囁く病の影
誘拐されかけた夜から、一夜が明けた。
眠ったはずなのに、身体の芯に残る疲労は抜けず、まぶたの裏にはまだ昨夜の光景がちらついている。
窓の外では、淡い朝の光が静かに部屋を照らしていた。
ルミエルはわずかに首を動かし、隣に目をやる。そこには、椅子に腰かけたまま眠るばあやの姿。
その穏やかな寝息を見つめた瞬間、張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ和らいだ。
だが鏡に映った自分の顔はまだ青ざめていて、体調が戻っていないことを物語っていた。
布団が擦れる音に気づいたのか、ばぁやが目を覚ます。
「起きたのですね……顔色、まだよくありませんよ。今日も一日、休みましょう」
穏やかに言うその声に、ルミエルはそっと首を横に振った。
頭から離れない――昨日、ルベルに渡せなかった“封筒”のこと。
それを思うと、どうしても休む気にはなれなかった。
ばぁやは困ったように眉を下げ、ルミエルの顔を覗き込む。
「……ルミエル様。何か伝えたいことがありますか?」
ルミエルは小さく“うん”と頷いた。
声は出せなくとも、その瞳に浮かぶ意志ははっきりしている。
ばぁやはゆっくりと立ち上がり、そっと問いかけた。
「ばぁやにお話しくださいますか? それとも……ルベル様に伝えますか?」
ルミエルは少しだけ視線を伏せて迷ったあと、静かに首を傾げて――
ルベルにも聞いてほしい、という意思を示した。
ルミエルは、震える指先で紙に文字を綴った。
“きのうのひとふうとうをねらってた。ふうとうをよこせっておいかけてきた”
その内容に、ルベルの眉は自然と潜む。
「やはりか……」
小さく吐き出すように呟く声には、抑えきれない心配と怒りが混じっていた。
「でも、ルミエルはどうやって逃げきれた……。周りの人は、手首を掴まれ無理やり連れていかれそうになったって噂してたが……」
ルミエルは次の文字を、わずかに顔を伏せながら書き込む。
“せんとうくんれんうけてた。つよくならないとすてるって”
文字の一つ一つが、辛い過去の重みを帯びている。
それを読み取るルベルの胸は、怒りで熱くなる。
あんなにも痩せ細り、虐待に耐え、戦闘訓練まで強いられていた事実に、思わず拳を握りしめる。目の前の少女を守れなかった悔しさと、加害者への憤りが入り混じる。
ばあやもまた、少し顔をしかめ、言葉を控えつつもその怒りを共有しているようだった。
「……そんなことまで……」
小さな声で呟き、ルミエルに触れずにそっと背後で見守る。その存在は、ルベルが感情に飲み込まれそうな瞬間に、わずかな安心を与えてくれる。
ルベルは深く息をつき、震える手で紙を握った。
「……もう、誰も、ルミエルを傷つけさせはしない」
その言葉に、ばあやは静かに頷き、ルミエルも小さく首を縦に振った。
戦いの訓練や虐待を経た少女の、わずかな笑顔が、部屋の静寂にそっと溶け込んだ。
ルベルは眉を寄せたまま、封筒の中身を思い出すように呟いた。
「ルミエルは封筒の中身、覗いていたよな?何が書いてあった?」
ルミエルは机の上に紙を広げ、ペンを走らせる。
“わからないじで薬物リストってかいてた。”
その筆跡を追ったルベルは、重く息を吐く。
「普通の薬物リストであんなに追いかけられるのもおかしい。何か……この国は嫌な予感がするな。」
傍らのばぁやも眉をひそめ、静かに頷いた。
「はい。ばぁやの長年の勘が言っております。早く領地に戻るべきです。」
ルベルとばぁやの視線が交わる。二人の意見は、珍しく完全に一致していた。
その空気を切るように、窓の外では遠く鐘の音が響いていた。
――同じ頃。
薄暗い屋敷の一室。重厚な扉が閉められ、室内の空気は沈んだ焦りで満ちていた。
長いテーブルを囲むのは五人の男たち。彼らの背後には、無言の使用人たちが控えている。
「いったい王国騎士団はどこから嗅ぎつけてきたんだ!」
怒号が響く。
「奴隷市場の方は安泰じゃなかったのか!」
焦りを隠せずに説明する男が一人、額の汗をぬぐう。
「この十年、何もなく上手く回っていたのですが……ある人物がリークしたらしく。何故か証拠の書類まで手にしていたそうで……」
