小さな事務員(1)
そして、見習い事務員として最初の日。
わたしは鞄にペンとメモ用のノート、インク瓶を入れて、それとは別に仕事の内容を記しておくための小さなメモ帳、最後にヴァランティーヌさんからもらった計算機も入れてある。
計算機は使い方を教えてもらった。
最初は苦戦したけど、一度覚えると算盤の凄さが分かる。
頭の中に算盤を思い浮かべておけば、頭の中で算盤を弾いて計算が出来るようになるのだ。
もちろん、ヴァランティーヌさんがくれたこの計算機はきちんと使うが、暗算が得意になる。
しかもこの日のために、わざわざセレストさんが新しいペンとインクを買ってくれた。
このペンは凄く書き心地が良くて、何度か試し書きをしたけれど、紙の上を滑るように書けるしペンに使われている羽根自体がやや太めでしっかりとしたものなので、多少筆圧が強くなってもペン先が潰れ難い。
「長時間使うものは良い品を買うべきですよ」
セレストさんはそう言っていた。
安くて質の悪いものを買っても、疲れやすかったり手が痛くなったりしてしまうかもしれないから、長時間使うものは質の良いものを購入したほうがいい。
確かに、これだけ滑らかに書けるなら手や指への負担は少ない。
これまでのペンも悪くはないが、このペンに比べると文字を書く時にペン先に抵抗があって、少し力を入れないといけないのだ。
それがこのペンには必要ない。
きっと仕事をする上で重要になってくるだろう。
第二警備隊に着くと、セレストさんに手を引かれていつもと違う廊下を行く。
ディシーはわたしよりも数日早く受付の見習いに入り、今日も見習いとして色々と学ぶのだろう。
……初めての仕事。
凄くドキドキする。
無意識にセレストさんの手を強く握ってしまっていたようで、セレストさんが歩きながらチラッとわたしを見た。
「大丈夫ですよ。事務の者達は穏やかな者が多いですし、ユイならすぐに仕事も覚えられます。見習いは届いた書類の計算の再確認から始まるらしいので、しばらくの間は毎日数字と睨み合いになるかもしれませんが」
……そうなんだ。
一度に沢山の仕事を教えられても、覚えきれるか不安だったから、それならちょっと安心だ。
計算機もあるから大丈夫だろう。
それにわたし、何かを集中してやるのは得意なのだ。
前世では病室から出られない日も多かったので、同じことを延々と繰り返す作業も苦ではない。
「がん、ばる」
わたしが意気込むとセレストさんが微笑んだ。
「ええ、頑張りましょう」
そうして、目的地に着いた。
そこには第四事務室と書かれていた。
思わず周りを見れば、いくつか事務室があった。
「ユイは第四事務室所属になります。ここは主に救護室に関する書類を担当しています。備品の購入書類、備品数の確認など色々ありますからね」
……まあ、救護室だけでも五部屋もあるからね。
そこから出される書類もかなり多いだろう。
セレストさんが第四事務室の扉を叩き、ガチャリと扉を開けた。
「失礼します。本日付けで配属されたユイを連れて来ました」
始業時間より早いのに、室内にはもう人がいた。
その中の一人が立ち上がった。
「話は聞いております」
獣人の女性だった。……ウサギ?
