小さな願い、大きな力
一夜が明けた。
ルミエルの顔には、少しだけ安堵の色が戻っていた。
昨夜、ルベルに封筒のことを伝えられたからだろう。
胸のつかえが取れたように、穏やかな表情をしていた。
けれど――
屋敷の朝は、いつもと違う。
どこか慌ただしく、人々の足音が絶えない。
⸻
「起きたのですね。」
声をかけたのは、いつも通りのばぁやだった。
周りが慌ただしくしているのに、その姿だけは変わらず落ち着いている。
どうしたのだろう、とルミエルは小さく首を傾げた。
その仕草に気づいたばぁやが、少し声を落として言う。
「病が流行っているようで、この近くの街でも広がっているんですよ。
でも、ルミエル様は気にしなくて大丈夫です。」
⸻
ばぁやは優しく微笑みながら、ルミエルの身支度を整えていく。
髪を梳かし、襟を直し、そっと肩を撫でるような手つき。
ルミエルは鏡越しにその手元を見つめながら、心の奥で迷っていた。
――本当に、このままでいいのだろうか。
街では病が広がっている。
けれど、自分はただ部屋で守られているだけ。
人前に出るのは怖い。
それでも、何かできることはないのだろうか。
そんな思いが、静かに胸の奥で揺れていた。
ばぁやは、ルミエルの胸の奥にある迷いを感じ取ったのか、
そっと穏やかな声で言った。
「ルミエル様は、なにもしないでゆっくり過ごしてくださいね。」
その言葉は優しかった。
けれど、ルミエルの心は静かに揺れていた。
封筒のこと、昨夜の出来事、街で広がる病――
何もできずに見ているだけなのが、どうしようもなく苦しかった。
⸻
そんな時、ふと頭の奥で思い出が光る。
あの占い師の言葉。
光属性もあると言っていた事。
そして、屋敷に来てから読んだ一冊の絵本。
“ひかりまほうは けがれをいやす”
そう書かれていたページを、今でも覚えている。
魔法なんて使ったことはない。
けれど――もし、それが本当に使えるのなら。
ルミエルは、静かに机の上の紙とペンを取った。
震える指先で、一文字ずつ、時間をかけて書いていく。
「ばあや ひかりのまどうしょを もってきて」
拙いひらがなの列。
でも、その小さな文字には、
どうしても誰かを助けたいという想いが込められていた。
ばぁやはそれを受け取り、目を細めて微笑む。
「……かしこまりました。すぐにお持ちいたしますね。」
扉が閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
ルミエルは小さく息を吐き、胸の上に手を置いた。
その手のひらの奥で、
かすかな鼓動が「まだ終わっていない」と告げているようだった。
ばぁやが光の魔導書を抱えて戻ってきた。
厚い本の表紙には、金色の模様が刻まれている。
ルミエルはそれを受け取り、そっと開いた。
けれど――文字がびっしりと並んだページを見ても、
読める漢字はひとつもなかった。
ルミエルの眉がわずかに下がるのを見て、
ばぁやはすぐに察したように、優しく笑った。
「では、ばぁやが読んでさしあげますね。いちまいずつ、ゆっくりと。」
穏やかな声が部屋に流れる。
ばぁやが読み上げる言葉の響きは、
どこか懐かしくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
それが、嬉しかった。
けれど――今は全部を聞いている余裕はない。
ルミエルは慌ててペンを取り、紙に書く。
「ちりょうまほうのところだけ よんで」
その拙い文字を見たばぁやは、にっこり笑い、
「はいはい」と頷いてページをめくった。
ぱらり――
本の紙をめくる音が、静かな部屋に優しく響く。
窓の外では、朝の光がゆっくりと傾き始めていた。
その光の中で、ルミエルの金の瞳がわずかに輝く。
まるで何かを感じ取るように。
⸻
その頃、屋敷の別の一室では――
ルベルが書類を手に、重い空気の中で立ち尽くしていた。
ルベルは机に両手をつき、積み上げられた書類を乱暴に払いのけた。
その動作ひとつで部屋の空気が一気に張り詰める。
「くそっ……! やっぱりバカだ、貴族は!」
低く唸るような声が、重厚な執務室に響き渡った。
「人間の浅ましさには限度があると思ってたが、どうやら底がないらしい。」
傍らで控えていたエルが冷静な声音で応じる。
「人間は無能なのに、なんでもできると信じ込んでますから。自分の欲を“正義”と呼びたがるんですよ。」
「コレじゃ、確実にルミエルが狙われるじゃないか……」
ルベルは拳を握りしめた。
彼の脳裏に、怯えて震えていたルミエルの姿が蘇る。
白い頬に浮かんだ涙、掠れた声。
――二度とあんな顔はさせたくない。
苛立ちが頂点に達した瞬間、執務室の扉が控えめにノックされた。
