表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
奴隷だった少女は悪魔に飼われる   作者: アグ
扉の向こうの世界

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/43

人混みの中の鎖

「お腹、空いただろ……どこか店に入って食べるか?」

ルベルの声は柔らかいが、街の喧騒の中にかき消されそうだった。


露店に並ぶ焼き立ての串肉や、香ばしいパンの匂いが風に乗って漂う。ルミエルはつい目を奪われ、小さく首を横に振って、指先で露店の方を指した。


「店の方がもっと美味しいの食べられるぞ?」

ルベルが少し困ったように笑う。


けれどルミエルはまた、こくんと首を振った。屋台の並ぶ通りが好きだった。人の声、笑い声、色とりどりの料理。そこには“普通の人の温度”がある。

ほんの少しでも、それを感じたかった。


ルベルはその小さな意思を読み取ると、肩をすくめて観念したように言った。

「分かった。今買ってくるから、そこで待っててくれ」


ルミエルは頷き、近くの噴水のそばにあるベンチへ歩いて行った。

腰を下ろし、手にしていたノートと封筒を膝の上に置く。水音が心を落ち着かせるように響く中、彼女は静かに街の人々を眺めた。


笑い合う親子、荷車を引く商人、若者たちの賑やかな声。

けれど、どれも少し遠い世界のように感じる。

ルミエルの胸の奥に、ふと小さな不安が広がる――“人間が怖い”という、かつて刻まれた感覚。


だから、彼女は無意識に通りを観察していた。

いつでも逃げ出せるように。

誰が自分に近づこうとしているか、見逃さないように。


そんな時だった。


一人の男が視界の端に入った。

擦り切れた外套を羽織り、帽子を深くかぶっている。

歩き方に、どこか焦りがあった。


ルミエルが視線を向けると、男の足が止まり――そして、まっすぐこちらへ向かってきた。


胸がぎゅっと縮む。

冷たい汗が背筋を伝う。


男は言葉もなくルミエルの腕を掴んだ。

突然の衝撃。ノートと封筒が膝から滑り落ち、地面に散らばる。


「……ッ!」

声にならない悲鳴が喉で詰まる。


乱暴に引かれる腕。

“嫌だ”という意思を伝えようと、ルミエルは首を振り、必死に腕を振り解こうとした。


だが、男は構わず力を込める。

その強引な仕草――その瞬間、過去の記憶が一気に甦る。


鎖の音。

怒鳴り声。

肌に焼きつくような痛み。

自分の意思など、誰にも見向きもされなかったあの日々。


胸の奥で何かが弾けた。


恐怖と怒りが混ざり合い、身体が勝手に動く。

それは“教え込まれた”動きだった。


かつて、奴隷として生きていた頃――

逃げられぬように、そして主の命令ひとつで敵を殺せるようにと、叩き込まれた戦闘の技。

痛みを覚えるよりも早く、どう動けば相手を倒せるか、体が覚えてしまっていた。


ルミエルの中に封じられていた“戦い方”が、反射のように目を覚ます。

思考よりも早く、視線が男の急所を捉え、足が自然に動いた。



掴まれた腕を軸に身体をひねり、空いた足で男の脛を思い切り蹴り上げる。

鈍い音と共に、男が苦痛の声を漏らし、手の力が一瞬緩んだ。


その瞬間を逃さず、ルミエルは身を翻して腕を振り解く。

足元の石畳を蹴り、勢いのまま人混みの中へと駆け出した。


心臓が激しく打ち、耳の奥で血の音が鳴る。

息が乱れ、胸の奥に焼けつくような痛みが走る。


――怖い。

――でも、捕まりたくない。

――もう、あんな場所には戻りたくない。


背後で誰かが叫ぶ声が聞こえたが、それすら遠くに感じた。

視界の端に人の影が揺れ、光と音が混ざり合って、世界がぐらつく。


けれど、足は止まらない。

生きるために、逃げるために――ルミエルはただ前を見て走っていた。


ルミエルは荒い息を吐きながら、狭い路地を駆け抜けていた。

石畳を踏みしめる足音が、どこか遠くで反響するように響く。だがその背後から聞こえる足音は確実に近づいてきていた。最初は一つだった音が、今では二つ――重く、確実に迫っている。


(増えてる……!)


胸が締めつけられるように痛み、鼓動が早鐘を打つ。

五感の鋭いルミエルには、誰がどんな速度で追ってきているのか音で分かった。

一人は重い足取り、もう一人は軽く速い。狩人のように、逃げ道を塞ぐように動いているのが分かる。


「……っ!」


声を出せない代わりに、息を荒く吐きながらルミエルは路地の分岐を一瞬で見極める。

行き止まりの影を避け、細く入り組んだ通路を選ぶ。

人混みのある通りへ戻れば助けを求められるかもしれない――だが、そこまでたどり着ける保証はない。


足元の石畳は滑りやすく、体がふらつく。

喉の奥が焼けるように痛く、酸素が足りない。

それでも、止まれば捕まる――それだけは本能で理解していた。


角を曲がった瞬間、視界が開ける。

だがそこは、人気のない裏通りだった。

古びた建物が並び、風が吹くと紙くずが舞い上がる。


「……っ!」


息を整える暇もなく、ルミエルの前に一人の男が立ちはだかった。

薄汚れた外套を着て、口元にはいやらしい笑み。


「探したぜ、ちっこい嬢ちゃん」


その声を聞いた瞬間、ルミエルの体がビクリと震える。

頭の奥で、過去の光景がよみがえる。

鉄の匂い、皮の鞭が空を裂く音、命令と怒号――あの地獄の記憶が、脳裏を焼くように蘇った。


手が震える。

けれど、恐怖だけではなかった。

それと同時に、逃げるための冷静な計算が働き始める。


(逃げる……隙を、作る……)


