すり替えられた真実
誘拐されかけた恐怖は、まだルミエルの胸の奥に残っていた。
張り裂けそうな心臓の鼓動が耳の奥で鳴り続け、震える手をどうにか抑えようとしても止まらない。
そんな彼女の様子を見て、ルベルは自然とその身体を抱き上げた。
「今日はもう帰ろう」
低く落ち着いた声が、かろうじて現実へと引き戻してくれる。
ルミエルは小さく頷く。そしてある違和感に気がつく。追いかけらていた時は重みがあり紙特有の角があったのに
今は柔らかく軽い感触に気がつき目線を落とす。
いつ入れ替わったのか、まるで心当たりがなかった。
ルベルもルミエルの視線を追うように、彼女の腕の中を見た。
そこにあったのは、柔らかな麻袋。
「麻袋か? 騒動の途中で手にしたのか?」
ルミエルは小さく首を横に振った。
封筒を持っていたと伝えたくて、必死に口を動かす。
けれど、声にならない。漏れるのは息ばかりだった。
「無理しなくていい。落ち着いたら屋敷で聞く」
ルベルはそう言いながら、ルミエルをしっかりと抱き直した。
今は彼女を安全な場所に移すことが先だ。
――まさか、占い師の忠告がこれほど早く現実になるとは。
自分の軽率さに、ルベルは奥歯を噛みしめた。
時刻はまだ昼過ぎだった。
御者には「ゆっくり戻るように」と指示を出し、ルミエルとルベルは転移魔法で屋敷へと先に戻った。
早馬で知らせを受けていたばぁやとエルは、すでに屋敷のエントランスで待機していた。
転移の光が消えると同時に現れたルミエルの姿を見て、ばぁやは悲しそうに眉を下げる。
疲労に顔を青ざめさせたルミエルの腕には、いつの間にか布の感触だけが残っていた。
そこにあるはずのものはなく、代わりに小さな麻袋が握られている。
ばぁやはその手に気づくことなく、そっと頬に触れた。
「ルミエル様……さあ、お部屋へ参りましょう。」
ルミエルは小さく頷き、喉を震わせたが声は出なかった。
胸の奥で何かがざわめく。だが、その封筒の件を伝えることはできずにいた。
この沈黙と、すり替わった麻袋、それが後に大きな事件の引き金になるとは、誰も知らなかった。
部屋に戻ると、ばぁやがすでに温かいココアを用意して待っていた。
湯気がほのかに揺らめき、甘い香りが緊張で張り詰めていた空気をゆっくりと溶かしていく。
カップを両手で包むと、妙に冷えきっていた指先がじんわりと温かさを取り戻した。
その温もりが胸の奥まで染み込むようで、ルミエルは小さく息をつく。
部屋に入ると同時に、彼女はそっと腕に抱えていた麻袋をばぁやに差し出した。
中身のことを尋ねられるかと一瞬身構えたが、ばぁやはただ受け取り、静かに頷いただけだった。
「ルミエル様、今日はお部屋でお食事をして、そのままお休みになりましょう。
もしかしたら、体調を崩されるかもしれません。」
その声音には深い気遣いがにじんでいた。
ばぁやにとってルミエルは、いまだ繊細で、何かの拍子に壊れてしまいそうな子供のままだった。
ルミエル自身も、ようやく心の扉を少しだけ開き始めたばかりだった。
それなのに、再び恐怖と混乱の渦に巻き込まれ、胸の奥が冷たく固まっていく。
小さく頷くと、彼女はベッドに身を沈め、ふわりと毛布に包まった。
その柔らかな温もりに守られながらも、眠気は訪れない。
閉じかけた瞳の裏で、封筒の感触だけがいつまでも離れなかった。
ばぁやはルミエルが毛布に包まれ、静かに目を閉じるのを見届けると、そっとベッド脇に置かれたカップを片づけた。
彼女の寝息が穏やかになったのを確かめ、音を立てぬようにドアを閉める。
廊下にはひんやりとした空気が漂い、外の光が長い影を床に落としていた。
その影の中に、見張りとして立つ一人の騎士の姿がある。
ばぁやは立ち止まり、ちらりとその騎士に目を向けた。
いつもは優しい微笑みを浮かべる彼女の瞳が、今は氷のように鋭く光る。
「ルミエル様に何かあったら――それは、ヴァルファレインの恥だと思いなさい。」
静かな声だった。だが、その一言には絶対の威圧がこもっていた。
騎士は思わず背筋を伸ばし、額に冷や汗を浮かべながら深く頭を下げた。
ばぁやは何も言わず、ゆっくりとその場を後にする。
足取りは落ち着いているが、その背には確かな決意の重みがあった。
向かう先は、執務室――ルベルのいる場所。
老いた背中に揺れるランプの灯りが、屋敷の静寂に小さな影を落としていた。
ばぁやは何も言わず、ゆっくりとその場を後にした。
足取りは落ち着いているが、その背には確かな決意の重みがあった。
向かう先は、執務室――ルベルのいる場所。
老いた背中に揺れるランプの灯りが、屋敷の静寂に小さな影を落としていた。
廊下を進むごとに、怒りとも悲しみともつかない感情が胸の奥で渦を巻く。
あの子を守ると誓ったはずの青年が、なぜこんなにも軽率な判断をしたのか。
