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最後までお付き合いいただければ幸いです。
廊下を風が通り抜けたように思った。
快晴の日とは思えない、どこか冷たい風が吹き、その風は、エレナの胸の奥をざわつかせるようだった。
(ちゃんと、話そう。)
心に決めていた。
昨日の夜からずっと。
今朝も、鏡に映る自分に何度も言い聞かせた。「すれ違っていたのは、私もだった。」とようやく気づいたのだから。
これ以上、逃げたくなかった。
だが教室を覗いても、ルイの姿はない。
サロンにも、庭園にも。
いつもならどこかしらで見かけるはずなのに。
「……いない、の?」
立ち止まったその時、不意に足音が聞こえた。反射的に振り返る。
だが、それはルイではなく、別の生徒だった。
(どこ……?)
焦燥と不安がせり上がる。
同じ頃、別の棟の廊下。
ルイはゆっくりと歩いていた。
(俺だって……もう、ちゃんと話さなきゃって、思ってる。)
握りしめた手がかすかに震えていた。
けれど、それでも進もうとしていた。
視線の先には、サロンの扉。
そこにエレナがいる気がした。
あの日、自分を真っ直ぐに見て「話せるようになったら」と言った彼女が、きっともう、待っているんじゃないかと。
だが扉を開けたとき、そこには彼女はいなかった。
「……いない。」
静かな声が、空気に溶けていく。
胸に残った違和感。
それでも、どこかにいるはずだと信じたかった。だが次の瞬間、ルイは扉の前に誰かが立っていたことに気づくことはなかった。
ほんの数秒前、エレナがそこで立ち止まり、もう一歩を踏み出す勇気を出そうとしていたーーそんなタイミングだった。
エレナは、ルイの背を遠くに見た。
(今、いた?)
駆け出そうとした足が止まる。
(あれは……私を避けた、わけじゃないよね?)
きっと違う。それでも、会いたくても会えないこのすれ違いに、言葉がどんどん喉の奥に押し込めてしまう。
放課後、ルイは屋上にいた。風が頬を撫でる。視線は空へ、まるで黄昏ているようだった。
何かを振り払うように、深く息を吐いた。
(どうして、こうなる。)
ただ話したかった。
それだけなのに。どうして、こんなに難しいんだろう。
不意に胸ポケットの中にあるものを思い出す。数日前、偶然立ち寄った書店で目に止まった、しおり。
最近、図書室で一緒にいることが多かったからか、本の栞なら理由づけとしても重さ的にも問題ないだろうと選んだプレゼント。
エレナの好きそうな、星と草花が描かれていた。
(こんなもん、渡してどうすんだよ。)
自嘲気味に笑った。
でも、彼女が喜んでくれるなら。
それだけでよかったのに。
一方、エレナもまた中庭のベンチに腰掛け、空を見上げていた。
あの時、ルイの表情をちゃんと見ていれば。
そうすれば、自分の不安にばかりとらわれずに済んだのに。
「ねえ、ルイ……」
ぽつりと呟いて、笑った。
(まだ、届かないね。本当に君は星みたいな存在。)
でも、諦めたわけじゃなかった。
少しの勇気が、ほんの一言の違いが、明日を変えるかもしれないと信じたかった。
だから、次こそは。ちゃんと。
――でも。
その次が、また遠ざかる。
ルイは屋上から降りると、廊下の向こうに彼女の背中を見つけた。今にも声をかけようとして、足が止まる。
隣に誰かがいた。留学生のフィリップだ。
笑っていた。柔らかくて、優しいエレナの笑顔。
(……あの表情、最近……見てない。いや、もう俺が見てない表情が多すぎて。)
彼らの間に漂う空気は、ルイにとって知らないもののように見えた。
笑顔を交わすふたり。
それが自分には持てない余裕に見えて、ルイの胸はさらにきゅっと締めつけられた。
そして、耳に届いたのは。
「ありがとう、フィリップ。本当に、感謝してるの。貴方が居なかったら私、ずっとひとりぼっちだったかもしれない。」
笑顔の奥に、切なさがにじんでいる気がした。それでも、ルイは声をかけられなかった。
(俺じゃ、だめなのか?)
そんな疑念が、喉元までせりあがってきて。
けれどその言葉は、最後まで口には出せなかった。
ルイは一瞬だけエレナに視線を向けて、けれど何かを振り払うように目を逸らした。
二人の影が、またすれ違っていく。
何度も、あと一歩まで近づいて。
それでも届かないのは、なぜだろう。
その日、エレナは眠れなかった。
胸の中に残るのは、伝えられなかった言葉と、届きそうで届かない温もり。
(あのとき、声をかけていれば。)
その夜、ルイもまた。
(あのとき、呼び止めていれば。)
互いに、同じことを思っていた。
けれど、言葉にならなかった。
伝えたくて、伝えられなかった、たったひとつの想い。
ほんの少しの勇気。ほんの一言の違い。
それだけで変わるはずなのに、なぜか、その一歩が踏み出せない。
ほんの少しのすれ違いが、今夜もまた二人の心に、静かに積もっていく。
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