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奴隷だった少女は悪魔に飼われる   作者: アグ
扉の向こうの世界

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26/39

束の間の希望

暗く重い空気がテントの内外に沈殿していた。

ルベルの放つ殺気は、布を隔てても漏れ出し、外にいる者ですら息を呑むほどだ。


中では誰一人として身動きせず、張りつめた緊張だけが支配する。

黒衣の男は、どんな微かなきっかけであれ、ルベルが爆ぜ、その穢魔が自分の首を吹き飛ばす瞬間を警戒していた。


テントの中は、重苦しい空気に覆われていた。

ルベルは黒衣の男を一瞥するだけで、全てを計算し尽くしたかのように冷たく指を向けた。


「言うことは、これで終わりか?」


「ま、待て……何をするつもりだ……!」

男は身をよじり、声を震わせる。

必死の抵抗も、ルベルの静かな怒りの前では、ただ滑稽に見えるだけだった。


「黙れ。お前の罪の精算だ」

指が鳴る。小さく、だが確実な音。


瞬間、黒い穢魔が男の足元から蠢き出す。

腕に、足に、腰に――絡みつき、身体をじわじわと飲み込んでいく。

「やめ……やめろっ……!」

絶叫は手遅れの叫びに変わり、骨が折れる乾いた音が、体中で連鎖する。

腕の関節が軋み、足が砕ける感触に、男の理性は恐怖で震えた。

全身が自分のものではなくなっていく感覚――

意識は恐怖に呑まれ、逃げ場のない絶望だけが残る。


ばぁやはその光景に目を背け、ルミエルを抱き寄せた。

小さな手で耳を塞ぎ、視界を覆い、体を自分の胸に押し付ける。

「大丈夫……大丈夫よ……見なくていいの」

ばぁやの声は震え、しかしその意志は固く、ルミエルを闇から守る盾となった。


ルミエルは小さく丸まり、ばぁやの胸に顔を埋める。

指がばぁやの服をぎゅっと掴み、恐怖と安心を同時に求める。

震える吐息が、胸に伝わる。


ルベルは一度も目を逸らさず、淡々と、裁きの終わりを待っていた。

テントの中には、守られる命と、消えゆく命の差が、冷たく、静かに刻まれていた。


やがて悲鳴は消え、テントの中に響くのは、身体が砕ける乾いた音だけとなった。

黒い穢魔に飲み込まれた男の痕跡は消え、闇が全てを覆うと、静けさだけが支配した。


その重苦しさを切り裂くように、勢いよく一匹の猫が飛び込んでくる。

毛並みは乱れ、瞳は必死に揺れていた。

「大丈夫か! 悪い…俺が取り逃してしまってん」

関西弁の流暢な声が、場違いに軽やかに響いた。


ルベルは瞬時に猫の首根っこを掴む。

「お前がきっちり仕留めないから、ルミエルが襲われた」


猫は首をルミエルに向け、体を震わせる。

「俺より…強かったんや…」


ルベルの声は冷徹そのもので、容赦はない。

「そんな言い訳が許されると思うのか。

 お前が使えないなら、ここで捨てていく」


その瞬間、ばぁやは一歩前に出た。

人差し指でルベルの腕を小突き、落ち着いた声で告げる。

「やめなさい。もう終わりにする」


ばぁやの瞳には恐怖はなく、黒服の男よりも強い威圧が漂う。

ルベルの指先も、その前では一瞬だけ止まった。


ばぁやは手を伸ばし、猫を受け取る。

だが、腕の中で抱きしめるわけでも、優しく語りかけるわけでもない。

ただ力で制御し、動きを封じるだけ。

猫=モミジは怯えながらも、逃げられないことを理解し、体を震わせたままじっとしている。


ルミエルはその背に身を預け、小さな手をぎゅっと握りしめる。

守られているという実感はあったが、安心感ではなく、ばぁやの強さに依存しているという感覚だった。


テントの中は、破滅の余韻と、守る者の力が張り詰めた、冷たい空気で支配されていた。



張り詰めた空気を破るように、ルベルはいつものようにルミエルに近寄り、そっと抱き上げようとした。


しかし、ルミエルは反射的にルベルの手を払ってしまう。

決して拒絶したかったわけではない。

ただ、目の前で男があっさりと殺された事実が、幼い体の本能に危険を知らせたのだ。


その瞬間、ルベルの顔にわずかな傷みが走ったのを、ルミエルは目の端で見た。

咄嗟に、か細い声が零れる。

「ち、ちがう…」


ルミエルの顔も、悲しみに染まっていた。

その悲しそうな表情が、逆にルベルの胸にわずかな気遣いを呼び起こす。


「いや、良い……ばぁやはルミエルについてろ。

 俺は外に出る」


ルベルは指先に力を込め、強く握りしめた拳をちらりと見せる。

そのまま、静かにテントを後にした。

テントの中には、残された二人と、張り詰めた余韻だけが残った。


