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教室の扉を開けると、空気がぴりついていた。誰もいない朝の教室。けれど、昨日から心が落ち着かないのは、静けさのせいじゃない。
(ちゃんと話したいって、思ってるのに。)
ルイは机にかけた手を見つめる。拳を握ると、爪が食い込んだ。
(なのに、あの笑顔……)
思い出すのは昨日の中庭。
フィリップの隣で笑っていたエレナの姿だ。柔らかくて、どこか切なげなその微笑みを、最近自分には向けてくれない――そんな気がしていた。フィリップに対するエレナの瞳は信頼に満ちていた。
「……気のせい、じゃないよな。」
扉の外から足音が聞こえた。
誰かが近づいてくる。反射的に立ち上がると、その足音は別の教室へと消えていった。
(……もう、わからない。)
どこで何を間違ったのか、何を伝えればよかったのか。
今さら言葉にならない想いが喉を塞ぐ。
けれど、もう我慢できなかった。
午後の講義を終えたあと、ルイはひとり、学園裏の小道を歩いていた。
あの日、フィリップの隣で笑っていたエレナの姿が、何度も脳裏をよぎる。
あの表情を見た瞬間、自分の心がざわめいたのを隠せなかった。
(なんで俺じゃ、ダメなんだ。俺がエレナと一番過ごす時間が長かったのに。)
そんな気持ちがよぎってしまうことが、嫌だった。
自分でもわかっていた。
言葉にしていなかったから。
気持ちをごまかして、近くにいられればそれでいいと思っていた。けれど、何度もすれ違うたびに、少しずつ削られていた。
(俺だって、不安なんだよ。)
信じてもらえるのか。
これで壊れてしまったらどうしようか。
言わなければ、エレナはいつか遠くに行ってしまうかもしれない。
でも言ったら、関係が変わってしまうかもしれない。
ずっとそんな葛藤を抱えていた。
(でも。)
拳を握る。息を吸って、吐く。
(それでも――)
好きだから。怖くても、言わなきゃいけない。
(俺だって、ずっと怖かった。伝えれば、もう戻れなくなるかもしれないって。今までの距離感を壊しちゃうかもしれないって。でも……それでももう、お前に届かないのは耐えられない。)
結局、ここに来てから考えていたのは、エレナのことばかりだった。
嬉しかったことも、寂しかったことも。全部、彼女がいたから感じられたこと。
(ちゃんと、向き合わなきゃ。)
その瞬間、ルイの足が自然と動いていた。屋上へと続く階段を駆け上がる。
その日の放課後、エレナは屋上を目指していた。
空は柔らかく色づきはじめていて、風がスカートを揺らす。
(今日こそ、ちゃんと伝えよう。)
すれ違いのままじゃ、きっとまた後悔する。
自分の中の弱さに蓋をして、ただ傍にいることすら怖がって。
そんな日々を終わらせたいと思った。
階段をのぼった先、屋上の扉が開いた。
そこで待っていたのは、ルイではなかった。
「……フィリップ?どうしてここに?」
「エレナ。来ると思ってた。屋上の鍵の置き場なんて、簡単にわかるさ。」
彼は、いつもの穏やかな表情でこちらを見ていた。
「昨日の話、続きがしたくてさ。もう、“ゲーム”の強制力とか、運命とか、そんなのに縛られなくていいって、君自身、ようやく納得するようになったんだね。」
「……うん、私、変わりたいの。もう、モブだなんて言わないって。」
それでも、エレナの声はかすかに震えていた。
「本当は怖いよ。信じても裏切られるかもしれない。過去が何度もそうだったから……だけど、フィリップが言ってくれたから、少しは前を向けた気がする。私は好きな人を、ルイを信じてみる。」
フィリップは小さく頷く。
「それなら、俺の役目は終わりだね。」
「え?」
「もう、君は大丈夫だ。ルイと、ちゃんと話すといい。」
そう言って、フィリップは背を向ける。
エレナが思わず手を伸ばしたその時。
「おい、フィリップ!」
声が響いた。
廊下の向こうから、ルイが走ってくる。
「ルイ……!」
「……探してたんだよ。どこに行ってたんだよ。」
肩で息をしながら、ルイはフィリップを睨むように見た。
フィリップは肩を竦めて、お幸せに〜、と手を軽く振った。
「フィリップと、また何か話してたのか?」
「それは、ちょっと……」
「いや、違うな。そんなの、今は関係ない。エレナ――」
彼は、ぐっと拳を握りしめて。
「俺は、お前が好きだ!」
風が、言葉を連れていった。
静まり返る夕暮れの屋上に、ただその声だけが響いていた。
「……ずっと、ずっと我慢してた。近くにいればいるほど、好きになって、でもお前は俺の気持ちになんて気づかなくて……!それでもいいって思ってた。見てるだけでよかった。でももう無理だ。俺は、好きなんだ。誰かといるお前なんて、見たくない。」
「ルイ……」
エレナの足がすくんだ。胸の奥が苦しくて、何も言えなかった。
「やっぱり、信じられない……」
ようやく出たその言葉は、微かに震えていた。
あれだけ、モブだなんて言わないと思ったのに。
自分から告白しようと思ってた。
まさか、ルイから告白してくれるなんて思わなかったから。
「だって、私は……私はモブだもの。きっと、すぐに心変わりされる。ゲームの通りになっちゃう……そう思ってた。それでも私が諦められなくて……なのに、ルイから告白してくれるなんて……」
混乱するエレナの肩を抱く。
「なら、これから付き合っていく中で、証明していく。エレナがちゃんと俺との関係を、自分自身に認められるように、俺が努力する。だから――」
ルイは、そっと一歩近づく。
「もう、何にも怯えなくていいんだよ。」
エレナの目から涙がこぼれた。
前世からの業が流れていくような気がして。
夢のような展開。それでもエレナは頷けなかった。
あれだけ決心したはずなのに、心は揺れていた。
信じるのが怖い、という前世のトラウマはエレナの心にまだ巣食っていた。
でも、エレナはその場から逃げることはしなかった。
「……ありがとう、ルイ。すごく嬉しい……でも、今はまだ……ちゃんと気持ちを整えて、本音で応えたい。」
「……わかった。」
その言葉に、ルイは静かに目を伏せた。
けれど、その表情はどこか安堵に近かった。
ようやく、自分の気持ちを伝えられたから。
ようやく、彼女の本心を聞けたから。
たとえ結論が先延ばしでも、今夜、ふたりは確かに一歩、前に進んでいた。
夜空の下で、ふたりの想いはまだ宙ぶらりんのままだったけれど、きっといつか、同じ星を見つけられると信じて。
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