「ルベル様……お客様がお見えです。」
入ってきた執事は、緊張した面持ちで一礼した。
「客だと?」
ルベルの眉が険しく吊り上がる。
「こんな忙しい時に、誰が来るっていうんだ!」
怒気を含んだ声に執事は一歩後ずさるが、すぐに言葉を続ける。
「……王国騎士団の団長様です。」
「……騎士団長だと?」
ルベルの表情が一瞬で変わった。怒りの色が消え、代わりに鋭い警戒が宿る。
エルがわずかに目を細めた。
「まさか……ルミエル様の件で?」
「わからん。」
ルベルは低く言い放ち、椅子を押しのけて立ち上がる。
「だが、こんな時期にわざわざ訪ねてくる理由があるとすれば……ろくでもない話だろうな。」
外からは騎士団特有の重い足音が近づいてくる。
鉄靴が床石を打つ音は、警告の鐘のように響いていた。
「通せ。」
ルベルは短く命じた。
その声音は冷たく鋭く、まるで嵐の前の静けさのようだった。
扉が重々しく開き、室内に足音が響く。
中に入ってきたのは、金髪碧眼の壮年の男。
おそらく五十歳前後だろうか。
若い頃ならさぞやモテたのだろう。
今は落ち着いた風格を備えた、歳を重ねたダンディー――
ただの“強者の風格”ではなく、知性と余裕を纏った大人の男に見えた。
「この国の団長、クライ・ビンセント様が、なんの様だ。」
ルベルの声は低く、鋭い。
警戒と苛立ちが混ざった響きだった。
団長は微笑み、軽く頭を下げる。
「ヴァルファレイン殿は、いつ見てもお若いですな。」
その言葉には、長年の知己としての軽い敬意と、互いに理解し合う者同士の余裕が感じられた。
二人の間には、互いの正体を知る特別な空気が流れている。
ルベルが悪魔であることも、団長は当然承知していた。
団長は肩をすくめ、静かに笑いながら続ける。
「お前は、老けたな。だが、俺の半分も長く生きていないのだ。
その辺の小僧と同じようなものだ。」
ルベルは無言で拳を握り、胸の奥の苛立ちを抑える。
会話は、表向きは礼儀正しいものの、どこか険悪な緊張を孕んでいた。
嫌な方向に話が進む気配を感じたルベルは、八つ当たりに近い口調で感情を吐き出す。
「……ヴァルファレイン殿が、こんなにもイライラしているとはな。
この国の人間でもないのに、私が来たら追い出されるものかと思ってましたよ。」
団長は微笑を崩さず、しかし目の奥に鋭い光を宿す。
「ふむ……なるほど。だが、心配するな。俺は貴様を追い出したりはせん。」
ルベルの苛立ちは、外から見ると少し子供っぽい八つ当たりのように見えるが、
その内側にはルミエルを巡る不安と怒りが渦巻いている。
団長もそれを理解しているかのように、落ち着いた態度を崩さず応対していた。
二人のやり取りは、互いの立場と性格を見極め合う微妙な駆け引きとなり、
執務室の空気は張り詰めたまま、重厚な緊張感を保っていた。
ルベルと団長のやり取りが、微妙に張り詰めた空気のまま続いていた。
そこにエルが静かに割って入る。
「ビンセント様、どうぞこちらにお座りください。」
エルは落ち着いた声で、団長をソファーへと誘導する。
団長はにこやかに頷き、ゆっくりと腰を下ろした。
するとエルは少し微笑みながら続ける。
「少々、こちらもそちらの事情に巻き込まれてしまって、イライラしてるんですよ。」
団長の青い瞳がルベルに向き、低く響く声で返す。
「ほぉ……情報交換といこうか。
ヴェルファレイン殿には、例の奴隷解放の手伝いもしてもらいましたしな。」
ルベルは横目でクライ・ビンセントを見やり、
冷静さを装いながらも内心の苛立ちを押し殺して言った。
「まずは、こちらの質問から聞かせてもらおうか。」
室内の空気は少し和らぎ、
それでも互いの警戒心と緊張感は微かに残ったまま。
エルが間に立つことで、二人の言葉の鋭さは緩和され、
同時に次の情報交換のための空間が自然に作られた。
ルベルは机に肘をつき、低く険しい声で続けた。
「今回は、どこの貴族が原因か分かってるのか?」
クライ・ビンセント団長は少し気まずそうに視線を落とす。
「中央の貴族派の連中としか……。鈍臭いところもあるのに、なかなか尻尾が掴めなくて……」
ルベルの眉が深く寄る。
「お前ら人間は、バカなのか。
封筒があんな道のど真ん中に落ちていたのに、なぜ騎士団が見つけられないんだ……!」
苛立ちの矛先は、目の前の団長ではなく、人間そのものの愚かさに向かっていた。
拳を机に軽く叩きつけ、怒気を込めて責める。
クライは少し顔色を変え、慎重に応じる。
「やはり……手がかりは、あるのですか?」
ルベルは首を振り、冷たい声を落とす。
「そんなもの、ここにはない。
強いて言えば……俺の娘が拾って、巻き込まれただけだ。」
その瞬間、団長の表情が変わる。
青い瞳が大きく見開かれ、声にも驚きが混じった。
