人混みの中の鎖
「お腹、空いただろ……どこか店に入って食べるか?」
ルベルの声は柔らかいが、街の喧騒の中にかき消されそうだった。
露店に並ぶ焼き立ての串肉や、香ばしいパンの匂いが風に乗って漂う。ルミエルはつい目を奪われ、小さく首を横に振って、指先で露店の方を指した。
「店の方がもっと美味しいの食べられるぞ?」
ルベルが少し困ったように笑う。
けれどルミエルはまた、こくんと首を振った。屋台の並ぶ通りが好きだった。人の声、笑い声、色とりどりの料理。そこには“普通の人の温度”がある。
ほんの少しでも、それを感じたかった。
ルベルはその小さな意思を読み取ると、肩をすくめて観念したように言った。
「分かった。今買ってくるから、そこで待っててくれ」
ルミエルは頷き、近くの噴水のそばにあるベンチへ歩いて行った。
腰を下ろし、手にしていたノートと封筒を膝の上に置く。水音が心を落ち着かせるように響く中、彼女は静かに街の人々を眺めた。
笑い合う親子、荷車を引く商人、若者たちの賑やかな声。
けれど、どれも少し遠い世界のように感じる。
ルミエルの胸の奥に、ふと小さな不安が広がる――“人間が怖い”という、かつて刻まれた感覚。
だから、彼女は無意識に通りを観察していた。
いつでも逃げ出せるように。
誰が自分に近づこうとしているか、見逃さないように。
そんな時だった。
一人の男が視界の端に入った。
擦り切れた外套を羽織り、帽子を深くかぶっている。
歩き方に、どこか焦りがあった。
ルミエルが視線を向けると、男の足が止まり――そして、まっすぐこちらへ向かってきた。
胸がぎゅっと縮む。
冷たい汗が背筋を伝う。
男は言葉もなくルミエルの腕を掴んだ。
突然の衝撃。ノートと封筒が膝から滑り落ち、地面に散らばる。
「……ッ!」
声にならない悲鳴が喉で詰まる。
乱暴に引かれる腕。
“嫌だ”という意思を伝えようと、ルミエルは首を振り、必死に腕を振り解こうとした。
だが、男は構わず力を込める。
その強引な仕草――その瞬間、過去の記憶が一気に甦る。
鎖の音。
怒鳴り声。
肌に焼きつくような痛み。
自分の意思など、誰にも見向きもされなかったあの日々。
胸の奥で何かが弾けた。
恐怖と怒りが混ざり合い、身体が勝手に動く。
それは“教え込まれた”動きだった。
かつて、奴隷として生きていた頃――
逃げられぬように、そして主の命令ひとつで敵を殺せるようにと、叩き込まれた戦闘の技。
痛みを覚えるよりも早く、どう動けば相手を倒せるか、体が覚えてしまっていた。
ルミエルの中に封じられていた“戦い方”が、反射のように目を覚ます。
思考よりも早く、視線が男の急所を捉え、足が自然に動いた。
掴まれた腕を軸に身体をひねり、空いた足で男の脛を思い切り蹴り上げる。
鈍い音と共に、男が苦痛の声を漏らし、手の力が一瞬緩んだ。
その瞬間を逃さず、ルミエルは身を翻して腕を振り解く。
足元の石畳を蹴り、勢いのまま人混みの中へと駆け出した。
心臓が激しく打ち、耳の奥で血の音が鳴る。
息が乱れ、胸の奥に焼けつくような痛みが走る。
――怖い。
――でも、捕まりたくない。
――もう、あんな場所には戻りたくない。
背後で誰かが叫ぶ声が聞こえたが、それすら遠くに感じた。
視界の端に人の影が揺れ、光と音が混ざり合って、世界がぐらつく。
けれど、足は止まらない。
生きるために、逃げるために――ルミエルはただ前を見て走っていた。
ルミエルは荒い息を吐きながら、狭い路地を駆け抜けていた。
石畳を踏みしめる足音が、どこか遠くで反響するように響く。だがその背後から聞こえる足音は確実に近づいてきていた。最初は一つだった音が、今では二つ――重く、確実に迫っている。
(増えてる……!)
