成長
その日、わたしは大人への一歩を踏み出した。
思えば朝から違和感があった。
少し気だるいような感じはしたけれど、夜に何故か何度か目が覚めたので、そのせいだと思っていた。
それ以外は特に不調はなかったため、ただの寝不足で気だるいだけだと考えていた。
でも、それは仕事中に訪れた。
計算を終えた書類をまとめ、それを持って立ち上がった瞬間、あらぬところから何かが出るような感覚にハッとした。
驚きのあまり椅子に勢いよく座ってしまう。
……これって……。
その音を聞きつけて、アンナさんが近付いて来た。
「ユイちゃん、どうかしましたか?」
心配そうな顔のアンナさんを見上げる。
とっさに言葉が出て来なかった。
……この世界で月のものって何て言うの?
どう伝えればいいのか困っていると、アンナさんの鼻が小さく動いて、ハッとした顔をする。
それからアンナさんが顔を近付けてきた。
「……ユイちゃん、もしかして初めてですか?」
何が、と言われなくても分かった。
頷けばアンナさんが言葉を続ける。
「怖くないですよ。女性なら誰でもあることですから。そのまま、そこから動かないでくださいね。ユニヴェールさんを呼んできます」
と、言ってアンナさんが事務室を出て行った。
椅子に座ったまま口元を押さえる。
……気持ち悪くなってきた、かも……。
前世でも月のものが来ると具合が悪くなった。
病気で痩せていたため、月のものはいつも不順で、来たら来たで頭痛や吐き気、痛みなどが酷くて薬が必要なくらいだった。
今生では月のものは初めてだ。
考えてみれば十三歳なのでいつ来ても不思議はないのだけれど、奴隷だった頃は今よりも痩せていて、そのせいで始まらなかっただけなのだろう。
毎日きちんと食事を摂って、栄養を取り入れて健康的になってきたから来たのかもしれない。
心細い気持ちが急に湧き上がってくる。
……どうしよう。
立ち上がれば更に下着や服を汚してしまう。
今はアンナさんの言う通り座っているしかない。
不安を感じていると、アンナさんがセレストさんを連れて戻って来てくれた。
「ユイ」
聞き慣れた声にホッとする。
セレストさんが持ってきた毛布でわたしを包み、それからそっと横向きに抱き上げられた。
アンナさんが他の事務員さん達に「ユイちゃんは具合が優れないようなので、救護室で休ませます」と説明してくれていた。
「大丈夫ですよ」
そう言われて体の力が抜ける。
セレストさんはアンナさんに呼んでくれたことへのお礼を告げてから、わたしを抱えて事務室を出て、救護室へ向かった。
…………痛い……。
お腹というより、腰と下腹部が鈍く痛い。
時期的に寒くないだけマシだけれど、今生でもどうやら月のものは重いらしい。
セレストさんが極力揺らさないように歩いてくれているのが分かる。
第三救護室に着くと、中には獣人の女性がいた。
セレストさんがわたしを椅子にゆっくりと下ろす。
「一度、私は廊下に出ていますね」
セレストさんが獣人の女性に「お願いします」と声をかけ、それから救護室を出て行った。
獣人の女性がふんわりと微笑んでわたしの肩に優しく手を添える。
「立てますか?」
それに頷けば、女性が救護室に備え付けのシャワールームへ付き添ってくれた。
シャワールームに移動すると、手に持っていたものを見せられた。
「生理は初めてと聞きました。大丈夫ですよ。これは病気ではなくて、女性なら誰でも起こる自然なことです。女性が子供を産むために必要なことで、人間の女性は毎月あるんです」
手に持っていたのは四角い布で、使い方を教えてくれた。
それは開くとやや長い楕円形になっていて、下着に縦向きに当てたら、楕円形の横長の部分についている紐を縛って固定するそうだ。
肌に触れる部分は柔らかくてサラッとしている。
「中に吸水性の高い素材が使われているから、一度吸ったら流れ出てくることはありませんよ」
恥ずかしいけれど、スカートをたくし上げて下着を下ろす。
下着は思ったよりも全然汚れていなかった。
女性が使い方をもう一度説明しながら下着に生理用品をつけて、下着を穿かせてくれた。
救護室に戻り、女性がセレストさんを呼び戻す。
「ユイ」
大丈夫だと言うように抱き締められて、背中を撫でられて、何故だか泣きそうになった。
「具合は悪くありませんか?」と女性に訊かれたので素直に答えると、セレストさんが心配そうにわたしを見る。
横になるか訊かれたものの、寝転んで服やシーツを汚したらと思うと不安で寝る気にはなれなかった。
少し暑いくらいの日なのに寒い気がする。
寒いことを伝えるとセレストさんがすぐにわたしを抱えて膝の上に乗せ、女性が容器にお湯を入れた湯たんぽを作ってくれた。
