静寂の中の名
奴隷市場から連れ出した少女を、俺は胸に抱えていた。
その身体は信じられないほど軽く、まるで空気のようだった。
骨ばった肩に触れるたび、深く沈むような痛みが胸を突く。
こんなにも小さく、壊れそうな身体で――それでも、生きていた。
夜風が吹き抜け、外套の裾を揺らす。
俺は少女を包み込むように腕を締め、足早に馬車へと向かう。
道の石畳を踏む音がやけに大きく響く。
抱えた少女の体温が、微かに伝わってきた。
そのぬくもりが、かえって脆さを際立たせている気がしてならなかった。
やがて、少女の身体にわずかな重みを感じた。
顔を覗き込むと、瞼を閉じて眠っている。
気絶したのか、安堵したのか、それすら分からない。
ただ、表情だけは――穏やかだった。
馬車に辿り着き、俺はゆっくりと座席に腰を下ろす。
膝の上で眠る少女の身体は驚くほど小さく、腕の中にすっぽりと収まった。
寝息が規則的に響くたび、心の奥のどこかが静かに揺れる。
薄闇の中、外套を少しめくってその身体を見た。
首筋から背、腕、脚にかけて――細かい傷が無数に走っていた。
治りかけの傷の上に新しい傷が重なり、皮膚は赤黒く変色している。
昼間、土の上に残っていた小さな血の足跡を思い出す。
足裏に目をやると、細かい裂け目と青黒く腫れた痕が広がっていた。
その光景に、胸の奥が焼けるように熱くなる。
人間という種が、ここまで脆く、ここまで痛みに晒されるものだとは――
長く生きてきた俺でも、改めて思い知らされた。
少女の寝顔は穏やかだが、その息づかいの一つ一つが儚い。
腕の中で眠るこの命が、あまりに小さく、壊れやすく、
それでも確かに「生きている」ことが、たまらなく重く感じられた。
俺は、腕の中の少女が少しでも揺れぬように気をかけながら、前方の御者に声をかけた。
「おい、なるべく揺らさないようにしろ。」
馬車を操る男は、ちらりと後ろを振り返り、にやりと笑った。
「わかりました。それにしてもな……主君があの顔で怒鳴り込んで帰ってきたから何かと思えば、子供を抱えてくるとは。驚きました。」
軽い口調でそう言いながらも、男の目には好奇心が浮かんでいた。
俺は小さく息を吐き、腕の中の少女に視線を落とす。
彼女はまだ目を覚まさない。荒い呼吸が、静かな夜気の中でわずかに響いていた。
「大事な人だからな。」
俺がそう答えると、御者は眉を上げた。
「へぇ……“大事な人”ね。やっと探し人を見つけたってわけですか。けど、その子……人間だろ? 本当に連れて帰って平気なんですか?」
その問いに、俺は鼻で笑った。
声の奥に潜む怒りと決意を抑え込みながら、静かに言葉を吐く。
「文句を言う奴がいたら、黙らせるまでだ。」
「……なるほどな。主君らしい答えですね。」
御者が苦笑し、手綱を軽く引いた。
車輪が砂利をかすめる音が夜に溶け、馬の息づかいだけが一定のリズムで響く。
俺は再び腕の中の少女を見つめた。
その顔は眠っているのに、まるで戦い続けているような緊張を帯びている。
眉の隙間には怯えの影が残り、薄い唇は小さく震えていた。
それでも、息づかいは穏やかで、胸がゆっくりと上下していた。
「……早く治療してやらないとな。」
自然と漏れた言葉は、思っていたよりも柔らかい声音になっていた。
少女の小さな手が、無意識のまま俺の服を掴んでいる。
その感触が伝わるたび、胸の奥がきしむように痛む。
壊れそうな命を腕に抱いている――そんな感覚が離れない。
御者が静かに言葉を継ぐ。
「……次の町まではあと一刻です。揺らさないようにします。」
「頼んだ。」
馬車は夜の闇を切り裂くように、静かに進んでいった。
満月が雲間から顔を出し、少女の髪――深い紺の髪を淡く照らす。
その光に照らされた瞬間、彼女の中から微かに魔力の残滓が揺らめいた。
眠ったままの少女はまだ何も知らない。
けれどその微かな光こそ、俺が長い時を超えて探し続けた“証”だった。
───────
まぶたの裏から、ぼんやりとした光が差し込んでいた。
光を感じているのに、頭の奥が霞んでいて、現実の輪郭が掴めない。
