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その日、サロン・エリゼアンには、少しだけ賑やかな空気が流れていた。
理由は単純で、学園で有名な王子、マティアスが予約を入れていたからだ。
「エレナちゃん、今日マティアス様が来るらしいわよ。緊張するわよねぇ。」
いつもより化粧が濃いベテランの女性スタッフが軽く肘で突いてくる。
エレナは苦笑いしながら、カウンター奥でおしぼりを整えていた。
「まあ、いつも通りに頑張ります。」
(とは言ったけど……やっぱり、ちょっと緊張するかも。)
乙女ゲームの中で攻略対象だった彼。
整った容姿と穏やかな性格、万人に優しい態度。
でもエレナは彼を推しとまでは思っていなかった。ただ、「そういうキャラクターだ」と知っているだけで。
そう、これは知識と感情のズレ。
なんだか、自分の身体に二つの魂が入り込んでいるみたいでーー。
「エレナ?」
「わっ……!」
突然、名前を呼ばれ、思わずおしぼりを落とした。
拾おうと身をかがめた瞬間、誰かの手が先にそれを拾い上げた。
顔を上げると、そこにはマティアスがいた。
「悪い悪い、見知った顔がいたからつい声かけちまった。ほら、おしぼり。」
「し、失礼いたしました!いらっしゃいませ。」
(近い……!)
整った横顔、微笑む口元、そして、何よりも、この距離。
慌てて、敬語を使って、職場としての平静を保とうとするも、エレナの心臓がバクバクと高鳴る。
だけど、それはときめきじゃない。むしろ焦りに近かった。
「エレナ、この前は手伝わせてくれてありがとうな!あの後大丈夫だったか?」
「え……?」
マティアスの言葉に、エレナの目が大きくなる。
彼は笑顔のまま、ふと視線を少しだけ逸らす。
「……なんだか、ルイに妙な勘違いさせちまったみたいだしさ。エレナも元気なさそうじゃないか。」
「……え、そんなこと……」
(なんで……そんなところ、気づかれるの……?)
エレナは思わず視線を伏せる。
そして心の中で、言い聞かせた。
(彼はそういうキャラクターなんだ。誰にでも優しくて、博愛主義で……別に、私だけが特別ってわけじゃない。)
無意識に自分がモブであることを忘れないように言葉を反芻する。
「またゆっくり話そうな!」と微笑み、マティアスはテーブルへ向かっていった。
エレナはその場にしばらく立ち尽くしたまま、息を吐く。
「……へぇ、やっぱり仲良いじゃん。」
低く、乾いた声が背後から聞こえた。
慌てて振り返ると、そこにはエプロンをつけたままのルイが、じっと彼女を見ていた。
「……王子様に気に入られたようでよかったな。」
「え、な、なにそれ。聞いてたの?」
「聞こえただけ。オマエら声デカすぎ。」
ルイはぶっきらぼうにそう言って、すれ違いざま、目を逸らした。
エレナは胸がぎゅっと痛くなる。
「……別に、そういうのじゃないよ。」
「ふーん。じゃあ、なんなんだよ。」
ルイは立ち止まり、振り返らずにそう言った。
その背中が、遠く感じた。
(また……こうやってすれ違う。言葉が足りないだけなのに。)
言いたいことがあるのに、言えない。
伝えたい気持ちがあるのに、怖くて踏み出せない。
そしてその間に、何かが少しずつ、すれ違っていく。
自分が望んだことなのに、それがもどかしくて仕方がなかった。
伝えたい気持ちがあるのに、怖くて踏み出せない。
それなのに、心の奥ではもう“いっそのこと、今すぐこの想いが彼に届いてしまってほしい”と願っている自分がいて。
(もし届いたら、どうなるんだろう。怖いはずなのに、でも、やっぱり、どこかで期待してる。ルイなら受け止めてくれるかもしれない、って。)
そして、結局、何も決断できないまま、また明日も、きっと同じように始まる。
言葉がなくても、胸の中だけは、騒がしく息づきながら。
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