「生理について説明させていただきますね」
それから女性がセレストさんとわたしに、人間の月のものについて説明してくれた。
話を聞いた感じ、前世の世界と変わらないらしい。
生理中の症状は人によるけれど、わたしの場合、吐き気や頭痛、腰や下腹部の痛み、倦怠感、貧血による手足の冷えなど色々とあって、この世界の女性の生理の症状の中では結構重いそうだ。
「初期症状でこれだと更に酷くなる可能性が高いです。体を温かくして、どうしても痛がるようでしたら軽い痛み止めを飲ませたほうがいいでしょう。人間の中には痛みや具合の悪さで動けなくなったり気絶したりしてしまう者もいるそうなので、無理はさせないでください。それから──……」
女性の話をセレストさんが真面目な顔で聞いている。
それをぼんやり見上げているうちに、わたしは具合の悪さと眠気に負けて寝てしまったのだった。
* * * * *
ユイの体が女性として成長を始めた。
人間の女性は、月に一度という高頻度で女性の日が来るらしい。
正直に言うとセレストはその回数の多さに驚いた。
エルフ族である母は、確か、数年に一度の割合で女性の日が来ていたはずなので、それに比べると非常に多い。
感覚的に捉えると毎週あるようなものだ。
女性の日が頻繁にあることで、人間は子孫を残しやすいのかもしれない。
だが、それは良いことなのだろうか。
腕の中で体を縮こまらせて眠っているユイを見ると、その頻度で女性の日が訪れるというのはなかなかに体に負担がかかるような気がする。
……そういえば母も女性の日は体調を崩しがちだった。
父がその時は酷く心配した様子で母のそばについて、看病していたのでよく覚えている。
今なら父の気持ちも分かる。
顔色の悪いユイが腕の中で眠っているが、ぐったりとして、明らかに具合が悪そうだ。
同僚の言うことには、ユイは症状からして、人間の中でも女性の日が来ると体調を崩してしまいやすい体質らしい。
中には全く体調を崩さない者もいるのだとか。
ただユイの場合は本来なら、初めての女性の日がとっくに来ていても良い年齢だったにも関わらず、十三歳の今になってやっと来たというのが問題のようだ。
奴隷として栄養が足りずに育ってきて、そのせいで女性の日が来ていなかった可能性が高い。
そうして奴隷から解放されて、栄養を摂るようになり、体が『女性の日を迎えても余裕がある』と判断し、始まったのだろうということだった。
そういう風に女性の日が遅く来ると、体調を崩しやすくなるそうだ。
しかも女性の日の周期も定まり難くなり、余計に体の調子が乱れてしまうという。
「周期が定まるまで時間がかかるかもしれません。それに女性の体は繊細なので、精神的、身体的な苦痛などを感じると女性の日が早まったり遅れたりして、そのせいで症状が酷くなることもあります」
とにかくユイの体は繊細ということが分かった。
よほど具合が悪いのか、ユイはセレストが医師と話していても全く起きる気配がない。
先ほど、ユイの話を聞いていたけれど、深く眠ってしまうのも無理はない。
頭痛に吐き気、下腹部や腰の痛み、貧血などが一気に押し寄せて来ていては、起きているほうがつらいだろう。
それが毎月あると思うと可哀想に思えてしまう。
「症状を軽くする方法はありませんか?」
それに同僚が「そうですね……」と考える。
「生理が来ている間はあまり砂糖を摂り過ぎないように気を付けてあげてください。冷たい食べ物は体を冷やすので避けて、脂肪や塩気の多いものも控えてあげると良いと思います」
「さっぱりした食事が良いのですね」
話を聞きながら、頭の隅に留めておく。
セリーヌに帰ったら説明しなければ。
「体を温めるために、温かい飲み物を飲ませたり、動けるようでしたら軽く体を動かして血の巡りを良くするのも効果がありますよ」
「なるほど」
「普段、飲み物は何を飲ませてあげていますか?」
医師の質問にセレストは思い出す。
「紅茶に砂糖と牛乳を使ったテオレです」
「生理中は紅茶とカフェは避けてあげてください。あと、ないとは思いますがお酒類も。紅茶やカフェ、お酒を沢山飲むと症状が悪化するということが最近分かりました」
「気を付けます」
ユイにはいつもルレたっぷりに砂糖でほんのり甘味をつけたテオレを飲ませていたが、生理中はティザンや果実水などのほうがいいのかもしれない。
「もしかしたらよく眠るかもしれませんが、生理中は心身共に疲れやすく、眠気を強く感じることはよくあることなので寝かせてあげてください」
セレストは同僚の話を聞き逃さぬように耳を傾けた。
* * * * *
