廃番
安藤カナエは自他共に認めるコスメオタクだ。
幼い頃から母のコスメボックスが宝箱に見えた。
いつも勝手に漁り怒られていた。
母にねだってリップを付けてもらうと、平凡な顔がパッと華やいで、プリンセスになった気分が最高だった。
学生の時は、こんな質問をよくされた。
「誰に見せるの?すっぴんの方が楽じゃん」
「肌に悪そう」
まさに愚問。
見せる?
楽?
肌に悪い?
チョットナニヲイッテイルノカワカラナイ。
お腹が空いたらマック食べるでしょう。
それと同じだと言っても、よく理解されなかった。
誰に見せると聞かれて、強いて言うなら、自分に見せるためだろう。
TPOは大事なので、それなりに気をつけてはいるが。
楽かどうかと言われても、メイクをしない方が落ち着かない。
肌に悪いのは、体質や肌質、肌の健康状態にもよるし、個人差が激しいから何とも言えないけれど。
それでも、道具のケアと寝る前のメイク落としに気をつければ悪影響は少ないはず。
幸い私の肌は強かったらしい。
化粧品でアレルギー反応が出たこともなければ、炎症を起こしたこともない。
むしろ、メイクした方がいい場合だってある。
ニキビなどの傷跡を隠せたり、ホコリや花粉を寄せ付けなかったり、ブルーライトカットが出来るものだってあるのだ。
社会人になった今もコスメへの愛は変わらない。
だって、毎月、星の数程あるコスメブランドから、新作が発表されるのだ。
買わずにはいられない。
発表前から争奪戦だ。
ファッション誌やコスメ系雑誌はもちろん、美容系インフルエンサー達がSNSや動画サイトでがこぞって紹介する。
堂々と「#PR案件」とか「プロモーションを含みます」とお知らせしつつ、TV通販よろしく製品を褒めまくるのだ。
人気のコスメは、予約か販売日当日に購入が必須。
チャンスを逃すと半年以上、下手をしたら一年以上も店頭に並ばない物だってある。
カナエは、そんなインフルエンサー達が流行る前からメイクが大好きだ。
自ら化粧の専門学校に通い、コスメ製造メーカーに務めて、早5年。
気づけば、給料の半分以上がコスメ購入費に消えている。
2000円以下の低価格品から、一万円超えするデパートの化粧品まで手広く購入するためだ。
定番品の新色や限定品、全くの新作まで欲しいものはキリがない。
日本でも世界でも共通で、春夏秋冬、その季節に沿ったイメージカラーがある。
春は淡く、夏は原色、秋はくすんだ色で、冬は暗め。
さらに、そこに流行が乗ってくる。
肌とリップの質感はツヤかマットか、眉の太さは細いか太いか、アイメイクの仕方も日々進化している。
毎月、容赦なく発売される季節限定品は、人気なら定番商品として残るが、大半が幻となって消えていく。
今も会社帰りにデパートで予約していた新作のリップを数本買って、早足で帰宅している途中だ。
お目当てのコスメカウンターで、美容部員さんと長話してしまった。
最近は、メンズコスメも増えてるらしい。
男性の美容系インフルエンサーもたくさんいるし、広告に男性アイドルや男性モデルを起用しているブランドもある。
カウンターに来るお客さんは、普段の身だしなみとして清潔感を出したい普通の男性や営業マン、ショービジネスの男性など、年齢層も要望も様々らしい。
デパートの化粧品は、カウンターで一対一での接客が基本だ。
ブランドごとにブースが別れていて、ブランドイメージ通りのメイクを施した美容部員たちが、お客さんのイメージや要望に応じて細やかに接客をする。
お試しで製品を試すことも出来る。
例えすっぴんでも、コットンで優しく顔の汚れを拭き取ってから、基礎化粧品、メイクの順番でメイクを施してくれるので心強い。
メイク初心者に有り難いシステムだし、コスメヲタクにとっても新しい発見があるので、素晴らしいシステムだと思う。
毎度のことながら、美容部員と話しが弾んでしまって、すっかり夜も遅くなっしまった。
いつもと同じはずの帰宅路は、明かりが一段輝いていて、新作を買った私を祝福してくれているかのように感じてしまう。
手元をみれば小ぶりの紙袋だが、しっかりした造りで高級ブランドの名が誇らしく刻まれている。
さすが、高級品だ。
「いい女っぽいわぁ」
つい大きめの声量で独り言を放ってしまい、周囲の目線が気になった。
幸い、誰も気にせず歩いている。
今日買ったリップは、持っている鞄に余裕で入る大きさだが、ちょっと自慢なので敢えて入れない。
帰ったらすぐ開封したい。
色味、質感、普段用、お出かけ用、同じ製品でも使い方次第で無限大の可能性を秘めている。
手持ちのどのコスメと合わせて使おうかなと楽しみで、思わず口元が緩んでしまう。
もうすぐ駅の前の交差点だ。
歩きながら紙袋を覗くと、外箱すらきらびやかで見惚れてしまう。
「止まれっ!」
急に誰かの叫び声が、すぐ後ろから聞こえた。
なにか事件かと振り向いた瞬間、車のブレーキ音が驚くほど近くで聞こえた。
次の瞬間、私は強い衝撃を感じて、新作のリップと共に宙を舞っていた。
そこからは何もかもスローに見えた。
重力を感じて必死に受け身を取ろうとするが、どっちが上で、どっちが下か定まらない。
手足が遠心力に負けて、全く言うことを聞かず、動かすことができない。
頭は意外と冷静に物を考えることができるようだが、痛みを理解するには時間がかかるようだ。
車にぶつかったと思うが、全く痛くない。
何もできないうちに地面が近づいてきて、小さくバウンドするも、飛ばされた勢いは消えず地面を滑る。
コンクリートに身体がすり下ろされていく感覚は、砂利で転ぶよりも、ずっとザラザラしていた。
為すすべもなく身を任せていると、何処かにぶつかって破裂音が響き渡った。
私の身体は、曲がってはいけない方向に曲がっている。
恐ろしくて自分の身体を確認したくない。
今起こっている事態を信じたくないが、言うことをきかない身体が事実だと教えてくれる。
起き上がろうと身体を動かそうとするが、全く力が入らない。
辺りの悲鳴も駆け寄る足音も、よく聞こえた。
こういう時って、思ったより意識があるんだなと呑気な事を考えた。
死ぬのかという諦めと、やっぱり嫌だなと思うのが半々。
小さく息を呑むと、目の前が真っ暗になった。