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奴隷だった少女は悪魔に飼われる   作者: アグ
帰国編

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32/40

ヴェルファレイン・ルミエル

別荘の屋敷を出て、十日が経っていた。

ルミエルたちは、ようやくルベルの本邸へと辿り着く。


目の前に広がっていたのは、これまで滞在していた別荘とは比べ物にならないほどの規模を誇る屋敷だった。

高く積み上げられた外壁、重厚な門構え、長い年月を生き抜いてきたことが一目で分かる、威厳に満ちた佇まい。


ここが――

ルベル・ヴェルファレインの本邸。


ただの貴族の屋敷ではない。

これほどの屋敷を所有しているという事実だけで、彼がどれほど高い地位にいるのかが嫌でも伝わってくる。


ルミエルは、無意識のうちに息を呑んだ。


「……ここで、過ごすの?」


ルベルの腕の中で、ルミエルが小さく呟いた。


目の前にそびえる巨大な屋敷。

高い外壁と重厚な門は、まるで城のようで、今までいた別荘とはまるで別の世界だった。


その迫力に飲み込まれるように、ルミエルは無意識にルベルの服をぎゅっと掴む。


「こわい……」


その小さな震えを、ルベルはすぐに感じ取った。


「安心しろ。ここは俺の家だ。――誰にも、何も言わせない」


低く、はっきりとした声だった。


だがルミエルの胸の奥にあるざわめきは、簡単には消えなかった。


屋敷の前には、すでに何人もの使用人たちが整列し、

一斉に頭を下げていた。


その光景を見た瞬間、

ルミエルの指先が、ほんの少しだけ強く震えた。


ルベルはルミエルを腕に抱いたまま、静かに屋敷の中へと足を踏み入れた。


中は、これまで過ごしてきた別荘とは比べ物にならないほど広く、

行き交う使用人の数も桁違いだった。


磨き上げられた床はどこまでも続き、高い天井と奥深い廊下が、ここが“本邸”であることを嫌というほど物語っている。


そのすべてに圧倒され、ルミエルは小さく息を呑んだ。


やがて、静かな足音とともに年配の執事が一人、前へと進み出る。


白髪混じりの髪に、深く刻まれた皺。

その面影は――どこか、エルに似ていた。


ルミエルが不思議そうに見つめていると、エルが一歩前へ出て、静かに告げる。


「ルミエル様。私と似ているこの方は、私の父です」


執事は丁寧に深く頭を下げた。


「私は、エル・フォレストの父。ブライン・フォレストと申します。どうぞ、お見知りおきくださいませ」


柔らかな口調と穏やかな態度に、ルミエルは釣られるように小さく頭を下げる。


「わ、わたしは……ルミエルです。よろしくお願いします……」


しかし、その指先は不安を隠せず、ルベルの服をぎゅっと強く握っていた。


それを感じ取ったのか、ルベルは一歩前へ出る。


そして、屋敷中に響くような、低くはっきりとした声で言い放った。


「――ヴェルファレイン・ルミエルだ」


それはまるで、

娘の名をこの屋敷に刻みつける“宣言”のようだった。


ルベルの発言に、使用人たちは一瞬、息を呑んだ。


「……今、なんと?」

「ヴェルファレイン……?」

「まさか……」


屋敷の使用人たちの間に、微かなざわめきが走った。


視線が交錯し、息を呑む者、戸惑いを隠せぬ者。

その空気は、一日も経たぬうちに屋敷中へと広がっていく。


ブラインはその名に、静かに、しかしはっきりと敬意を示すように、再び深く頭を下げた。


「ご主人様のご命令通り、ルミエル様のお部屋をご用意いたしました。

……ルベル様のお隣で、本当によろしいのですか?」


その問いは、極めて当然のものだった。

ルベルの隣室は、本来“正妻が入るべき部屋”――

屋敷の古い者ほど、その意味を重く受け止めている。


「ああ。それでいい。オヤジにも許可は取ってある」


迷いのない声音だった。


ブラインは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに静かに答える。


「……かしこまりました」


その背後で、元老派の使用人たちがわずかに顔を見合わせた。

納得と、困惑と、そして――測れぬ警戒が入り混じった沈黙。


一方で、別荘から同行してきた使用人たちは、誰一人として異を唱えない。

彼らの忠誠は、ただ一人――ルベルだけに向けられていた。


その微妙な空気の揺らぎを、ルミエルは敏感に感じ取っていた。


屋敷に足を踏み入れた瞬間から、胸の奥がざわついている。

無意識に、ルベルの服を強く握りしめてしまう。


その小さな仕草に気付いたのか、ばぁやがそっとルベルの横に並び、

抱えられているルミエルへ、優しく語りかけた。


「しばらくは、ばあやがお供いたしますよ。何も、不安に思うことはありません」


その声に、ルミエルは小さく頷いた。


それを見て、少しだけ表情を緩めたルベルが、話題を切り替える。


「それで、ルミエルの護衛と侍女の候補は、もうまとまっているのか?」


その言葉に反応したのは――

ルベルの肩に乗っていた、猫姿のモミジだった。


耳をぴんと立て、勢いよく声を張り上げる。


「なんやそれ! そんな話、聞いてへんで!嬢ちゃんの護衛は、オレやろ!」


その瞬間、ルベルの眉間に深い皺が刻まれる。


「お前なんぞ信用できるか!

