しですよ」
そう言って、ばぁやはルミエルを抱いたまま部屋へと向かう。
ブラインが扉を開け、二人を先に通した。
部屋の中は、女の子が喜びそうな装いに模様替えされていた。
白を基調とした室内に、差し色としてパステルピンクがあしらわれている。
ベッドやソファには、いくつもの動物のぬいぐるみが並べられていた。
「お嬢様は動物がお好きだと伺いましたので。若様からは、特に可愛らしい猫のぬいぐるみを置くよう指示もありまして」
そう言いながら、ブラインは“原因でもある人物”へとちらりと視線を向けた。
その視線に気づいたモミジは、ルベルの顔を思い出したのか、フンと小さく鼻を鳴らして顔を背けた。
ばぁやはルミエルをソファーに下ろした。
そして、猫のぬいぐるみをそっと手渡す。
ルミエルは無意識にそれを受け取り、胸にぎゅっと抱きしめた。
ぬいぐるみの感触が、胸の奥をぎゅっと締めつける。
今まで押し込めてきた感情が、こみ上げてきた。
なんで…泣いてるの、私…?
涙が流れるたび、心の奥が痛む。
泣くことは、ルミエルにとってずっと悪いことだった。
ルミエルは自然と近くにいたばぁやに謝った。
「ごめんなさい…すぐ泣くのやめるから…怒らないで…」
その言葉を口にした瞬間、モミジとブラインは驚いた。
二人には異常に感じられたのだ。
このくらいの歳の子がわがままを言うのは当然だ。
それに、あれだけ圧力をかけられたにもかかわらず、泣いている自分を責めているのだから。
ばぁやと二人の反応の差は明らかだった。
ルミエルがかつて奴隷だったかどうかを知っているか、知らないかの違いだ。
「ここでは泣いても良いのですよ」
「でも、泣いたら…怒られて…叩かれるから…」
ルミエルの頭に、過去の奴隷商人の暴力がちらつく。
お願い…許して…もう、泣かないから…」
ばぁやは横で繰り返した。
「殴る人は居ませんよ」
ルミエルはばぁやの言葉を聞きながら、小さくうなずいた。
モミジはルミエルの怯える姿を見た。心がざわつく。
なんや…やめろ…
オレは悪いことしてへん…お前ら…
隣に立っていたブラインはモミジの異変に気づく。
「大丈夫ですか?」
ブラインは肩を揺らした。モミジは一瞬で我に返った。
なんや…今の…お前らって…
「すまん…ちょっと考え事してもうた。」
モミジは猫の姿になった。
ルミエルが別荘にいた時からの、癒しの一つだ。
モミジは本物の猫のようにスリスリと近寄り、ぬいぐみを置いて膝に乗せられ、撫でられた。ルミエルはモミジを撫でながら、小さく息をついた。
「モミジ…ありがとう…」
「助けになったならええわ。それにな、ばぁさんも言ってたが、泣いてるやつを叩く方が異常なんやで」
ルミエルは小さくうなずいた。
「でも、前はあの程度で泣くことなんて無かった。」
ルミエルは胸が痛むのを感じ、息が詰まりそうだった。
自分が異常になったのではないかという不安が広がる。
少し肩をすくめ、ブラインの方を見上げた。
信じられないルミエルの発言に、ブラインは諭すように話しかけた。
「お嬢様、それは違います。人に悪意を向けて話すことは許されません。
まして、お嬢様くらいのお年なら、大人が守らなければならない立場です。」
ルミエルは言葉の重みを感じ、胸がぎゅっと締め付けられた。
これまで当たり前だった世界では、誰も守ってくれなかったのに――。
その差に、ルミエルの目には戸惑いと少しの恐怖が混じった。
膝に座るモミジも、宥めるように言う。
「せやで。ああいうのはな、人種差別言うんやで。」
ルミエルは首をかしげ、少し眉を寄せて聞き返す。
「じんしゅさべつ?」
ばぁやが優しく説明した。
「人の肌の色や生まれた家で差をつけることを、人種差別と言うのです。」
ルミエルは小さく息をつき、唇をかすかに震わせながら理解しようと目を見開いた。
まだ心の中で整理できない思いと、これからの自分の立場に対する不安が混ざっていた。
ルミエルの顔には、不安がはっきりと表れていた。
胸の奥がざわつき、どうしていいかわからない気持ちでいっぱいになる。
ばぁやはその様子をすぐに察し、優しく微笑んで気分を切り替えさせようと、お茶とお菓子を用意した。
その手元を見つめながら、ルミエルの心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「ルミエル様、今後こういうことがあっても、我慢してはいけませんよ」
初めて聞く言葉に、ルミエルの胸は熱くなった。
涙がこぼれそうになりながらも、ばぁやの優しさに包まれ、安心感が体中に広がる。
心の奥底で、ようやく「守ってくれる存在がいる」という実感が芽生えた瞬間だった。
こうして一日、ブラインの指示で、ばぁやとモミジ以外はルミエルの部屋に入れないようにされた。
ルミエルは部屋の中で、静かに深呼吸をしながら、少しずつ心を落ち着けていった。
その頃、屋敷の執務室では、ルベルとエルが使用人の選別に取り掛かっていた。
ルベルは額に手を当て、深いため息を漏らす。
肩を少し震わせながら、苛立ちを抑えようとするが、目の奥には殺気が滲んでいた。
「いったい…元老たちの手下は何人、入り込んでいるんだ…」
言葉に詰まりながらも、ルベルの視線は名簿と屋敷の間を忙しく行き来する。
心の中で焦りと苛立ちが渦巻き、思わず拳を軽く机に打ち付けそうになるのを必死に抑えた。
エルは冷静に使用人名簿を確認し続けるが、ルベルの緊迫した空気に思わず息を呑む。
本家の人数を把握するだけでも、膨大な作業である。
「これでは埒があきませんね」
ルベルは小さく唸りながら、再び名簿に目を落とす。
静まり返った執務室には、時計の音だけが規則正しく響き渡っていた。
そんな、殺伐とした執務室の空気を破るように、ドアのノックが響き渡った。
エルは名簿を机に置き、苛立ちを押し殺しながらドアに向かう。
「どうぞお入りください」
ドアが開くと、そこには圧倒的な存在感を放つ男――ヴァーミリオンが立っていた。
赤黒い瞳は冷たく光り、威圧的な風格が部屋中に波紋のように広がる。
ルベルは思わず肩を緊張させ、目を細める。
エルも息を呑み、名簿を握る手がわずかに震えた。
ピリついた執務室の空気は、さらに張り詰め、全員の心臓が一瞬止まったかのように感じられた。
ヴァーミリオンの視線がゆっくりとルベルを捉える。
その威圧の前に、誰もが言葉を失い、ただ沈黙の中で次の動きを見極めるしかなかった。




