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奴隷だった少女は悪魔に飼われる   作者: アグ
扉の向こうの世界

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エルの忙しい一日

四時。私、エル・フォレストの一日は、まだ夜の闇が残る時間に始まる。眠る街を横目に、淡々と身支度を整える。

この時間帯、世界は静かだ。だが私の心は、静かではいられない。今日も一日、ルミエルと横暴な主君――ルベル卿――に仕える戦場が待っているのだから。


朝は自分の身支度を終えたら、すぐにルミエルが起きる一時間前に、ばぁやの部屋へ足を向ける。

ルミエルに使えるばぁやは大変だろうが、どこか羨ましくも思う。ルミエルは素直で優しい。その上、使用人にも気を使う。


それに反して私の主君は……横暴で、人使いも荒い。使用人なんて、要らないと思っているに違いない。

そんな事を考えて仕方ないと思いつつも、つい比べてしまう自分がいる。


支度が終わった私は、ばぁやの居る部屋に向かう。


「おはようございます」


部屋のドアを開けると、ばぁやはすでに身支度を済ませ、イスに座っていた。


「今日も早起きですね」


「ルミエルのおかげで早起きになりましたよ。疲れが中々抜けないです」


「私もです。生活習慣がしっかりなされているので。もう少し、ダラダラしてもよろしいのに」


ばぁやは、ルミエルのことを憂うように呟いた。その声に同意するように、私も小さく頷く。


「ええ、少し頑張りすぎるところがありますからね。」


朝の穏やかな空気の中で交わす、ほんの些細な会話。けれど、どこか胸の奥がざわつく。気付けば、時計の針はもう五時。ばぁやが慌てて部屋を出て行くのを、私は静かに見送った。


そして、私も執務室へと向かう。昨日の夜、ある程度まとめておいた資料を広げ、目を通す。主君に確認してもらうため、報告書と手紙を整える。


報告書だけでなく、手紙の量も、ルミエルが病人を治して以来、増えていた。内容は大体似たり寄ったりだが、どれも批判的な文面が多く、読むだけで胸が重くなる。


毎日、主君はこれらの文書に目を通すたび、激しい怒りを抑えなければならない。私はその怒りが爆発しないように、感情の隙間を埋め、言葉を選び、心を削るようにして文書を整える――それが、日課となっていた。


整理を終えると、私は主君の寝室へ向かう。一日で最も神経を使う作業――といっても過言ではない。


最近では、ある言葉をかけるだけで、主君は自然に目を覚ますようになっていた。


私はポケットから魔道具を取り出し、魔力を注ぎ込む。すると、小さな丸いペンダントから、可愛らしく遠慮がちな声が流れた。


「ルベル…構って欲しい…起きて…」


声が途切れる頃には、ルベルはベッドから飛び起き、ルミエルの姿を探している。私はその様子を眺め、ため息をついた。


「主君…おはようございます。ちなみに、ここにはルミエルは居ませんよ。生の声を聞きたいのでしたら、早く身支度を整えて朝ごはんを食べに行きましょう」


ルベルは冷たい目で私を見つめる。その視線は明らかに落胆を含んでいた。


「分かった。それと、一つ言いたい事がある。」


「なんでしょうか」


ルベルの視線が、私の手の中にある魔道具に鋭く注がれる。


「それを俺に渡せ」


「ダメです。」


私にとって、この小さな魔道具はある意味、命綱のような存在だ。これさえあれば、主君の怒りの矛先や魔力の暴発から、私の労力を大幅に減らすことができる。普通に起こそうとすれば、火の球や強風といった魔法で、容赦なく反撃してくる――それほど危険なのだ。