「証拠?」
低い声が部屋を震わせた。重役と思しき男が指を鳴らすと、部屋の端にいた別の部下が前に出る。
「では、今回の“封筒”の件はどうなっている?」
説明役の男は怯えながらも口を開く。
「実は……運び屋として雇った男が酒を飲みながら歩いておりまして。酔ってトイレに行くとき、邪魔だと壁際に置いたそうで……その隙に、通りがかった少女に取られたようでして……」
「少女?」
その場の空気が一瞬凍る。
「……ですが、ご安心を。封筒はすでに取り返しております。中身も無事、こちらに。」
男は懐から一通の封筒を取り出し、机の上に置いた。
だが、部屋の誰もがその紙に視線を向けながらも、安堵の色を見せなかった。
理由は一つ――すでに“見られた”可能性がある。
ざらりと椅子が軋み、主と思しき人物が口を開く。
「……その少女。必ず見つけ出せ。」
その命令が発せられた瞬間、屋敷の窓の外を黒い影がいくつも飛び立っていった。
風が唸る音が夜の街に溶けていく。
そして――その風の向かう先には、ルミエルたちがいた。
ルベルはルミエルの肩に軽く手を置くと、声を抑えて言った。
「ここはもう、ばぁやに任せてやれ。話は聞いた。今はゆっくり休ませろ。」
ルミエルはまだ薄く赤い頬のまま、目を細めて小さく頷いた。ばぁやが寄ってきて、優しく毛布を直す。ルベルはその背中を一度だけ見つめ、目に浮かんだ不安をぐっと抑えて立ち去る。
廊下を渡り、執務室の扉を閉める音が低く響いた。
室内はいつも通りの静けさだが、空気はどこか冷えている。
ルベルは書類の山をざっと目で追い、机の向こうにいるエルを呼んだ。
「エル、来い。」
エルは淡々と立ち上がり、椅子の背にもたれてルベルを見た。ルベルは机の上に封筒のことをまとめた紙を置き、簡潔に状況を説明する。
「ルミエルが見たのは“薬物リスト”らしい。その資料が、あいつらにとってどれほど価値があるのか……考えられることを洗い出せ。」
エルは眉一つ動かさず、その場で答える。声は冷静だが、言葉の芯は鋭い。
「薬物なら、まず考えられるのは違法薬の高額売買です。依存性の高い麻薬──市場価値があれば闇の取引が起きる。あるいは、政治的に使うなら──私ならウイルスを使いますね。」
その言葉に、ルベルの背筋が一瞬伸びる。紙の端がかすかに震えた。
「ウイルスか……。」
ルベルは指で顎を撫で、思考を巡らせる。声は低く続ける。
「高額売買なら、俺たちは“知らぬ存ぜぬ”で領地に戻れる可
能性もある。しかし、ウイルスなら話が全く違う。街そのものを壊す道具になる。」
エルはため息を一つ吐くように肩を落とした。
「バカな貴族派が考えそうなことです。関わって良いことは一つもない。発覚すれば国全体が混乱する。それに──狙いが”薬物”とされている以上、手を引く者も出ないでしょう。」
ルベルはためらわずに別の資料をめくり、確認するような口調で訊いた。
「ところで、ルミエルの身分はどうなっている?書類上は──」
エルは書類の束を取り出し、端を撫でるようにめくった。部屋の明かりが彼の顔に淡く落ちる。
「はい。正式には貴方の娘として登録されています。奴隷の経歴はすべて抹消し、関わった商人たちは処分済みです。記録の改竄も確認しました。」
ルベルは息を吐き、椅子にもたれかかる。安堵と別の緊張が交差する。
「――なら、表向きに奴隷の件で詮索されることはないか。だが、“見られた”可能性がある以上、安全圏とは言えない。あいつらはどうして封筒を取り返したと説明していた?」
エルは短く説明する。声に苛立ちはなく、事実だけを淡々と並べる。
「雇った運び屋が酔って手を放した隙に盗られた、と。封筒自体は回収済み。ですが、問題は“既に誰かの目に触れた”可能性です。見られた情報が一度外に出れば、どのように拡散するか分からない。」
ルベルは窓の外へ視線を投げた。街の輪郭がぼんやりと見える。人々はいつも通り歩いている——だが、どこかざわつきもある。
「やるべきことを整理しよう」
ルベルは手を机に叩きつけるほどではなく、しかし決然とした口調で続けた。