ルベルが去った後、テントの中は静まり返った。

ルミエルは震えながら、涙をこぼしつつばぁやにしがみつく。


「ち、ちがうの…わたし…ルベルのこと…」

声が出るようになった今も、幼い心は自分を責める。

自分のせいで、ルベルを拒絶してしまった――そう思うと、胸が締め付けられた。


ばぁやはモミジを優しく下ろすと、ゆっくりとルミエルの背中をさすった。

「分かってますよ。さっきまで危険な目に遭って、気が動転してただけです」

その声には揺るがぬ落ち着きがあり、責める気など微塵もない。


ばぁやがそう告げると、モミジは猫の姿のままルミエルの横に座った。

小さな体を揺らしながらも、テントの空気を読んで、そっと慰めの存在になろうとしている。


「そうやで…悪いのはアイツや」

モミジの言葉は、ルミエルの胸に静かに届いた。

テントの中には、悲しみと恐怖の余韻が残りつつも、守られる安心の感覚がわずかに漂い始めた。


しばらくして、泣き止み始めたルミエルを見て、ばぁやが静かに声を掛けた。


「ルミエル様、帰りますか?」


しかし、その言葉にルミエルは首を横に振る。

帰るということは、患者たちを何もせず放置することになる――

ルミエルの中では、そんなことは許されなかった。


そっと立ち上がるルミエル。

小さな足音を立てながら、テントの外へ向かう。


その瞬間、入り口の前にルベルが立っていた。


ルミエルはか細い声で、しかし真っ直ぐに告げる。

「あのね…わたし、ルベルのこと好きだよ。さっきは…びっくりした…」


その声は静かで、どこまでも優しく、揺らぐことがない。


ルベルは少し表情を緩め、低く返す。

「分かってる。それで、俺からの提案だが。精神的疲労も大きいだろ。ここは一旦帰ろう…」


だが、ルミエルの返事は即座だった。

「だめ…」


ルミエルの視線は鋭く、決意に満ちている。

「もう、みんな集まってる…」


襲われている間に、転移魔法で患者たちは連れてこられ、既に皆が揃っていた。

人の気配、ざわめきの密度、足音の数――ルミエルは直感でそれを感じ取り、やるべきことを理解していた。


「それでも、明日にするべきだ。」

ルベルの静かな提案に、ルミエルは即座に首を横に振った。


そこへモミジが横から割って入る。

「ムリやムリ。こういう子はな、言うて聞くタイプちゃうねん」


それは軽口に聞こえるが、妙に説得力がある。

ルミエルは、小さく笑ったような表情になり、モミジの頭を撫でる。

「ありがとう」


柔らかい毛並みの感触が、心を和らげる。

モミジは少し照れたように目を細める。

「…別にえぇけどな」


ルベルはその様子を睨みつけ、苛立ちを隠さず吐き捨てる。

「調子に乗るなよ、間者」


モミジも負けずに睨み返す。

「乗ってへんわ。ただ事実言うただけや」


そんな空気の中、タイミング悪くエルが合流した。

ルベルの視線が、八つ当たりの矛先を見つけるかのように刺さる。


「お前が、鈍間な刺客を見逃したせいで俺の印象が悪くなった」


エルは一瞬呆然とし、眉を下げた。

「いきなりなんですか…私は主君に言われた通り、クライの元に様子見に行ってただけです」


ルベルの怒りはまだ収まっていない。

誰に対してというより――自分に怒っているのかもしれない。


だがルミエルは、そんなルベルの感情を置き去りにして、

テントの前に立ち、そっと手を胸の前で組んだ。


まるで空気そのものに祈りを捧げるような静かな動作。

その仕草に、モミジが慌てて声を上げる。


「ちょ、まてや……!ここでやったらあかん!」


しかしルミエルの耳には届かなかった。

もはや意志ではなく――使命が動いていた。


次の瞬間、ルミエルの小さな体から、

光の粒子と黒い霧が溢れ出し、互いに渦を巻いて絡み合う。


それに気づいたルベルも声を張る。

「ルミ――やめろ!」

だがすでに遅い。


光と闇の波が、まるで呼吸する生物のように大きく膨れ上がり、

ルミエルの体を包み込み――


一気に爆ぜる。


眩い光と深い闇の二重の波紋が地面を走り、

敷地いっぱいに、円を描くように広がっていく。


砂が浮き、地面が震え、

その場にいた者すべてが思わず目を覆った。


ただ、一つだけ確かなのは――

その波紋には、“癒し”とも“浄化”とも、言い切れない何かが宿っていた。


最初に光が触れたのは、猫の姿でルミエルのそばにいたモミジだった。

毛並みを金色の光が走り抜け、

それと同時に体が勝手に震えだす。


「……っ、また強制かいな……!」


骨格が組み替えられる音が鳴り響く。


パキ…パキ…ッ


四肢が伸び、