私は、この日からルミエル様と呼ぶことにした。


それは、単に病弱な存在としてではなく――主君を起こす際、これほどまでに主君を手懐けられる者は他に居ない、という敬意を込めた呼び方だった。


そうして、主君とルミエル様の朝食が終わると、私は執務室で不機嫌そうな主君の横に立つ。


「これ、全て今日の仕事ですので終わらせてください。私はお昼からルミエル様の教育に入るので……お昼以降はサボらないでください」


「それは、どういうことだ。俺がしてもいいんじゃないか」


また始まる――この小さな押し問答も日課の一つだ。


「この量の仕事を終わらせれば十分でしょう。ただ、主君が一般常識を知っているとは思えませんが……」


その言葉に、眉をひそめ反論する主君。

「それは、どういう意味だ」

「そのままの意味です」


しばらく沈黙が続き、なんとなく仕事に戻る。


そして、お昼に差し掛かった頃、主君がぽつりと聞いてきた。

「そういえば……いつからルミエルのことを『様』と呼ぶようになった」


私は軽く息をつき、胸の奥で小さな誇りを感じる。

「私は朝になるたびに、ルミエル様の偉大さを実感しています」


主君は目を細め、どこか誇らしげに微笑む。

「……そうか。お前も、よく見ているな」


私はその笑みに、小さく頷いた。


昼食を終えた頃、私はルミエル様の部屋に向かう。

扉を開けると、すぐにばあやに声を掛けた。


「ここからは私が引き受けます。少し休んでください。」


ばあやはほっとした表情で頭を下げ、静かに部屋を後にした。


私はベッド脇を見る。

そこには、当然のようにルミエル様の横で丸くなっている一匹の猫――モミジ。


「あなた、自分の立場を理解していないようですね。」


猫が半目でこちらを見る。

「立場ってなんや。オレはちゃんと護衛しとる。」


言うが――どう見ても

ルミエル様に撫でられ幸せそうに喉を鳴らす猫

でしかない。


「ルミエル様、甘やかさないでください。」


ルミエル様は指を止めて、小さく言う。

「だって…こっちの方が好き…」


中身はまだ子供。

ならば大人の私が教えなければならない。


「ルミエル様、いいですか?この猫――モミジは、まだ信用してはいけない存在です。以前、コイツに命を狙われているんです。

可愛いからといってそんな近くに置くべきではありません。」


ルミエル様は不満そうに眉を寄せ、落ち込みながら返事する。

「…わかった…」


私は視線をモミジに戻す。


「それであなた、その姿で護衛できていると言えるのですか?」


モミジはふん、と尻尾を揺らし座り直す。

「できるに決まっとるやろ。

現に、あんたが来る時の気配も足音も感じておったし。

この体なら、人間の姿より速く動けて反撃も可能や。」


ふむ。

なら証明させるだけだ。


私は無言で手の爪を伸ばし、刃のように鋭くする。

床を蹴り、音もなく間合いを詰め――

モミジの頬をかすめて突きを放つ。


赤い血が一滴、毛の上に落ちる。


ルミエル様が息を呑む。

「モミジ…!」


だが私は、振り返らない。


「この有様で、よく守っているなどと言えましたね。

ばあやなら今の一撃を避け、私を制圧していましたよ。」


言葉の重みが落ちる。

その瞬間、空気が変わる。


モミジは床に降り、人間の姿へと変わった。

その身体に宿る何か――

戦士の緊張が、ようやく戻ってくる。


私は満足して頷く。


「それくらいの気迫を、常に張っていないとダメですよ。」


私は、2人に軽く説教をした後、ルミエル様をベッドからソファーに移し、この世界の基本を教えることにした。


「あなたも、まともに教育を受けてきていないでしょう。これからルミエル様と一緒に覚えていってください」


モミジは腕を組み、少しめんどくさそうに顔をしかめる。

「またかよ…めんどくさいなあ」


一方のルミエル様は、ソファーに座る姿勢を正し、目を輝かせて始まりを待っている。

前から思っていたが、どうやらルミエル様は勉強が好きなようだ。


「まずは基本的なところから。この世界の名前は知っていますよね?」


モミジが鼻で笑うように答える。

「もちろんや。その辺は嬢ちゃんも知っとるやろ?」


ルミエル様はうんうんと頷き、好奇心いっぱいの瞳で私を見る。


「この世界は、ノクティルカと言います。では、この世界にはどんな人種がいるか知っていますか?」


ルミエル様が少し考え込み、言葉を選びながら答える。

「えっと…人間、獣人、悪魔、天使…それから…」


その言葉の途切れを見て、私は静かに補足する。

「エルフ、ドワーフがいます。そして、親和力がないと見えない妖精も存在します。私たち悪魔族は妖精を直接見ることはできませんが、ルミエル様のように、人間やエルフ、天使は見えることが多いですね」