「一つ目──ルミエルの療養を最優先に。ばぁやには徹底して看ておくよう命じた。二つ目──この書類の所有者、ルート、及びそれを持ち出した人物の経緯を洗え。三つ目──『ウイルス』の可能性は完全に切り捨てられない。もし闇側がそんな手を使うなら、街が感染の場になる前に情報を掴まねばならない。」
エルは頷く。目がわずかに鋭くなる。
「了解しました。既に動ける手を動かします。疫病に関しては、医師に非公式に当たらせつつ、薬屋や床屋などの異常を調べさせます。闇側の動きは密偵を差し込み、封筒の“回収”と称した者たちの繋がりを洗います。」
ルベルは深く息を吐き、最後に小さく付け加えた。
「外には余計な動きはさせるな。騒ぎが大きくなれば、余計にルミエルに危険が及ぶ。俺はここに残る。だが、名目上は領地に帰る準備を進めさせる。急ぎ過ぎて隙を作るなよ。」
エルは冷静に答え、書類をまとめて立ち上がった。
「承知しました。では、私は早速動きます。報告は逐一、貴方に上げます。」
扉の外で再び静寂が戻る。ルベルは一人、机に寄りかかりながら、目を閉じた。薬物リスト──それが示すものは単なる闇の商売なのか、もっと陰惨な計画の断片なのか。答えはまだ見えない。
だが確かなことが一つある。ルミエルが見た紙切れ一枚が、これから二人の運命に大きな影を落とし始めた——その余波が、街の片隅で静かに膨らみ始めているのを、誰もまだ理解していなかった。
エルが出ていった後、執務室は再び静まり返った。
時計の針の音がやけに大きく響く。
ルベルは机に肘をつき、片手で額を押さえた。
窓の外はもう夜で、街の灯がぼんやり滲んでいる。
「……ルミエル。」
その名を呟くだけで胸がざわつく。
彼女が封筒を拾わなければ、こんなことにはならなかった。だが、あの優しさがなければ、彼女はきっと彼女ではない。
そのことを思うと、責める言葉など出てこなかった。
扉を軽く叩く音がした。
入ってきたのはばぁやだった。
「旦那様、ルミエル様は先ほど少し熱を出されましたが、今は下がりつつあります。体も落ち着いてきた様子です。今夜は心配いらないでしょう。」
「……そうか、よかった。」
ルベルは胸を撫で下ろす。
ばぁやが静かに下がると、室内に再び静寂が戻った。
窓を開けると、外の空気がわずかに湿っていた。
街の奥から、誰かの咳き込む声が聞こえる。
昼間よりもその音が多い気がした。
偶然か、あるいは――。
「……いや、考えすぎだな。」
ルベルは小さく息を吐く。
だが、胸の奥では何かが引っかかっていた。
エルの言葉が思い出される。
――『この国を陥れるのであれば、私ならウイルスを使いますね』。
ルベルは机に戻り、筆を取った。
エルへの追加指示を簡潔に書きつける。
『街医師に密かに接触。風邪・発熱の患者数の推移を報告せよ。薬屋・市場の出入りも調査。民心の動揺を探ること。』
紙を折り、封蝋を押す。
「……もしそれが現実なら、すでに始まっているのかもしれない。」
呟く声が闇に沈んだ。
――その頃。
街の一角では、薬屋の戸が激しく叩かれていた。
「開けてくれ! 子どもが熱を!」
薬屋の老人は顔色を変え、戸を開ける。
外には数人の人々が列を作っていた。
咳をする者、顔を覆う者。
空気が、どこか異様に重い。
月の光が雲の隙間から漏れ出し、濡れた石畳を照らす。
その光の中を、一人の黒衣の男が静かに通り過ぎた。
彼の手には、あの封筒とよく似た印章が刻まれた紙片が握られている。
彼は一瞬だけ空を見上げ、小さく笑った。
「まもなく、淘汰が始まる。」
――屋敷では、ルミエルが安らかな寝息を立てていた。
少し前に出た熱のせいで頬はまだ赤いが、呼吸は穏やかだ。
夢の中で見ているのは、どこか懐かしい庭の風景。
けれどその光景の隅で、黒い羽根がひとひら、ゆっくりと落ちていく。
夜は深まり、静寂の中に“何かの始まり”だけが息づいていた。
最後まで見ていただきありがとうございます
xにてイラスト付きで人物紹介させていただいてますよければ覗いてください
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