孤影の警告
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少し時を遡る。ルミエルたちは、感染者用の仮設テントが立つ広場に先に到着していた。
すでにこの街や近隣の患者は集められていたが、遠方の患者たちは、阻害魔法のせいで転移魔法が使えず、まだ到着していない。
馬車の窓から外を覗こうとしたルミエルの手を、ルベルが静かに制した。
「いま、俺たちが入る専用のテントを立てさせている。準備ができるまでは絶対に出るな」
以前の力で回復できるのは、本人だけには効かないことが実証されていた。
その証拠に、ルミエルの奴隷時代の深い傷は、今も生々しく残っている。
もしルミエルがウィルスに感染すれば、もう治せない――。
その事実が、ルミエルの胸を締め付ける。
ルベルは慎重に、外に出ることを固く禁じていた。
ルベルとエルだけは、現場の整備のために馬車を降り、ばぁやに任せられた。
少し落ち込んでいるルミエルを見て、ばぁやはそっと助け舟を出す。
「ルベル様は、心配で厳しく言っただけです。ばぁやも、ルミエル様が病気になってしまったら悲しいですから」
ルミエルは握りしめていた紙とペンで、自分の気持ちをそっと書いた。
まだひらがなしか書けない不器用な文字で、胸の中の不安を伝える。
「わたしも…るべるとえるがそとにいって…びょうきにならないかしんぱい」
ばぁやはにっこり笑い、優しくルミエルの手を取りながら頷いた。
「大丈夫ですよ。悪魔は人間と違って、病気には強いんです」
ばぁやの手の温かさに、ルミエルの胸はふわりと軽くなった。
声は出せなくても、握った紙とペンをぎゅっと抱きしめる手の力で、少しずつ安心が伝わる。
目に小さな光が戻り、肩も少し上がる。
馬車の中の小さな世界に、ほっとした静かな時間が流れた。
ルミエルは、まだ言葉ではなく文字だけで、自分の気持ちを伝えながら、安心の温もりを感じていた。
しばらく待っていると、ルベルとエルが戻り、馬車を少し動かした。
「仮設テントができましたので、ルミエル様とばぁやはそこで待機をお願いします」
エルは馬車を仮設前に停め、ルミエルとばぁやを案内しながら、ばぁやが状況を確認した。
「今はどうなっているんですか。ルミエル様を長く待たせたくないのですが」
エルは少し険しい顔で答えた。
「騎士団長様と間者が魔法陣の破壊に向かっていますが…まだ魔力が戻らず、予定より遅れています。
魔法陣を壊せば、間者がルミエル様の護衛に付きます」
ばぁやはため息をつき、察したように言った。
「それが予定より遅れているのですね」
「その通りです」
ルベルはテントの中にある椅子に、ルミエルを座らせながら言った。
「あの間者は見込みがあると思ったが…エル、あの間者は弱く見えたか?」
ルベルはエルに、実力を確かめるように訊く。
「私も使える程度の実力はあると感じました。ただ、獣人なのに猫というのが少し引っかかりますね。
もっと強い虎などなら、戦闘力はさらに高くなるのでしょうが」
ルベルは考え込みながらも、俊敏さや場の空気の読みの鋭さを評価した。
戦闘もあの俊敏さなら十分こなせるだろう、と確信する。
そして、若いこともあって、伸びしろも大いに感じられた。
ばぁやは、エルとルベルの会話をしばらく聞いてから、ピシャリと咳払いした。
「あなた達は……そんな大事な場所を“見張りなし”だと思っているのですか?