モミジが少し不満そうに顔をしかめる。

「ほな、獣人族も見えへんのか?」


「悪魔族ほどではありません。獣人やドワーフは、たまに見える人もいますが、稀です。その点、エルフや天使は見える人が多いですね」


授業は淡々と進む。


昼食を終えた頃、私はルミエル様をばあやに任せ、モミジを連れ出して別室に入った。


「あなたがどこまで作法を知ってるか、見るためにやってみなさい」


モミジは腕を組み、ぶっきらぼうに顔をしかめる。

「なんや、そんなことして何になるん?」


「いいからやりなさい」


渋々ながらモミジは立ち上がり、想定の女性役の前に立った。

私は彼の立ち姿や動作を一つひとつ観察する――馬車から降りる所作、歩行時の距離感、椅子への案内、食事の際の振る舞い、パーティー会場での立ち振る舞いまで。


モミジは関西弁でぶっきらぼうに喋りながらも、自然な所作は確かに身についていた。


馬車から降りる場面では、モミジは背筋を伸ばし片手を差し出す。

「どうぞ、こちらからお降りください」

女性がその手に軽く触れると、モミジは歩幅を合わせ、安定して降りられるよう気を配る。

「ほら、焦らんでええんやで」と小さく声をかけ、護衛としての意識を示す。


外を歩く場面では、女性の少し後ろに立ち、肩幅程度の間隔を保ちながら進む。

通行人や障害物に注意し、女性が歩きやすいよう進路を整える。

「左に気を付けや、石畳で滑るかもしれへん」と自然に声をかけ、護衛としての細かい配慮も忘れない。


室内に入ると、モミジは椅子を女性の前に引き、腰を少し低くして促す。

「どうぞ、こちらへ」

座ると椅子の位置を軽く整え、カトラリーやナプキンの扱いにも気を配る。

食事中は背筋を伸ばし、相手の動作や飲み物の量を確認しながら、さりげなく会話を促す。


パーティー会場の想定では、モミジは女性を会場内に案内し、椅子まで導く。

周囲の客や装飾に注意を払い、女性が他の人とぶつからないよう距離を保つ。

「こっちの通路から入ると、混まへんで」とさりげなくアドバイスする。


私は静かに観察しながら、モミジがどこまで作法を理解しているのかを確認した。

ぶっきらぼうな態度の裏に、護衛としての基本的な動作は確実に身についている――それが手に取るように分かる。


観察が一通り終わると、次はモミジの戦闘能力を確かめる番だ。

「次は、戦闘がどこまでできるかを見せてください」

私はモミジを連れて訓練所へ向かう。


訓練所には騎士たちが集まっており、日々の剣術や魔法の訓練を行っている。

私はモミジに言う。

「ここで、騎士たちと同じ訓練をしてもらいます」


モミジは渋々ながら剣を手に取り、基本の構えを取る。

騎士の指導の下、模擬戦や連携動作を行う様子を観察する。


一通り見た結果、私の判断では――ぱっと見、団長より少し弱い程度か。

だが、基本的な戦闘スキルや反応速度、判断力は十分で、訓練次第でさらに伸びることが分かる。


私は心の中で記録しつつ、モミジの動きの一つひとつを丁寧に確認した。

この観察は、彼を護衛としてだけでなく、戦闘要員としても評価するための重要な試みだった。


訓練所での観察を終えた後、モミジを解放し、私は執務室に戻った。


主君――ルベル――と共に今日の仕事を片付け、報告書や手紙に目を通しながら、不機嫌になりがちな主君の横で細心の注意を払い対応する。


夕食の時間には、ルミエル様と主君の様子を静かに見守る。

二人の穏やかな時間を、そっと支える――それが私の務めだった。


その後は、一人で今日一日の苦情や主君に渡す書類を整理する。

さらに、モミジの観察結果をまとめ、明日以降のルミエル様の勉強に必要な準備も整える。


一日が終わり、夜の静けさが屋敷を包む中、私は軽く息をついた。

今日もまた、目の前で動く主君とルミエル様、そしてモミジを通して、この屋敷の日常と責任を改めて実感する。


こうして、私の長い一日は静かに幕を閉じた。



次回予告

教会との不和が再燃し、ルベルは怒りを胸に教会へ突入。

そして――彼らは本来の屋敷へ帰還する決断を下す


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