「娘ですか……娘!」
ルベルは無言で横目を向ける。
その視線の奥には、娘を守れなかった悔しさと怒り、
そして今後の警戒心が鋭く光っていた。
部屋にはしばし沈黙が流れる。
ソファーに座る団長は、表情を整えようとするも、驚きと困惑が隠せない。
ルベルの苛立ちと冷徹さ、そして“娘”の言葉に含まれる重みを、静かに感じ取っていた。
「いつできたのですか! 私の息子と婚約しませんか!」
団長の言葉に、ルベルの苛立ちは一気に膨れ上がる。
眉を寄せ、歯を食いしばりながら低く吐き捨てた。
「冗談のつもりか?」
「いえ、本気です! うちの息子は私に似てかっこいいのに、性格は嫁に似てて……」
団長は嬉しそうに続けるが、その調子にルベルのイライラはさらに募る。
「お前の息子も可哀想だな。お前に似るなんて。」
「失礼な!」
団長は顔を紅潮させて反発するが、その場の空気はますます険悪になる。
その瞬間、エルが静かに、しかし力強く割って入る。
「二人とも、話がズレています。
お嬢様が封筒を見つけ、それで誘拐されそうになったのです。
封筒には“薬物リスト”と書かれていたそうですが、事前に予想していた通り、ウイルス性の薬物だったのでしょう。
街ではすでに病が流行っています。」
エルの言葉は簡潔で明確だ。
重みを帯びた説明に、ルベルの苛立ちは少し収まり、
団長もようやく現実に目を向けざるを得なくなる。
室内には、沈黙と緊張が一瞬流れる。
二人の感情的なやり取りを挟んだあと、
改めて問題の深刻さがはっきりと浮かび上がったのだった。
団長はソファーに座ったまま、眉をひそめて言った。
「それで、屋敷は厳重な警備に……
近くの街は病に侵されている人が少ないのは、そのせいか。
しかしだなぁ……領主には許可を取ったのか?」
ルベルの目が鋭く光る。
問題はここが自分の領土ではないのに、勝手に実行に移している点だ。
眉間に皺を寄せ、低く吐き捨てるように言った。
「……許可なしにやったなら、許さないぞ。」
エルは落ち着いた声で答える。
「こちらの領主様とは、私がやり取りしておりますので問題ありません。」
団長は少しほっとした表情を見せ、しかし続ける。
「なるほど……それで、相談なのですが、主犯格を探したくはないですか?」
ルベルは眉間にさらに皺を寄せ、声を低くして尋ねる。
「……何が言いたい?」
「ヴェルファレインの旦那が、解決してくれたらありがたいんですが……」
その言葉に、ルベルは明らかに嫌そうに顔をしかめた。
「……俺が? 勝手に街の問題に首を突っ込めと?」
団長は続ける
「いえ、無理に頼むつもりはありません。」
ルベルは深く息をつき、視線を窓の外に向けた。
胸の奥には苛立ちと警戒が入り混じる。
「……だが、放っておけるほど状況は甘くないな……」
室内は再び静かになり、団長は少し緊張した様子でルベルの反応を窺っていた。
薄曇りの光が部屋に差し込む中、ルベルは静かに声を上げた。
「そ、そうだろ。このままではヴェルファレイン殿の娘だって、命を狙われる可能性がある」
その言葉を聞いたエルは、再び苛立ちをあらわにした。
「お前らがちゃんと貴族共を抑えられないせいでな……何百年経っても、この国は好きになれん」
ルベルは小さく息を吐き、空気を落ち着かせようとする。
「そんな事、言わないでくれよ」
エルは少し息を整え、これからの話に耳を傾けた。
「それで、教会は何をしているんです? 光魔法を操れる者たちがいるじゃないですか」
クライは気まずそうに肩をすくめる。
「それが……効かないのです。どうやら魔法阻害の結界が張られているらしい」
ルベルは手のひらに魔力を集中させて確認する。
「……確かに魔力は使えないな」
何も起こらず、空気が静まり返る。
しかし、次の瞬間、微かに黒い風が指先から渦を巻く。
「だが、穢魔の方は使えるようだ」
エルは息を飲み、黒い渦を見つめる。
力はある――戦うためではなく、あくまで「使えることの確認」だった。
ルベルは視線を前に固定したまま、低く呟く。
「この結界の中でも、少なくとも穢魔は作用する……だが、悪魔でも穢魔を扱える者は一握りに過ぎない」
黒い風が静かに渦巻く音だけが、部屋に響いた。
この確認が、今後の選択肢をわずかに広げる希望となる――しかし、同時に残酷な現実も示していた。
見てくれてありがとうございます!
今回のエピソード用にワンシーンのイラストをXに載せているので、よかったら覗いてみてください✨
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アグです。
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