その思いが、彼女の歩調を少しだけ速めた。
執務室の前まで来ると、扉の向こうから低い声が漏れてくる。
「……なぜ、逃した。」
ルベルの苛立ちが壁越しにも伝わってきた。
ばぁやは一瞬だけ目を閉じ、静かに息を吸った。
そして、迷いなく扉を押し開く。
重たい扉が勢いよく開かれ、音が部屋に響いた。
ルベルとエルが同時に顔を上げる。
「そんな自信はいらないのです!」
ばぁやの声が部屋を震わせた。
その瞳はかつて仕えた王にすら怯まなかった女のもの。
一瞬にして、執務室の空気が張り詰めた。
「ばぁやの教えを……忘れたのですか」
静かながら、刃のように鋭い言葉。
ルベルは思わず喉を鳴らし、エルも視線を落とした。
机上の蝋燭が揺れ、影が壁に踊る。
沈黙の中、ばぁやの杖が床を軽く打つ音だけが響いていた。
「落ち着いてください。主君もイライラしていて…」
エルがなだめるように声をかけたが、ばぁやは鋭い眼差しを向けた。
「あなたが横でルベル様を甘やかすから、腑抜けになるのです。ルミエル様がまた心を閉ざしたらどうするのです? やっと他のメイドにも任せられるほどになっていたのに!」
エルは口をつぐみ、ルベルも言い返そうとしたものの、喉の奥で言葉が詰まった。
その沈黙を見て、ばぁやは小さくため息をつく。
「まったく……いつまでも子供のままですね」
そう呟くと、懐から一つの小袋を取り出した。
「それより――ルミエル様がこれを大事に握っておられました。ルベル様、心当たりはありませんか?」
柔らかな灯りの下、麻袋が静かに差し出された。
ルベルは差し出された麻袋を受け取り、手のひらの上で軽く持ち上げた。
中からは何の感触も伝わらず、ただの空袋のように軽い。
「……殻だな。麻袋を持たせた記憶はない」
その声は低く、わずかに苛立ちを含んでいた。
ルベルは眉間に皺を寄せ、しばらく黙り込む。思考をたどるように視線を宙へ向けた。
「そういえば――ルミエルが封筒を拾っていたな」
その一言に、部屋の空気がわずかに張り詰める。
ばぁやもエルも息を呑み、互いに視線を交わした。
状況から考えれば、封筒こそが今回の騒動の鍵であることは明白だった。
エルが静かに口を開く。
「……その中身の確認は? 追いかけてまで奪おうとしたのなら、見られたくないものだったはずです」
ルベルの表情がさらに険しくなる。
「ルミエルが――中身を見ていた」
その言葉に、エルは椅子を軋ませて立ち上がった。
「それって……まずいですよ! 狙われます、確実に!」
ばぁやの顔色も変わる。彼女の胸の奥に、嫌な予感が静かに広がっていった。
ルミエルが拾ったのは、ただの封筒ではなかった。
闇の底で蠢く者たちの秘密が記された、“命取り”の証だったのだ。
「今でも、ルミエル様の周囲には最小限の人間しか近づけておりません。ですが――警備をさらに強めてください。屋敷の外も内も、警戒の手を緩めてはいけません」
ばぁやは静かながらも強い声で言った。その表情には、長年屋敷を支えてきた者だけが持つ確かな威厳が宿っていた。
「わたくしが今夜からしばらくルミエル様のそばにつきます。あの子が落ち着くまで、片時も離れません。この屋敷の結界がある限り侵入は困難でしょうが――それでも、あの子を狙う者が出ないとは限りません」
その言葉にルベルは深く頷く。
「……ばぁやがそばにいてくれるのが一番だ。あの子も、お前の顔を見れば安心するだろう」
机の上には、例の“麻袋”が置かれていた。
ルベルはそれを見下ろし、指先でゆっくりと袋の縁をなぞる。
「だが……ルミエルにはこの件を話すな。余計な不安を与えたくない」
そう言いながらも、彼の表情は重い。
エルがため息をつきながら口を開いた。
「それにしても、封筒の中身を知っているのは……ルミエル様だけ、ということになりますね」
ルベルの瞳が僅かに揺れた。
「……あぁ。俺も見ていない。封筒を拾った時、ルミエルは中を確かめたようだったが……それを伝える前に、あの混乱だ」
「つまり、あの中に何が書かれていたのか――今、誰にも分からないということですか」
エルの低い声が室内に響く。
ばぁやは静かに目を閉じ、祈るように手を組んだ。
「ならば、なおさら目を離してはいけません。あの子の知った“何か”が、敵を引き寄せるかもしれません」
ルベルは小さく頷き、視線を封筒の代わりに残された麻袋へと落とす。
「……封筒の中身を知る者がルミエルだけなら、彼女の身こそが“証拠”ということになる。守らなければ――」
窓の外では、夕陽が山の端へと沈み始めていた。
長く伸びた影が部屋の床を覆い、静寂だけが残る。
――その時点では、まだ誰も知らなかった。
あの封筒に書かれていた秘密が、やがて王都を揺るがすほどの大事件の火種になることを。




