黒炎の教会
教会の一室。
円卓の中央には猊下が座り、その左右には大司教、司教が並び、
さらに大神官、神殿長、聖務卿、典礼長といった各役職者が席を連ねていた。
そして――
円卓の最奥に置かれた水晶玉からは、
“さらに上位の人物”の 焦りを含んだ重苦しい声 が低く響き渡っていた。
「それで──一瞬で病を治したという少女は、どうしている?」
水晶玉から響いた声に、
セフィロスは相手の機嫌を損ねぬよう、慎重に言葉を選んで口を開いた。
「散々、招待状も送りましたし、こちらから屋敷まで足を運びましたが……来る気配はございません。本日も使者を向かわせておりますが、来るかどうかは……。」
水晶玉の主は、明らかに納得していない声音で続けた。
「それで? 一体いつになれば教会に迎え入れられそうなのだ。その者の力は、病のみならず──麻痺した足や、失われた腕さえも治したという報告だったな?」
冷えた声が水晶玉の向こうから落ちる。
猊下は身じろぎすらできず、代わりに大神官が答えた。
「……ええ。現場にいたすべての者が、何らかの負傷や持病の治癒を確認しております。」
慎重な声音だった。
一語でも誤れば、この場の空気が凍りつくのを理解しているからだ。
特に歓喜したのは兵士たちである。
戦場で大怪我を負い、後衛に回されていた者たちが、次々と前線に復帰できるようになったのだから。
その意味は、教会も、王国も理解していた。
──その力は、ひとりで何百人もの兵を同時に立ち上がらせる。
失われた戦力を瞬時に補い、
減った兵数をほとんど気にせず戦を継続できる。
極端な話、
「たったひとりの力」で他国を押し潰すことさえ可能になる。
神官たちから、次々と疑問の声があがった。
「しかし……そのように強大な能力を持つ子であれば、生まれてすぐに保護されていてもおかしくありません。
それに聞くところによれば、あの子は“人間”だとか。
天使様方より治癒力が上回るなど、常識では考えられぬことです。」
この世界で、天使族より強い治癒力を持つ人間など──誰ひとり聞いたことがない。
その空気の中、猊下がゆっくりと口を開いた。
「私があの屋敷を訪れた際、主人ヴェルファレイン殿が“隣国ヴェスティア夜国から来た”と話しておられた。
つまり、子供が生まれたのも隣国である可能性が高い、ということだ。」
その言葉に、会議室の空気が一瞬ざわついた。
「隣国……ヴェスティア夜国!?
あそこには天使様はおられません!
悪魔が一般的で、闇属性が主流の国です。
なぜそんな国で──光属性を使える子が生まれるのですか!」
敵国の血統で、国を揺るがすほどの力。
もしそれが真実なら──
事態は、想像以上に厄介になる。
出身がヴェスティア夜国だとなれば、
この国に留め置く条件も一気に難しくなる。
仲の悪い隣国から家族ごと移住となれば、
政治的にも極めて厄介だ。
そんな重い空気を断ち切るように、
水晶玉から低い声が響き、室内が一瞬で静まり返った。
「──ならば、こうすればいい。子供だけ“留学”という形でこの国に留め置けばよいではないか。」
その案を提示した刹那――。
ドォン!!
表の方から、地鳴りのような轟音が響いた。
「な……なんだ!? 一体何が起きた!」
会議室の全員が慌てて席を立ち、音のした方へ駆け出す。
そして目にしたのは──
燃え上がる教会のドアだった。
冷えた空気を裂くように 熱風 が吹きつけた。
そして────
教会の巨大な扉が、真っ赤に燃え上がっていた。
ただの火事ではない。
炎は風も受けず、まるで“意思を持つように”燃え続けている。
「こ、これは……魔法か!? いや、属性が違う……!」
神官たちが狼狽える中、
炎の向こうから ゆっくりと歩いてくる影 があった。
黒いコート。
揺れる赤黒い魔力。
そしてその中心にいる男の怒気が、
空気を震わせていた。
ルベル・ヴェルファレイン。
「お前ら、お望み通り来てやったぞ。毎日、毎日……しつこいんだよ」
ルベルの周囲に渦巻く怒気は、誰の目にも明らかだった。
彼の足元では、届けられ続けた招待状が、玄関扉ごと黒い炎に包まれて燃え上がっている。
集まった教会の重鎮たちは、その炎の中に揺らめく異様な黒を見て、一斉に青ざめた。
猊下がかすれた声で呟く。
「……穢魔、か」
その背後で立ち尽くしていた神官が、震える声で続く。
「に、に、人間じゃなくて……悪魔……!?