下っ端なんて置くわけありませんよ」
エルとルベルは、ぽかーんと顔を見合わせた。
「はぁ? 人間に手強いだと?」
ルベルが眉をひそめ、聞き捨てならないという顔で言う。
エルも静かに頷き、さらりと言った。
「ええ。手強いとは思いません。片手で十分ですね」
──ばぁやとルミエル、同時にため息。
まるで示し合わせたように、2人が同じ動作をする。
(ほんとにこの子達、分かってないのね……)
ルミエルは小さな手でペンをつかみ、紙に一生懸命書いた。
『でも、てきも おじさんも にんげんだよ。
もうひとりは ねこ だよ』
ルミエルにはまだ “獣人=強い” の感覚がなく、
猫はただの弱くてかわいい生き物のカテゴリだった。
その一言で、ようやくエルとルベルの頭の中で線が繋がる。
「……ああ、そっちの基準か」
「くせんしてるのか」
二人の声が、息ぴったりにハモった。
ばぁやはそっと額を押さえた。
今日も頭痛薬が手放せそうにない。
エルは少し考えたあと、淡々と付け足した。
「でしたら、私が行って片付けたほうが早そうですね」
するとルベルは肩をすくめ、平然とした声で言う。
「あいつらが死んでも……こちらとしては何の問題もないが」
ルミエルの身体がピクリと跳ねた。
慌てて紙にペンを走らせる。
『るべる、つめたい』
紙を突き出すように見せるルミエルの目は、ほんの少し吊り上がっていた。
その表情を見た瞬間、ルベルの胸に“親バカスイッチ”が入る。
(かわ……いや、違う。違う違う。ここで嫌われたらダメだ)
慌ててルベルは咳払いし、言葉を軌道修正した。
「まぁ……でも、失敗されたら作戦に支障が出るからな。エル、頼んだ」
「分かりました」
エルはその言葉と同時に、影のように静かに姿を消した。
そして、エルが姿を消してからしばらく経ったころ。
ルベルがふと顔を上げ、空気のわずかな揺らぎに気づく。
「……魔力量の気配が変わったな。どうやら、解除された」
そう言いながら立ち上がり、外へ視線を向ける。
「俺はこのまま転移魔法の起動に魔力を貸してくる。向こうが準備を整えているはずだ」
ばぁやは深く頷き、落ち着いた声で答える。
「分かりました。ルミエル様とここで待機させていただきます」
「頼んだ」
短い言葉を残し、ルベルは風のようにテントを出ていった。
その瞬間、テントの中には
ルミエルとばぁや、二人だけの静けさが残った。
外では人々のざわめきと、重い空気が少しずつ変わり始める気配がする。
だがこの小さなテントの中には、別の種類の緊張がそっと漂い始めていた。
ルベルが去り、静寂が落ちたテントの中で――
ルミエルは、胸の奥にじわりと広がる“違う種類の緊張”を感じていた。
それは、敵でも病でもなく。
「本当に自分の力で治せるのか」
その一点に対する、漠然とした不安だった。
もし魔法が発動しなかったら――。
発動しても、治らなかったら――。
考えれば考えるほど、胸の奥がぎゅっと強く締め付けられる。
頭の中で、不安の渦が止まらず、ぐるぐる回り続ける。
そんなルミエルの変化を、ばぁやはすぐに見抜いた。
そっと肩に手を置き、優しく声をかける。
「失敗してもいいんですよ」
その言葉は、とても静かで、けれど揺るがない強さがあった。
「元を言えば――これはこの国の問題です。教会が動かないことも、天使族が動かないことも……すべて、この国の責任なのですから」
ばぁやの言葉は、責めるのではなく、ルミエルに“背負わせないため”の優しい盾だった。
その温かさが、ルミエルの胸にゆっくり染み込んでいく。
肩の力が少しだけ抜け、心がふっと軽くなった。
その時――テントの外で、風がひゅう、と鳴った。
寒くもないのに、肌がざわっとした。
胸の奥に、言葉にならない“違和感”が走る。
ルミエルは紙とペンを握りしめ、そっと入口を見つめる。
まるで誰かが、外でじっと息を潜めているみたいな――そんな感覚。
テントの布がかすかに揺れる。
風でも獣でもない、もっと静かで、狙う足取り。
ばぁやはまだ気づかない。
ルミエルだけが、その気配を感じていた。
(……なに?)
胸が小さく震える。
テントの外から、誰かが急ぎ足でやってくる音がした。
小さな足音と、かすかな呼吸の乱れ。ルミエルは紙を握りしめて、そっと入口を見つめる。
「ばぁや殿、ルベル様より伝言です。転移魔法の準備で少し手を貸してほしいとのこと」
声の主は、見た目も仕草もルベルの護衛にそっくりだった。
ばぁやは一瞬考えたが、ルベルの言葉だと思えば当然従うべきだと判断し、すぐに頷く。
「分かりました。すぐ戻ります」
ルミエルは不安そうにばぁやを見つめる。
ルミエルは急いで紙に書いてばぁやに見せた。
「……ばぁや、どこへ?」
「少しだけ外で確認してきますね」
ばぁやは優しく笑ったが、その背中はすぐにテントの外へ消えた。
テントの中、一人残されたルミエルの心臓は、いつもより速く打ち始める。
警告音のように、胸の奥で鳴り響く。
黒ずくめの気配は完璧に消されていた。
普通の人間なら、まったく気づかないほど――その場の空気に溶け込んでいる。
けれど、ルミエルは本能でわかった。
人生で味わってきた過酷な経験が、彼女の感覚を研ぎ澄ませていた。
――この黒ずくめの男が、ただならぬ悪意を持って近づいていることを。
紙をぎゅっと握る小さな手に力が入り、胸の中の恐怖と覚悟が、静かに交錯する。
テントの中の静けさは、外の影に対する唯一の防御であり、
ルミエルの本能が告げる、最初の警告音だった。