ゆっくりと目を開けると、淡い色をした天井がぼやけて見えた。
何かを思い出そうとすると、頭の奥で鈍い痛みが広がる。
黒い外套、強い腕の感触――そこまで思い出した瞬間、記憶が途切れていた。
息を吸っても、胸の中に空気が入っていかない。
体を動かそうとするのに、動かす感覚が自分のものじゃないみたいに鈍い。
それでも、ゆっくりと上体を起こす。
身体のあちこちに巻かれた包帯が、擦れるたびにざらりとした音を立てた。
寝ていたのは柔らかい布の上。あたたかい毛布に包まれていた。
その心地よさが、逆に恐ろしく感じた。
どうして。
どうしてこんな場所にいるの。
胸の奥が急に冷たくなる。
次の瞬間、体が勝手に動いていた。
ベッドの端から転がるように床へ降りる。
冷たい床が足の裏を刺す。
痛いはずなのに、感覚が薄くて、ただ冷たいとしか思えなかった。
少女は壁際まで逃げ、身を小さく折りたたむようにして座り込んだ。
呼吸の音が遠く聞こえる。
体が震えていることにさえ気づかないほど、感覚がどこかへ遠ざかっていた。
ガチャリ――
金属の軋む音が、静まり返った部屋に響いた。
その瞬間、少女の全身がびくりと跳ねる。
心臓が喉の奥で鳴り、息を止めたまま、視線だけを扉へ向けた。
ドアノブがゆっくり回され、重たい扉が軋みながら開いていく。
少女は本能的に体を低くし、壁際から離れないようにしながら身構えた。
逃げ道を探すように視線が泳ぐ。
指先が震えているのに、自分では止められなかった。
扉が完全に開き切る。
現れたのは、昨日の“黒い外套の男”ではなかった。
部屋に入ってきたのは、長い銀髪を後ろで軽く束ねた男。
淡い光を反射する髪が、動くたびにさらりと揺れた。
緑色の瞳は深い森のように澄んでいるが、その表情には戸惑いが浮かんでいた。
男は一歩、部屋の中に足を踏み入れる。
そして、ベッドを見て――息を呑む。
そこに少女の姿がない。
わずかに焦りを滲ませ、素早く周囲を見回した。
その視線が、部屋の隅で身を縮めている少女にたどり着いた。
小さな体を抱くようにして隅でうずくまり、震える指先を壁に押しつけるようにしている。
警戒の色を宿した瞳が、男の動きを一瞬たりとも見逃さない。
男はその姿を見て、息を詰まらせた。
何かを言おうとしても、言葉が出てこない。
まるで、目の前の少女が“壊れてしまいそうなほど脆い存在”に見えたからだ。
その場の空気が、一瞬、静止した。
光の粒が差し込み、男と少女の視線が交差する。
音のない緊張が、部屋の中を支配していた――。
緊張が張りつめたままの空気を、男が軽く笑う声が破った。
「起きてるなんて知らなくってさ。ごめんごめん。」
軽やかな口調。
けれど、少女の中で張りつめた糸はほどけない。
むしろ、男の柔らかすぎる声に、心の奥がざわめいた。
今まで“声”は命令か罵声しか知らなかった。
意味のわからない、優しい響きを持つ言葉が、理解できなかった。
少女は何も言わず、壁に背を押しつけたまま男を見つめる。
男の動き一つひとつに警戒の視線を向ける。
指先が小刻みに震え、呼吸は浅く早い。
男はその反応に少し困ったように眉を下げ、肩をすくめた。
「そ、そうだ。俺の名前はエル・フォレストって言うんだ」
少女は息を飲む。
“名前”――それは、彼女の中で曖昧な響きだった。
奴隷市場では呼ばれることすら少なく、番号や罵りが名前の代わりだった。
理解できない声、少女の胸の奥を冷たいものが這う。
柔らかい口調、優しい声、いままで聴いたのとのない言葉。
その言葉に警戒するしかなかった。
エルは一歩だけ近づきかけたが、少女の肩がびくりと跳ねるのを見て、すぐに足を止めた。
その瞳には戸惑いと、ほんの少しの悲しみが宿っていた。
少女はそれを見ながらも、心の中で距離を測っていた。
“敵”か、“味方”か。
その答えはまだ、どちらにも傾かない。
ただ一つだけ分かっていたのは――
この男の声も、動きも、目も、これまでに触れてきた“恐怖”とは違う、ということ。