胸が締めつけられるように痛み、鼓動が早鐘を打つ。
五感の鋭いルミエルには、誰がどんな速度で追ってきているのか音で分かった。
一人は重い足取り、もう一人は軽く速い。狩人のように、逃げ道を塞ぐように動いているのが分かる。
「……っ!」
声を出せない代わりに、息を荒く吐きながらルミエルは路地の分岐を一瞬で見極める。
行き止まりの影を避け、細く入り組んだ通路を選ぶ。
人混みのある通りへ戻れば助けを求められるかもしれない――だが、そこまでたどり着ける保証はない。
足元の石畳は滑りやすく、体がふらつく。
喉の奥が焼けるように痛く、酸素が足りない。
それでも、止まれば捕まる――それだけは本能で理解していた。
角を曲がった瞬間、視界が開ける。
だがそこは、人気のない裏通りだった。
古びた建物が並び、風が吹くと紙くずが舞い上がる。
「……っ!」
息を整える暇もなく、ルミエルの前に一人の男が立ちはだかった。
薄汚れた外套を着て、口元にはいやらしい笑み。
「探したぜ、ちっこい嬢ちゃん」
その声を聞いた瞬間、ルミエルの体がビクリと震える。
頭の奥で、過去の光景がよみがえる。
鉄の匂い、皮の鞭が空を裂く音、命令と怒号――あの地獄の記憶が、脳裏を焼くように蘇った。
手が震える。
けれど、恐怖だけではなかった。
それと同時に、逃げるための冷静な計算が働き始める。
(逃げる……隙を、作る……)
目の前の男と背後の足音、その距離を正確に測る。
自分の体力も、残りの路地の構造も、すべてを一瞬で判断した。
――まだ、終わってない。
ルミエルの瞳に、恐怖ではなく鋭い光が宿る。
足先に力を込め、次の瞬間には動き出す体勢を取っていた。
ルミエルは荒い息を整える間もなく、壁際へと追い詰められていた。
前の男は油の染みた服を着ており、目だけがいやにギラついている。
後ろに回った男は肩で息をしながらも、口元に余裕の笑みを浮かべていた。
「待ってくれ。悪かった、無理やり連れて行こうとして……」
先に来ていた男が手を上げる。
だが、その指先は小刻みに動いている――焦りではない。
どうやって捕まえるか、狙いを定めている動きだ。
「俺たちは封筒が欲しかっただけなんだ。お前をどうこうするつもりはねぇ」
軽い口調で言いながらも、その目はルミエルではなく、彼女の手に握られた封筒を見つめていた。
(……やっぱり、封筒が目的)
ルミエルは無意識にそれを胸の前で抱きしめる。
男の声は穏やかだが、その奥に潜む悪意は、痛いほど伝わってきた。
「そうそう。大事な封筒だったから……つい焦ったんだよ」
後ろの男がにやりと笑いながら続ける。
二人の距離がじりじりと詰まっていく。
――逃げ道はない。
右には崩れた木箱、左は高い石壁。
(どうする……)
ルミエルは息を潜めた。
声を上げられない代わりに、頭の中で必死に逃げ道を探す。
前の男の足元はぬかるみ、重心が不安定。
後ろの男は息が荒く、動きがわずかに遅い。
(今しかない)
ルミエルは俯いた。
怯えたふりをして、油断を誘う。
「おい、泣くなよ。悪いようにはしねぇ。な?」
「そうそう。おとなしく渡せば――」
その瞬間、ルミエルは地面に落ちていた木片を蹴り上げた。
乾いた音を立てて木片が宙を舞い、前の男の顔に当たる。
「っ!?」
男が怯んだ隙を逃さず、ルミエルは身を翻し狭い路地へと駆け込んだ。
石畳を蹴るたびに靴音が響く。
背後で怒鳴り声と追いかける足音が混ざった。
(追ってきてる……!)
「待てっ!」
叫び声が響く。
だが次の瞬間、ルミエルの視界に――見慣れた姿が映った。
ルベルだった。
陽の光を背に立つ彼は、穏やかでいて、どこか冷たい表情をしていた。
その目が、ルミエルの背後の男たちを射抜く。
ルミエルは息を詰めたまま駆け寄る。
追っていた男たちは一瞬ひるみ、立ち止まる。
ルベルの声が低く響いた。
「……その手、離せ。今すぐにだ。」
空気が張り詰めた。
街の喧騒が遠のき、風すら止まったかのように静まり返る。
「いきなり現れてお前は…」
ルミエルの後を付けていた男は、ルベルの顔を見て何かを思い出したように言った。視線が一瞬揺れ、言葉に含まれる軽い嘲りが薄らいだ。
「お前、こいつの保護者だな。」
周囲の空気がぴんと張り詰める。ルベルはルミエルを一歩かばうように庇い、その瞳は静かに男たちを穿った。朝の喧騒が遠のき、二人だけの間に冷たい間が落ちる。
「そうだ。今すぐ離せば見逃してやる」
男たちは身構える。声は強気だが、その奥に迷いが見える。追い詰めたはずの相手の前で、突如として現れた“守る者”の存在が、不意に彼らの計画を狂わせたのだ。
ルベルの肩には、説明のいらない覚悟が乗っていた。手の先に力を込めるでもなく、ただ静かに、しかし確実に迫力を放っている。男たちの笑みはぎこちなく崩れ、足元がふらついた。
封筒を胸に抱いたルミエルは、ルベルの影に半歩寄り添う。固く握りしめた小さな手が、まだ震えているのをルベルは見ていたが、言葉をかける代わりにそっとその肩に触れるだけでよかった。
男たちのうち一人が、短く吐息を漏らしてから後ずさる。もう一人も同じように躊躇して、最後には低い声で「次はねえな」と呟いた。威勢は残るが、もはや戦う気概はない。二人はゆっくりと身を引き、狭い路地の出口へと去っていく。足音が遠ざかるたびに、ルミエルの胸の奥の硬い結び目が少しずつほどけていった。
通りの喧騒が戻ってくる。風に乗って屋台の匂いが流れ、街はいつもの顔を取り戻した。ルベルは無言でルミエルの前に立ち、そっと視線を落として言った——短く、しかし確かな声で。
「行こう」
ルミエルはほんの少し目を潤ませながら、頷く。封筒はまだ胸の中で鼓動を続けている。二人は人混みに紛れるように歩き出した。背後には今しがたの気配だけが残り、そして――その封筒の中身が、これから二人をどこへ導くのかはまだわからない。だが、今はただ、彼女を守る者が傍にいるという事実だけが、確かにあった。
場面はゆっくりとフェードアウトするように閉じる。――小さな日常の端に潜む闇と、それを抱える少女の物語は、これから静かに動き始める。
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