ルミエルに男の護衛はいらん。女を付けるんだ」


「なんやと!? 女に任せて、攫われたらどないすんねん!」


「耳元でうるさい!」


苛立ちをぶつけるように言い捨てながらも、

ルベルの視線は無意識のうちに、ルミエルへ向いていた。


猫姿のモミジと、ルミエル。

二人の距離が、あまりに近すぎること。

そして、恐怖や不安に触れた瞬間、まるで同調するように感情が揺れること。


それが――どうしても、胸に引っかかっていた。


「ここでは……耳に入れてはならない者もおります。執務室へ移りましょう」


エルはそう告げ、反対派に余計な情報を流さぬよう、その場を離れることを促した。

ルベルも無言でそれに頷く。


「それでは、私がルミエル様のお部屋までご案内いたします。若様とエルは、後始末を」


ブラインの言葉に、ルベルは一度だけ頷き、そっとルミエルを床へ下ろした。


ルミエルの表情には、まだ不安が色濃く残っている。

だが、ばぁやが優しくその小さな手を握ると、少しだけ肩の力が抜けた。


「……頼んだ」


ルベルは短くそう言い残し、背を向ける。


こうして、

ルミエル、ばぁや、モミジは連れ立って部屋へと向かい、

ルベルとエルは、屋敷の“後始末”へと向かうのだった。


長い廊下を歩き出した直後だった。

――空気が、変わった。


すれ違う使用人たちの視線が、

好奇でも敬意でもない、粘つくような悪意を帯びて、ルミエルに絡みつく。


胸の奥が、ぞわりと気味の悪さで震えた。


同時に、ルミエルの半歩前を歩いていたモミジが、

ほんの一瞬だけ足取りを緩めた。


そして、猫の姿から静かに人の姿へと戻る。


「……オッチャン、すまん。ちょい止まってくれへんか」


その声は低く、周囲に波風を立てない、落ち着いたものだった。


足が止まった瞬間、

モミジは自分の首に巻いていた布を外し、

ごく自然な仕草でルミエルの背後へ回る。


視線を遮る位置取り。

人の流れを読む距離感。

まるで最初から決められていたかのような動きだった。


そのまま、ふわりと――

ルミエルの頭から肩までを包み込むように布をかける。


「モミジ……? 大丈夫だよ」


そう言った声は、わずかに震えていた。


「……いや。

この屋敷は、大丈夫やない」


モミジはそう言い切ると、

何の迷いもなく、屈み込み、片膝をつく。


「段、あります」


小さくそう告げ、

足元に手を添え、無理のない高さで体を支える。


「オレが運ぶ。

コレに隠れておき」


布越しに見る廊下の光は、ひどく歪んで見えた。


――妬み。

――嫉妬。

――値踏み。


言葉にならない悪意が、

視線となって、確かにこちらへ向けられているのを、

ルミエルも――もう、分かっていた。


そして同時に、

そのすべてから庇うように動くモミジの仕草が、

あまりにも迷いがなく、洗練されすぎていることにも。


ばぁやは何も言わず、ただ静かにルミエルをモミジへと預けた。

その仕草に、一切の迷いはなかった。


それを見ていたブラインが、ゆっくりとモミジに視線を向ける。


「……君が、モミジ君だね。噂はかねがね。

なるほど――エスコートは、すでに身についているようだ」


思いがけず名を呼ばれ、モミジはきょとんと目を瞬かせた。