その違いが、かえって恐ろしかった。
知らない優しさは、信じるよりも怖いものだから。
廊下の奥から低く落ち着いた声が響いた。
「ドアの前で立ち塞がるな。声を出して起きたらどうするつもりだ。」
「起きたらって……もう三日も目を覚まさないから心配してたの、主君じゃないですか。」
「そんなことを言って――」
声の主がゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
その瞬間、空気がさらに張りつめる。
少女は反射的に顔を上げ、視線がぶつかる。
印象的な真紅の瞳と、短く整えられた黒髪。
白いワイシャツの上から黒いズボンを履き、背には黒い外套が揺れていた。
その姿を見た瞬間、少女は――あのとき、外套に包まれていた男だと気づいた。
「起きているなら、早くそう言え。」
低く響く声が部屋の空気を震わせる。
エルが不満げに口を尖らせた。
「言う前に、突っかかってきたのは主君のほうじゃないですか。」
主君と呼ばれた男は、表情を崩さずに彼を一瞥しただけだった。
殺気はない。だが、立っているだけで周囲を圧するような威厳があった。
少女は息を呑む。
恐怖ではない。
ただ――目の前の男から感じるものが、どうしようもなく心の奥を震わせた。
それは、警戒と緊張の狭間にある、言葉にならない感情。
なぜか、この空間に満ちる冷たい静けさの中で、彼の存在だけが――不思議と、安心できた。
「そんな隅に居ないで、こっちにおいで。」
その声音は、先ほどまでの冷たい威圧をすっかり失っていた。
まるで別人のように柔らかく、落ち着いた響きを持っていた。
少女は息を詰めたまま動けずにいた。
優しい言葉のはずなのに、警戒の方が先に立つ。
“なぜ、この人は急に声の調子を変えたのだろう”
疑念が胸の奥に渦を巻く。
隣に立っていたエルは、唇を押さえながら肩を震わせていた。
「おい。何がおかしい。」
主君が低く問いかけると、エルは堪えきれずに吹き出しそうな声で答えた。
「ッ…ク、クッ……だって、主君が……“おいで”って……」
短く息を吐いた主君は、鋭い目をエルに向けた。
一瞬で空気が張り詰めるが、すぐに興味を失ったように視線を外す。
そして、少女の方へゆっくりと歩を進めた。
足音は重くない。けれど、確かな存在感を伴って近づいてくる。
少女は反射的に身を固くした。
恐怖ではなく――その静けさに圧倒されたのだ。
主君は少女の前でしゃがみ、視線の高さを合わせた。
真紅の瞳がこちらを見据える。
そこには殺気も冷たさもなかった。ただ、揺るぎのない強さと静かな温度だけがあった。
「名前も知らないやつに話しかけられたら、怖いよな。」
その声は柔らかく、穏やかに空気を撫でた。
少女の胸の奥で、張り詰めていた糸がほんの少しだけ緩む。
何故かわからない――けれど、この人の声には、不思議な安堵があった。
ずっと緊張し続けていた心が、微かに呼吸を思い出すように。
「俺はルベル・ヴァルファレインだ。」
主君――いや、ルベルが名を告げた瞬間、少女は小さく肩を震わせた。
その声が怖かったわけではない。
けれど、胸の奥に何か冷たいものが広がる。
どうして、さっきの人もこの人も“名前”というものを口にするのだろう。
彼女の中には、その意味を測る言葉が存在しなかった。
“名前”とは何か。
“呼ばれる”とは、どういうことなのか。
理解できない。
けれど、二人の口から紡がれるそれが、どこか遠い世界の響きのように感じられた。
あたたかくも、触れてはいけないもののような――。
少女はただ、その音を胸の奥で反芻した。
怖いのか、安心しているのか、自分でもわからないまま。
静寂が再び部屋を包み込む。
ルベルはそのまま少女を見つめ、何も言わなかった。
ただその赤い瞳が、言葉よりも確かな意思を宿していた。
外では風が鳴り、遠くで扉が軋む音がした。
けれどその小さな空間だけは、まるで時間が止まったかのように静かだった。
――そして、少女は初めて“名”というものの重さを、知らぬまま感じていた。