肉球が細い指へと変わり、

尻尾は霧のようにほどけ消え去る。


ほんの一瞬で――

人間の青年・モミジの姿が現れた。


だが、その瞳は静かだった。

 動揺ではない――状況を把握した者だけが持つ、落ち着いた理解の色。


「……なんや。人間の姿に戻ったやん

 戦いで魔力すり減らしてもうて、しばらく人の姿が維持できんかったんよ」


 彼は何気ない仕草で指先を丸める。

 その瞬間――


 影が跳ねた。

 爪は獣の鋭さを取り戻し、

 次の瞬間には何事もなかったように人の形へと戻っている。


 それは言葉ではなく、存在そのものによる証明。

 能力は生きている。ただ“弱っていただけ”だ。


 さらに、かすかに残っていた戦いの傷跡が、

 光の粒に吸い込まれるように淡く癒えていった。


 その様子に、ばぁやが目を細めて呟く。


「……やはり、回復は猫の姿のほうが速いのですね」


 モミジは肩をすくめ、小さく笑う。


「まあな。猫でおった方が楽やし回りも早い。

 でも――この場で今さら戻ったら、空気読めへんやろ?」


 軽い冗談のように言いながらも、

 その声にはほんのわずかな疲労が混ざっていた。


最初に声を上げたのは、テントの奥で痩せ細り、意識もろくに保てない感染者の老夫婦だった。


「……歩け……る……?」

震える声とともに、長く麻痺していた足がかろうじて動いた。

ぎこちなく、頼りない一歩。

その瞬間、妻は顔を胸に押しつけ、嗚咽しながら繰り返す。


「戻った…戻った……!」


隣の少女も咳き込む。

しかし、これは苦痛の咳ではなく、ようやく肺が動く感覚に反応したものだった。

湿った気管がわずかに解放され、初めて空気を吸う感覚。

少女の顔に笑みが浮かぶ――

しかし、それは長くは続かない。


青年の腕にも変化が現れる。

黒く沈んだ断面に光が浸透するように見え、組織が再生される。

筋が繋がり、骨が支柱を形作り、指先が微かに動いた。

中には、失われたままの腕を持つ患者もいた。

彼らには再生の奇跡は訪れず、腕は戻らない。


「……あった……!手が……!」


青年は息を呑み、喜びと驚きで言葉を失った。

だが、周囲の感染者たちは皆、衰弱は隠せない。

回復の歓喜は一瞬の奇跡――その後すぐに、体力の限界が影を落とす。

笑い声はかすれ、祈りは途切れ、やがて多くが静かに倒れていく。


テントは歓喜と絶望が混ざった異様な空間となった。

光に満ちた瞬間を味わった者たちも、最終的にはウイルスの進行に抗えず、命を散らしていく。


「……これが…最後の救いか……」


テント中で、

人々が泣き、叫び、抱き合い、

祈り、笑い、崩れ落ちる。


「神だ!」

「天使だ!」

「救いだ!」

「ありがとう…ありがとう……!」


誰もが口々に声を上げるが、

ほとんどの者はルミエルを見てはいない――

ただ、奇跡の余韻の中で涙を流すことしかできない。


いつもは無表情のばぁやですら、

わずかに目を伏せ、

その光景を受け止めていた。


握りしめたスカートの布が震えていた。

彼女なりの、

感情の波。


光と闇の波紋は、敷地いっぱいに広がり、すべてを飲み込んだ。

その中心で、猫の姿から人間に戻ったモミジは、驚きと困惑の入り混じった表情で、自分の体を確かめる。

傷は消え、全身が再構築されていた。


テントの中では、隔離されていた病人たちが次々に身体を動かし、歓喜の声を上げる。

動かなかった足が動き、呼吸が軽くなり、絶望の中にいた者たちは涙を流しながら抱き合った。

誰もが奇跡を目の当たりにし、言葉にならない喜びに満ちていた。


その余韻の中で、ルミエルは力尽きるように膝をつき、倒れ込んだ。

しかし、ルベルはすぐに駆け寄り、腕の中でそっと抱き止める。

彼の目には焦りが浮かぶが、冷静さを失わず、倒れたルミエルの小さな体を確実に守った。


モミジは立ち尽くし、周囲の歓喜を静かに見つめる。

猫に戻る自由は残っている。だが今は、人間の姿でその光景を目に焼き付ける。


テントには、喜びと癒しの余韻が静かに漂う。

守られる者と守る者の間に生まれた絆、奇跡の力が、空気の隅々まで満ちていた。


倒れたルミエルは、ルベルの腕の中で安らぎを感じながら、静かに目を閉じる。

モミジもまた、人間の姿で隣に座り、奇跡を目にした余韻をかみしめる。


そしてテントには、光と闇の波紋の余韻だけが残り、

一つの戦いは終わりを告げた。


気合い入れたらいつもより文章長くなってしまいました

次回はそろそろ最終章に入るかもしれないです

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