「なんや、オレのこと知ってたんやな。

まぁ……せやな。こういうんは、考えんでも身体が先に動くんや」


照れたように頭の後ろを掻くモミジに、

ブラインは穏やかに笑みを深める。


「よろしければ――私が一からお教えしましょうか。

きっと、これから先……ルミエル様のお役に立ちます」


その申し出に、ばぁやがわずかに目を見開いた。


「……珍しいことを言うね。

この子はまだ、“間者の疑い”も完全には晴れていないよ」


だが、ブラインは少しも動じず、静かに言葉を返した。


「長く一人の主に仕えていると、分かるようになるのです。

その者が“主”として向けている感情が、忠誠なのか、恐怖なのか……それとも、真に大切に想っているものなのか」


そして、モミジと、その腕に抱かれたルミエルを交互に見て。


「モミジ君の眼差しには、確かに尊敬も、憧れもあります。

ですが――それ以上に、私には“同族を見るような情”に映りました。

……お二人、とてもよく似ていらっしゃる」


その言葉に、モミジとルミエルは思わず互いに顔を見合わせる。


何も分からないまま、

ただ、胸の奥で小さく何かが震えた。


使用人たちの数が、いつの間にか一人、また一人と減っていった。

気づけば、広い廊下に響く足音は、モミジたちのものだけになっていた。


そのとき――

曲がり角の向こうから、空気そのものを支配するような気配が現れる。


白く長い髪を背に流し、

赤黒い瞳は、血の底を覗き込んだように冷たく澄んでいた。

指には、まるで生きた血のように妖しく輝く深紅の宝石の指輪。


一歩、また一歩と近づくたび、

廊下の温度が、目に見えないほどゆっくりと下がっていく。


モミジは無言のまま、

腕の中のルミエルを自然な動作で抱き直した。

かばうでもなく、誇示するでもなく、

――ただ「当たり前のように守る」仕草だった。


「いらっしゃっていたのは、すでに耳に入っておりましたよ」


静かな声。

だが、その声音には拒絶と選別の色が含まれていた。


「――ヴァーミリオン様」


ブラインが一歩前へ出て、深く一礼する。


白髪の男、ヴァーミリオンは、口元だけをわずかに歪めた。


「ほう……これはこれは。ブライン殿。ずいぶんと長生きだな」


そして――

その視線が、ゆっくりと、確実に、

モミジの腕の中にいる存在へと向けられる。


「……それにしても」


赤黒い瞳が細められ、

値踏みするような冷たい光が宿った。


「ずいぶんと薄汚れた小僧が、

拾い物のような娘を抱いている」


廊下の空気が、完全に凍りつく。


「それは“荷物”か?それとも――新しい商品か?」


その一言は、

モミジの胸の奥と、ルミエルの心臓の奥を、

同時に、正確に、抉り抜いた。


モミジの腕に、ほんのわずか力がこもる。

ルミエルは、小さく息を詰め、

無意識にモミジの服を握りしめていた。


ブラインの声だけが、

廊下の中央に、重く、静かに落ちる。


「……そのお二人は、公爵閣下が

“家族”として迎え入れた存在です」


その瞬間。


ヴァーミリオンの瞳に、

はっきりとした嘲笑の色が宿った。


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