「──……ュィ、ユイ」
名前を呼ばれる声で目が覚める。
まだ眠たいが、何とか目を開ければ、セレストさんの顔がすぐそこにあって驚いた。
けれどもすぐに思い出す。
……そうだ、わたし月のものが来て……。
心配そうに金の瞳に覗き込まれる。
「もうすぐ昼食の時間ですが、何か食べられそうですか? まだ吐き気はありますか?」
訊かれて、少し考える。
一眠りしたからか吐き気は良くなったようだ。
でも頭痛や腰の痛みなどはまだ続いている。
「はきけ、いまはない。すこしなら、たべられる、かも」
「では昼食を取って来ますが、離れても大丈夫ですか?」
周りを見回して、まだ救護室にいるのだと分かった。
カーテンで区切られたベッドの一つにセレストさんが座っており、毛布に包まれて抱えられている。
頷けば、そっとベッドへ降ろされた。
「水を飲んで待っていてください。一気に飲まないで、少しずつ飲むんですよ。すぐに戻って来ますからね」
いつもより柔らかい声で言われて頷いた。
頭痛がするので、声量を抑えてくれるのはありがたい。
渡されたコップに半分ほど水を注いでくれてから、セレストさんはカーテンを開けると出て行った。
カーテンの向こうで少しだけ話し声がする。
声からして、先ほど会った女性も外にいるようだ。
セレストさんのものだろう足音がして、それが救護室から出て行き、扉の閉まる音がした。
……頭も痛いし、腰も下腹部も痛い。
動くと、膝の上からゴロンと何かが転がり落ちた。
大分ぬるくなった湯たんぽだった。
それを毛布の外に出しつつ、水を飲む。
気持ち悪くならない程度に飲んでから、ベッドの脇にある棚にコップを戻した。
……セレストさん、早く戻って来ないかな。
なんだか寒いし凄く心細い。
毛布に包まって縮こまる。
静かな救護室が寂しい。
じわりとこみ上げてきた涙を、瞼を瞬かせて乾かしながら誤魔化した。
冷たい手を擦り合わせていると扉を叩く音がした。
それにハッと俯いていた顔を上げれば、扉の開く音がして、足音がする。
ややあってカーテンが開かれた。
「ユイ、食事を持って来ましたよ」
セレストさんがトレイを棚の上へ置く。
そこにはいくつかのお皿が所狭しと並べられており、食事の匂いが鼻をくすぐったが、あまり食欲は湧かなかった。
セレストさんがわたしを抱き上げ、ベッドに座り、その膝の上にわたしを乗せる。
そうして、食器に手を伸ばした。
「どれが食べたいですか?」
訊かれて、わたしは「すーぷ」と答えた。
セレストさんの体に寄りかかる。
セレストさんは片手でスープの入った器を持ち、もう片手でスプーンを持つと、わたしの前に持って来て、スプーンでスープを掬った。
差し出されたそれに口をつける。
持って来る間にほどよく冷めており、食べやすい。
スープは野菜たっぷりの優しい味がする。
でも、何口か食べただけで満腹感を覚えた。
首を振ればセレストさんが「そうですか……」と心配した顔でわたしを見下ろした。
「セレストさん、おろして。セレストさんの、しょくじするのに、わたしじゃま」
そう言えば、セレストさんが「いえ、大丈夫ですよ」と首を振った。
「このままユイは休んでいてください」
頭を撫でられる。
それから、セレストさんはわたしを膝に乗せたまま食事を始めて、わたしは温かなセレストさんの体にくっついて目を閉じた。
眠るわけではないが、目を開けているのも疲れてしまう。
ドキ、ドキ、と服越しにセレストさんの鼓動を感じる。
その規則正しい音に何故か安心した。
……あったかい。
心細かった気持ちも消えていた。
「セレストさん、ごめんなさい」
セレストさんが「ん?」と首を傾げる気配がする。
「しごとの、じゃまして、ごめんなさい」
セレストさんにも仕事があるのに、わたしのせいで、こうして動けずにいる。
だけどセレストさんと長時間離れたら、多分わたしは不安と心細さで泣いてしまうかもしれない。
食事を取りに行く少しの時間だけでもあんなに心細かったのだ。
「邪魔ではありませんよ。むしろ、私の見えないところでユイが苦しんでいるほうがつらいです」
背中を大きな手がさすってくれる。
思わずセレストさんの服を握ってしまう。
「怪我をした者が来たら治療のために少し離れますが、この救護室の中にいるので大丈夫ですよ。それに、元より私の仕事場はここですから」
気遣ってくれる言葉が申し訳なくて、でも、そう言ってくれてホッとする。
……今は離れたくない……。
ギュッとしがみつけば、セレストさんはしっかりとわたしを抱き締めてくれる。
その温もりに力を抜いて身を委ねる。
規則正しい心音に黙って耳を傾けた。