4 とりあえず今日どうする
「あ・・・あの・・・。わたし・・・・」
海は目を泳がせ、狼狽えた。
「その・・・、次郎三郎、殿、は、どうやって来たの? 来たんですか?」
元信少年は少し可笑しそうに、微笑んだ。
「岳川殿。呼びにくければ、元信でもようござる。時代が違うようでござれば、この時代の呼び方で。気には致しませぬゆえ。」
意外に柔軟なんだ——。と海は思った。
そうかもしれない。そうでなければ、思考が固陋であっては、天下など取れるものではないだろう。
「あの・・・、わたしのことも海でいいですから。それより、元信殿はどうやってここに来てしまったんですか?」
「どう・・・と言われても、私にも分かりませぬ。」
「何か特別なことをしたとか、特別な場所に行ったとか・・・?」
「いえ、私は二の丸の寝所で脇差しを抜いて我が顔を映して見ていたのです。城主であるのに、郎党どもに扶持さえしてやれぬ不甲斐ない己れの顔を。その刀身に月が映ったと思った刹那、目も眩むような光に包まれて・・・。気がつけばあの場所に立っていたのでござる。」
その光が、あの時わたしが見た光?
帰れる・・・のかな?
帰れなかったら、どうなるんだろう?
この時期の家康に、まだ子はいないよね?
このまま元信くんが帰れなくなったら、松平の家は滅びてしまう? 歴史が変わるよね? それって、現代が変わってしまう——ということだろうか?
『バックトゥザフューチャー』みたいに・・・?
「帰り方、分かるの?」
「分かるわけござらぬ。」
そう言って少し微笑んでから、元信少年は真剣な表情になった。
「・・・が、帰らねば、岡崎の郎党どもは・・・。」
たしか、この時期、岡崎衆はこの若君の存在だけを未来への希望にして、辛い過酷な身の上に耐えていたはず。
「そう、だね・・・。」
海は、少年の年齢的見た目から、ついタメ口になってしまう。
推し、として見ていた家康の虚像は、目の前の匂うような肌の少年の存在感の前に、次第にその英雄的影を薄めてゆく。
あたりはすっかり薄暗くなって、街灯の白い光だけが目立つようになってきた。
土産物店の閉まった二の丸跡には、観光客の姿はほぼ見えなくなっている。博物館に施錠をして出てきた職員が、訝しげに2人を振り返りながら帰っていった。
たぶん、この場所だから「コスプレの若い人かな?」で済んでいるのだろうな。
もう少し・・・。もう少し一緒にいて、いろいろ訊いてみたいこともある・・・。だって、正真正銘の松平元信本人がここにいるんだよ?
けど・・・。早く本来の時代に帰さないと・・・・。とんでもないことになってしまうんじゃあ?
戻ってきた海の理性が、そう言う。
「もう一度、脇差しに顔を映してみたら・・・?」
「それは先ほど試してみたが、ダメであった。あの、眩いほどの行燈の光でも何も起こらぬ。」
行燈とは、街灯のことらしい。
「月が出てないから・・・かな? 条件としては、月と脇差し・・・と顔を映す、だよね?」
「この時代の夜は、月がなくとも明るいのでござるな。」
元信少年は、明かりの灯った周囲のビルの窓を見上げている。一方、海はスマホをいじって何かを検索している。
「その光る板は何でござるか?」
「あ、これ、スマホって言って、いろいろ調べものができるの。」
「素魔法?」
「今は下弦・・・か。月が上るのは真夜中過ぎだな・・・。」
「では、それを待ってみよう。」
「う〜〜ん・・・。」
母親には何も書き置きをしてきていない。旅先で泊まるときは、仕事から帰った母親が心配しないように宿泊先と旅行の予定を書いた紙をテーブルの上に置いてくる。
今日は遅くなっても日帰りのつもりだったから、何も置いてきていない。
連絡入れないと、まずいよね?
でも、どう説明したらいい? 名鉄で30分の距離だよ? 何の理由で岡崎に泊まることに・・・?
絶対おかしいよね?
でも・・・、じゃあ、元信くん1人ここに残してわたしだけ帰るなんて・・・。
あり得ない!!
まだ14歳の少年が、たった1人で知らない未来の世界に取り残されてるんだよ?
いや、それ以前に、元服したばかりの推しと2人きりで過ごせるあり得ないほどの奇跡の時間だというのに! 家に帰るなんて!!
元信くんが帰るその瞬間まで、ぜ—————ったい見届けたいじゃない?
海はスマホの上で指を彷徨わせたまま、固まってしまった。
「如何なされた、まりん殿?」
「あ・・・うん・・・。」
えーい、ままよ!
あとで何言われるか分からんが、とりあえずLINEだけ入れておこう。
『岡崎城で下弦の月の写真撮りたいから今日は泊まる』
ピロン。と音がしてメッセージが送られる。
(電話くるかな?)
海は身構えたが、スマホは黙ったままだ。気がついてないのかもしれない。
そのまま夜半になっちゃった方が、ややこしくなくていい。
「あ・・・。何か上に羽織るもの。」
今年はいつまでも夏日があったりして暖かいが、それでも11月だ。夜は冷えるだろう。
「私は平気だ。この先、野陣で指揮を取ることも増えよう。何より岡崎の郎党どもの辛苦はこんなものではなかろう。」
苦労人だ。
立派な甲冑を着けていても、見た目はこんな少年でも、この英雄はすでに天下に恥じぬ家来への思いやりを持った苦労人だ。
海は少し目頭が熱くなった。
「わたし、ちょっと着るもの調達してくるね。近くに田舎っぽいけどファッションビルあったはずだから。ここで待ってて。」
海はそう言い残して、七間門の方に走り出した。