では、その娘も……!」
慌てるのも無理はなかった。
親が悪魔であるなら、その娘である子供は悪魔か、あるいは悪魔と人間の混血となる。
だが、そうなれば――人間や天使を凌ぐ治癒能力を持つなど、本来あり得ない。
「お、お前の娘も……悪魔なのか!」
その問いは明らかに一線を越えていた。
ルベルの瞳に、濃い怒りが深く沈む。
血縁はない。
しかし――それを否定すれば、ルミエルとの“父娘の絆”まで否定することになる。
そんな言葉を口にすることは、彼にはできなかった。
だからこそ、ルベルは一歩踏み出し、静かに。しかし決して逃げない声音で言い放つ。
「……ルミエルは“俺の娘”だ。それ以外に言うことはねぇよ」
その一言で、場の空気は凍りついた。
誰も続けて言葉を発せず、ただ燃え上がる扉の音だけが、静寂の中に響き続けていた。
ルベルの怒気を含んだ声が、教会の広い空間に重く響いた。
その圧に押されるように、聖務卿が顔を歪め、噛みつくように叫んだ。
「あり得ない! 悪魔が光魔法など……あ、あってはならん!!」
否定の言葉が突き刺さり、
ルミエルはルベルの腕の中で胸を押さえるように小さく身を縮めた。
その瞳が揺れ、不安の色を浮かべる。
「……なんで、だめなの?わたし……使えたら、おかしいの?」
その小さな声は、怒号よりも鋭く周囲に響いた。
エルとモミジの表情が一瞬で険しくなった。
モミジは今にも猫の姿で襲い掛かりそうになる。
だが、足でモミジの行手を阻む様にエルが足をだした。
怒りを抱えながらも、声だけは冷静だった。
「いいえ。そんなことはありません、ルミエル様。危険です……こちらへ。」
エルはゆっくりとルベルの腕からルミエルを受け取る。
ルミエルがエルの胸元に身を預けるのを見て──
猊下の目が、わずかに見開かれ、
その奥に “好奇” と “確信” の色が宿った。
「……君か。広範囲で治癒を行ったという少女は。」
ルベルは面白くないと言わんばかりに、
セフィロスとエルに抱かれているルミエルの間へ割り込むように立ちはだかった。
それでも、セフィロスは負けじと声を張る
ルベルの肩越し、エルの腕の中にいるルミエルへ声を投げかける。
「どうだ? ここに……聖女として残らないか?ここに入れば誰もが君に跪く」
ルミエルには、その感覚が理解できなかった。
エルの胸に抱えられたまま、小さく首を傾け、セフィロスへ問い返す。
「なんで……跪くのが……良いみたいな言い方するの……?」
その何気ない一言で、逆にセフィロスの心の浅ましさがあらわになった。
理解できないのはセフィロスの方だった。
「なぜだと? みんなが君の“一言”で思いのまま動くのだぞ?そうだ、金だっていくらでも入る! 治療費を取ろう!」
「……?」
ルミエルは完全に意味を失い、
抱かれているエルの胸元からエルを見上げるように視線を向け、
どうしたらいいのか目で助けを求めた。
「命令して……何が楽しいの……?お金もらって……何がいいの……?」
その小さく純粋すぎる疑問に、エルがルミエルの肩をそっと抱き直しながら言う。
「ルミエル様。あの者の言うことは、聞かなくてよろしいのです」
エルの腕の中で、ルミエルは怯えたように小さく肩を震わせた。
その気配を敏感に感じ取ったのか、足元にいた猫姿のモミジも耳を伏せ、不安げに尻尾を巻き込んだ。
ルミエルが不安なら、モミジも不安になる。
理由は誰にも分からない。
だがモミジにとっては、ルミエルの感情が揺れれば、
まるで自分のことのように胸がざわつくのが“いつものこと”だった。
エルはそんな二人を落ち着かせるように、柔らかな声で言った。
「ルミエル様。あの者の言うことは聞かなくていいのです。」
その言葉に、モミジはほんの少しだけ息を吐き、
張りつめていた空気が和らいだ気がした。
しかし、その一瞬の静寂を切り裂くように、
ルベルがセフィロスの前へと一歩出る。
「これ以上、汚い口で娘に喋りかけるな。今はあの忌々しい羽虫どももいないのだろ?」
侮蔑を隠そうともしない声に、セフィロスは顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「まさか、天使様のことを言ってるんじゃないだろうな! この薄汚い悪魔が!」
「そうだと言えばどうした?」
ルベルは一歩も退かず、殺気すら帯びた声で言い放つ。
「今日でこの教会は消し炭になる。目に焼き付かせておくといい。」
足元から黒い炎が噴き上がり、風に煽られて教会の壁へと這い移るように広がっていく。
その光景に、重鎮たちの声色は一瞬で焦りと恐怖へと変わった。
「や、やめろ!それだけは……!」
「こ、ここがどれほど神聖な場所か分かっているのか!」
その必死の叫びを、ルベルは鼻で笑った。
「なら――自分たちで守れよ。ボンクラどもが。」
黒炎は瞬く間に教会全体を包み込み、軋む音と熱気が周囲を満たしていく。
そして――
ルベルが指を鳴らした瞬間、
轟音とともに教会が 内側から破裂した。
爆風で弾け飛んだ瓦礫が雨のように降り注ぐが、
エルが咄嗟に結界を張り、彼らの周囲だけを守り切る。
粉塵が舞う中、ルベルは満足げに肩の力を抜いた。
だが、彼の背後では──
ルミエルが、崩れゆく教会を悲しそうに見つめていた。
ルミエルにとって、ルベルが教会そのものを粉々に破壊したあの行動は、どうしても理解できなかった。
――どうして?
――なんでそこまで…?
頭の中で問いだけが渦を巻き、胸の奥がひどくざわつく。
その様子に気付いたエルが、そっとルミエルの視線の前に立つようにして言い聞かせた。
「ルミエル様。今の光景は、きっと理解できないでしょう。それも当然です。でも……大切な人を失うという恐怖は、種族が違っても同じなのです」
エルの碧い瞳には、まるで昔を思い返すような深い悲しみが滲んでいた。
教会は黒い炎の中で崩れ落ち、ルベルは転移で別荘へ戻った。
その一件を境に、彼らは新たな道を選ぶことになる。
――国へ帰るという、避けられない決断を。




