初めての声、守る誓い
誰もいなくなった天幕の中で、ルミエルはひとり佇んでいた。
胸の奥にまとわりつくのは、形を持たない悪意――かつて日常的に浴びせられてきた暴力の残り香だった。
――声を出せば、殴られる。
理解しているはずなのだ。ルベルも、エルも、ばぁやも、そんなことは絶対にしない。
彼らは優しい。怒鳴らない。叩かない。
それを頭ではわかっている。
だが、恐怖がそれを上書きする。
条件反射は、理屈より速い。
喉が塞がり、震えが言葉をかき消す。
助けを呼ばないと――
呼ばないといけないのに。
焦れば焦るほど喉は乾き、声は遠ざかっていく。
その葛藤が胸いっぱいに広がっていったその時――
天幕の布越しに差し込む光が、影を薄く照らした。
外から静かに気配が近づき、やがて天幕がゆっくりと開かれる。
天幕が開いた瞬間――空気が裂けた。
見えない速さで影が差し込み、黒服の男が無音で踏み込む。
冷たい銀の刃が、まるで一瞬でワープしたかのように、ルミエルの細い喉元まで迫った。
「……お前か? 俺の依頼主の封筒を見たやつは」
その声には怒気も焦りもなく、ただ事実を確認する機械のような冷たさがあった。
ルミエルの喉に刺さりそうなほど近いナイフ。
返事をしなければ――でも声が出ない。
ルミエルは息を呑む。
喉が焼けつくように固まり、声が形にならない。
答えたいのに、答えられない。
ふと、ルミエルの手に握られた紙に男の視線が止まる。
瞬間、空気が少し変わった。
「……お前、声が出ないのか?」
刃の冷たさはそのままに、男の声だけがわずかに和らぐ。
ルミエルは、怯えた表情のまま、ゆっくりと頷いた。
その動きは慎重で、震えていて、
今にも泣きそうなのに――
それでも精一杯の意思表示だった。
男は無感情に言った。
「……これは都合が良いな。お前の近くにいた男も、ばあさんも――どっちも強いからな」
淡々と、それは「事実」だけを述べる声。
感情の波がまったくない。
男は見ていたのだ。
ルベルが外に出ていくところも、ばぁやが天幕を離れていくところも。
その動きと気配から、男は本能で悟っていた。
――勝てない。
だからこそ、今こうしている。
声を出せないルミエルだけを狙って。
「でも、急がないといけなくてな。後ろから追ってくる奴もいるんだ」
男の目はルミエルを見ているのに、意識は別の場所にも張り巡らされている。
刺客か、監視者か、追跡者か――
その存在に警戒しているのが伝わってくる。
ルミエルは話を聞きながらも、必死に考えていた。
――どうにか逃げる方法はないか。
――どうすれば動けるか。
首にかすかに触れる刃の冷たさを感じながら。
ふと、手の中に存在に気づく。
握りしめていたペン。
ナイフよりは短い。
男よりは遅い。
でも――刺せる。
せめて一瞬だけでも動きを止められるかもしれない。
ルミエルは、手の中のペンを強く握り直した。
指先に力が入り、震えが止まり、
視界から涙の膜がゆっくりと消えていく。
手に緊張が走る。
小刻みに震える指先、喉の奥に張り付いた乾き。
目をぎゅっと閉じて深呼吸するたび、過去に何度も殴られた日の痛みが胸の奥から押し寄せる。
――声を出したら、殴られる。
――でも、助けを呼ばなきゃ。
頭では分かっている。ルベルも、ばぁやも、男のように自分を傷つけたりはしない。
理屈では安全だと理解している。
でも、体は恐怖に支配され、動こうとすると震えが勝手に手足を縛る。
声も、出したくても出せない。
ペンを握り直す。
――せめて、これで抵抗できるかもしれない。
息を止め、目を閉じ、指先に力を込め――手を突き出そうとした瞬間、男の手が鋼のような速さで握る。
「余計なことするな。お前はここで死んでもらう」
恐怖が全身を貫く。
怖い――怖い――死にたくない――たすけて……
男がナイフを振り上げた瞬間、足元から身体の奥底まで、感情が爆発した。
恐怖も絶望も、生きたいという渾身の願いも、すべてが風となり、天幕を揺らす。
その瞬間、喉の奥で何かが弾けた。
小さく震える声が、ついに形を持つ。
「ルベル……たすけて……!」
か弱くても、確かに存在する声。
恐怖に押しつぶされそうだった胸の奥から、希望の光が生まれた――
ルミエル自身が初めて、自分の声を取り戻した瞬間だった。
ルミエルの声が、厚い煉瓦の部屋を通り抜けた。
あり得ないほどの風――感情が生んだような力――が、ルベルの身体に巻き付き、伝えようとしていた。
か弱くも、澄んだ鈴のような声。
「ルベル……助けて……」
耳に届いた瞬間、ルベルの胸は一瞬で締め付けられた。
小さく、でも確かに存在する、可愛らしい声。
その声だけで、胸の奥に熱いものが込み上げる。
――ルミエルだ。間違いない。
愛らしい声に胸を打たれたのも束の間、理性が瞬時に警告する。
声を出すこともできないほどに傷つき、恐怖に押し潰されていたルミエルが、この声を出すほどの危険に晒されている――その事実が、ルベルの脳裏を鋭く貫く。
怒りと心配が一瞬にして交錯し、ルベルは目の前の現実に言葉を失った。
「くそ……俺がいるから、大丈夫だ!」
無意識に拳を握りしめ、心の奥で叫ぶ。
親バカな彼にとって、ルミエルの存在は守るべき命そのもの。