目の前の男と背後の足音、その距離を正確に測る。

自分の体力も、残りの路地の構造も、すべてを一瞬で判断した。


――まだ、終わってない。


ルミエルの瞳に、恐怖ではなく鋭い光が宿る。

足先に力を込め、次の瞬間には動き出す体勢を取っていた。


ルミエルは荒い息を整える間もなく、壁際へと追い詰められていた。

前の男は油の染みた服を着ており、目だけがいやにギラついている。

後ろに回った男は肩で息をしながらも、口元に余裕の笑みを浮かべていた。


「待ってくれ。悪かった、無理やり連れて行こうとして……」

先に来ていた男が手を上げる。

だが、その指先は小刻みに動いている――焦りではない。

どうやって捕まえるか、狙いを定めている動きだ。


「俺たちは封筒が欲しかっただけなんだ。お前をどうこうするつもりはねぇ」

軽い口調で言いながらも、その目はルミエルではなく、彼女の手に握られた封筒を見つめていた。


(……やっぱり、封筒が目的)


ルミエルは無意識にそれを胸の前で抱きしめる。

男の声は穏やかだが、その奥に潜む悪意は、痛いほど伝わってきた。


「そうそう。大事な封筒だったから……つい焦ったんだよ」

後ろの男がにやりと笑いながら続ける。

二人の距離がじりじりと詰まっていく。


――逃げ道はない。

右には崩れた木箱、左は高い石壁。


(どうする……)


ルミエルは息を潜めた。

声を上げられない代わりに、頭の中で必死に逃げ道を探す。

前の男の足元はぬかるみ、重心が不安定。

後ろの男は息が荒く、動きがわずかに遅い。


(今しかない)


ルミエルは俯いた。

怯えたふりをして、油断を誘う。


「おい、泣くなよ。悪いようにはしねぇ。な?」

「そうそう。おとなしく渡せば――」


その瞬間、ルミエルは地面に落ちていた木片を蹴り上げた。

乾いた音を立てて木片が宙を舞い、前の男の顔に当たる。


「っ!?」


男が怯んだ隙を逃さず、ルミエルは身を翻し狭い路地へと駆け込んだ。

石畳を蹴るたびに靴音が響く。

背後で怒鳴り声と追いかける足音が混ざった。


(追ってきてる……!)



「待てっ!」


叫び声が響く。

だが次の瞬間、ルミエルの視界に――見慣れた姿が映った。


ルベルだった。


陽の光を背に立つ彼は、穏やかでいて、どこか冷たい表情をしていた。

その目が、ルミエルの背後の男たちを射抜く。


ルミエルは息を詰めたまま駆け寄る。

追っていた男たちは一瞬ひるみ、立ち止まる。


ルベルの声が低く響いた。


「……その手、離せ。今すぐにだ。」


空気が張り詰めた。

街の喧騒が遠のき、風すら止まったかのように静まり返る。


「いきなり現れてお前は…」

ルミエルの後を付けていた男は、ルベルの顔を見て何かを思い出したように言った。視線が一瞬揺れ、言葉に含まれる軽い嘲りが薄らいだ。


「お前、こいつの保護者だな。」


周囲の空気がぴんと張り詰める。ルベルはルミエルを一歩かばうように庇い、その瞳は静かに男たちを穿った。朝の喧騒が遠のき、二人だけの間に冷たい間が落ちる。


「そうだ。今すぐ離せば見逃してやる」


男たちは身構える。声は強気だが、その奥に迷いが見える。追い詰めたはずの相手の前で、突如として現れた“守る者”の存在が、不意に彼らの計画を狂わせたのだ。


ルベルの肩には、説明のいらない覚悟が乗っていた。手の先に力を込めるでもなく、ただ静かに、しかし確実に迫力を放っている。男たちの笑みはぎこちなく崩れ、足元がふらついた。


封筒を胸に抱いたルミエルは、ルベルの影に半歩寄り添う。固く握りしめた小さな手が、まだ震えているのをルベルは見ていたが、言葉をかける代わりにそっとその肩に触れるだけでよかった。


男たちのうち一人が、短く吐息を漏らしてから後ずさる。もう一人も同じように躊躇して、最後には低い声で「次はねえな」と呟いた。威勢は残るが、もはや戦う気概はない。二人はゆっくりと身を引き、狭い路地の出口へと去っていく。足音が遠ざかるたびに、ルミエルの胸の奥の硬い結び目が少しずつほどけていった。


通りの喧騒が戻ってくる。風に乗って屋台の匂いが流れ、街はいつもの顔を取り戻した。ルベルは無言でルミエルの前に立ち、そっと視線を落として言った——短く、しかし確かな声で。


「行こう」


ルミエルはほんの少し目を潤ませながら、頷く。封筒はまだ胸の中で鼓動を続けている。二人は人混みに紛れるように歩き出した。背後には今しがたの気配だけが残り、そして――その封筒の中身が、これから二人をどこへ導くのかはまだわからない。だが、今はただ、彼女を守る者が傍にいるという事実だけが、確かにあった。


場面はゆっくりとフェードアウトするように閉じる。――小さな日常の端に潜む闇と、それを抱える少女の物語は、これから静かに動き始める。

読んでくださり、ありがとうございます。

この度、X(旧Twitter)を開設しました。

そちらでは、作品に関するイラストやエピソードの裏話などを載せていく予定です。

もしご興味がありましたら、ぜひ覗いてみてください。


@K3tQ5kQXNn90449


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