ちょっと泣きそうになるくらい愛おしい。
怒りと愛情が混ざった熱が、身体の中で一気に膨れ上がる。
感動や思考の余裕はなかった。
危険が迫る前に行動するしかない。
ルベルは瞬間的に判断し、目を閉じる。
そして――一瞬で、ルミエルのいる天幕へと転移した。
目を開けた瞬間、そこには、怯えと恐怖で震えるルミエルの姿。
ルベルは思わず駆け寄り、両手で小さな身体を包み込む。
「……もう大丈夫だ、俺がいるから」
言葉に、胸いっぱいの愛情と守る覚悟を込める。
親バカなほどにルミエルを守りたい――その気持ちは、声よりもずっと強く、確かだった。
ルベルは周りを見渡した。
荒れた天幕。
裂けた布。
飛び散った砂や埃。
そして――柱に倒れかかるように座る、見知らぬ男の姿。
ルベルの怒りは、瞬時に頂点に達していた。
冷静に状況を把握する余裕はなかった。
倒れている男の状態も、荒れている天幕の理由も、どうでもよかった。
頭の中はひとつだけ――
ルミエルを危険に晒した。
その事実だけで、全身の血が逆流するように熱くなる。
怒りの感情が、理性も躊躇も押しのけ、男に向かって膨れ上がる。
拳に力が入り、筋が浮き出る。
視線は鋭く、ただ男に釘付けだった。
ルミエルを守る――それだけで、すべてが行動の理由になる。
怒りは言葉を越え、胸の奥から溢れ出る純粋な守る意思に変わっていた。
男はルベルが現れた瞬間、反射的に立ち上がった。
今、彼の頭の中にあるのはただ一つ――どう逃げるか。
天幕の入り口に向かって全力で走り出すが、ルベルの動きはそれを許さない。
素早く追いかけ、腕をがっしりと掴む。
「どこにいく。」
男は何も答えず、ナイフをルベルの喉元へ振り抜く。
だが、ルベルはびくともしない。
その手に込められた力で、ナイフは軽く弾かれる。
「お前、ここから逃げられると思ってないよな。」
緊張感が天幕内に張り詰め、空気が重く震える。
その瞬間、ばぁやが慌てて戻ってきた。
服には泥がこびりつき、明らかに戦いの痕跡が見える。
荒れた天幕と男の姿よりも先に、ばぁやの視線は小さく震えるルミエルに注がれた。
駆け寄り、そっと抱きしめる。
ルミエルの震える身体が、ようやく少しだけ落ち着く。
守られている――そう感じる温もりが、恐怖で張り詰めた心にそっと染み込んだ。
ばぁやがルミエルを抱きしめ、その小さな身体を守ってくれているのを確認した瞬間、ルベルの胸は少しだけ軽くなった。
――もう、背中を預けていい。
守るべきはルミエルではなく――今、この瞬間目の前の男だ。
怒りが全身を駆け巡る。
ルミエルの恐怖を目に焼き付け、身の危険に晒された瞬間、親としての本能が沸き上がった。
血の中で熱く燃える憤怒。
理性を超え、怒りと守る意思が黒い穢魔となって身体から溢れ出す。
黒い影は意思を持つかのようにうねり、男の手足、首に絡みついた。
逃げることも、反撃することも、もはや不可能。
穢魔は単なる拘束ではない――男の身体に刻み込まれた、ルミエルを傷つけた報いの宣告だ。
「ここまでしたんだ……助かると思うなよ」
低く、冷たく、天幕に響く声。
この声には、怒り、守る覚悟、憎悪、すべてが混ざり合い、凍てついた刃のように鋭い。
理性は言葉を選ばせる余裕すら与えなかった。
男は震える唇で初めて声を出す。
「……俺を殺したら……依頼主が、わからなくなる……」
ルベルの目は、男の声と震えを冷静に、しかし苛烈に見据える。
――言い訳も命乞いも、無意味だ。
怒りと憎悪の狭間で、計算も動作も緻密に心の中で整理される。
今、どの一手が最も効率的に男を制するか。
そして、ルミエルを守るための最善は何か――すべてが、瞬時に答えとして結びついた。
胸の奥で、守るべきものを守った満足と、憎悪の熱が同時にうねる。
理性と感情が交錯する中で、ルベルは静かに、だが確実に次の行動を決めた――
男を制する。二度とルミエルに危害を加えさせないために。
「それが、なんだ。俺はこの国の人間じゃない。お前らが何しようがかまわない」
男の声に含まれる冷淡さを、ルベルは眉一つ動かさず受け止めた。
しかし、その瞬間、男の息が一瞬止まるのが見えた。
「それなら……俺を逃してもかまわないだろ」
必死の言い訳。逃げ道を作ろうとする男の声は震えていた。
だがルベルの視線は鋭く、怒りと守る意思の光を放ち、何の余地も与えない。
「何が構わないんだ。お前は危害を加えただろ」
低く、揺るがない声。
過去の暴力の記憶も、恐怖に晒されたルミエルの姿も、胸に刻み込んだうえでの言葉だ。
「殺そうなんてしない。少し脅しただけだ」
もはや男の言い訳に価値はない。
ルベルの中で、怒りと守る意思以外の余白は消えた。
「そんな、理由どうだっていい」
言葉を放った瞬間、天幕の空気が張り詰める。
ルベルの視線と存在感だけで、男は逃げ場がないことを悟る。
すべてはここで決着する――ルベルの胸に宿る、守るべき者を傷つけさせない強い意志が、天幕の中に重く静かに満ちた
見ていただきありがとうございます
次回はルミエルが大活躍!
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