女性はわたしを見ると少しだけ体を屈めて、目線を合わせてくれた。
「初めまして、アンナ=ドゥネーヴといいます。今日からユイちゃんの教育係をさせていただきます」
垂れ目の優しそうな女性である。
「ユイ、です。よろ、しく、お、ねがい、し、ます」
「はい、よろしくお願いします」
それからアンナさんが体を起こす。
「それではユイちゃんは責任を持ってお預かりさせていただきますね」
「はい、よろしくお願いします」
セレストさんがわたしを見た。
「ユイ、昼食には迎えに来るので、それまでドゥネーヴさんの言うことをよく聞いて、仕事を頑張ってくださいね」
「セレ、スト、さん、も、がんば、って」
「はい、私も頑張ります」
セレストさんがそっと手を離した。
そして、少しわたしを気にしながらも事務室を出て行った。
……行っちゃった。
急に心細くなる。
でも、今日からこれが普通になるのだ。
気合いを入れ直してアンナさんに向き直る。
「きび、しく、お、ねがい、し、ます!」
アンナさんが目を丸くして、そして笑った。
「はい、厳しくいきますよ」
頷いて、まずはわたしの席に案内してくれた。
事務室の扉からだいぶ離れたところなのは、わたしが勝手に出て行かないようにするためなのかもしれない。
机は他の人と同じものだけど、椅子の上には厚みのあるクッションが置かれていた。
「ごめんなさいね、椅子がこれしかなくて。高さの調整が出来ないから代わりにクッションを置いたんだけれど、大丈夫かしら?」
椅子に座ってみる。
クッションのおかげで丁度良い高さである。
「だい、じょぶ、です」
「良かった。ユイちゃんは計算機は持ってる?」
「はい、あ、り、ます」
鞄を机の上に置いて開ける。
中から計算機とペンとインクと、メモ帳、無地の本を取り出した。
「準備がいいわね」とアンナさんが微笑んだ。
「仕事をするのは初めて、よね?」
それに頷き返す。
「セレ、スト、さん、が、ひつ、よ、だって」
「そうね、どれも大切だと思うわ」
そうしていると始業開始の鐘が鳴った。
他の人達が席に着く。
すると、シンと静かな室内にパチパチと計算機を使う音が響く。
みんな集中しているようで会話はない。
アンナさんが「仕事を始めましょう」と言う。
「事務の見習いがすることは書類の数字の再計算です。間違っていないか計算して、間違っていたら左に、合っていたら右に置いて、確認を進めていきます」
アンナさんが他の人から書類を受け取って戻ってくる。
書類にはレ点チェックみたいなのが入っていた。
「この記号がついている時には数字が合っている。間違っている場合は、違う所の上から二本線を引いて、その横か下に正しい数字を書いてください」
もう一枚の書類は、数字が間違っていたのか二重線が引かれて、その下に正しいものだろう数字が書かれていた。
最初は数字と計算に慣れるために、とにかく沢山計算をこなして経験を積んでいくことが見習いには重要なのだとか。
メモ帳に箇条書きに記す。
「終わったら私のところまで持って来てください。私の席はあそこなので、分からないことがあった時にも、気軽に声をかけてくださいね」
「はぃ」
アンナさんはまた他の人から書類を集めてきて、わたしの机の上にドサリと置いた。結構な量だ。
「出来る分だけでいいですよ。様子を見て仕事の量を決めるから、無理せず、出来る範囲でやってください」
アンナさんの言葉に頷いた。
机に顔を向ける。
書類の束に手を伸ばした。
書類には色々と書かれていて、まずは文字を読む。
これは第一救護室の三日前の消費した備品リストらしく、どれをいくつ使ったという記載がされている。
計算機を手元に置いて、数字を読みながら計算機の玉を弾いていく。
ザッと見ただけでも十種類以上の備品が使用されており、ズラリと長く数字が縦に並んでいる。
それと一つずつ指で弾きながら確かめていく。
最後まで計算し終え、その数字を無地の本の一ページ目の一番上にメモする。
それから今度は本に数字を書いていって、本のほうで手書きで計算していく。
最後まで計算して、計算機と答えが同じことを確認したら、数字の横にレ点チェックを入れて机の右側に書類を置く。
そうしてわたしは次の書類を手に取った。
* * * * *
ぺた、と手が机に触れて我へ返る。
もう一度、ぺたぺたと机を触りながら顔を上げてみれば、手を伸ばした場所には何もなかった。
アンナさんが置いていった書類は全て終わったようだ。
きちんと目を通しているか、重なって見落とした書類がないかを確かめ、全てにチェックが入っていることを確認して書類をまとめる。
結構な量があるけれど、その中で間違っていたのは数枚程度だった。
書類をまとめ、アンナさんの机に向かう。
「アン、ナ、さん」
声をかければアンナさんが顔を上げた。
「どうしました? 何か分からないところがありましたか?」
その問いに首を振る。
「かく、にん、お、わり、まし、た」
持ってきた書類を差し出す。
「こ、っち、が、まち、が、って、いるの、で、こ、っち、が、あって、た、の、です」
「……はい、確認しますね」
アンナさんが書類に目を通していく。
その間、ちょっと待つ。
アンナさんの目が凄い速さで書類を追いかけていき、そして、顔を上げた。
「…………問題、なさそうです」
それにホッとする。
「いち、お、に、かい、かく、にん、し、ま、した」
「二回確認?」
「はぃ、けい、さん、き、でい、かい、て、で、けい、さん、い、っかい、で、に、かい、です」
アンナさんが目を丸くした。
……何でそこで驚くの?
「驚きました。まさかあの量をこれだけの時間で捌けるなんて……。しかも二度、計算の確認をしてくださっているとは」
首を傾げればアンナさんが苦笑する。
「どんな仕事であっても出来ているかの確認をする。本来はそれを覚えてもらうために、書類を受け取ったら再確認をしたか訊くのですが、ユイちゃんには必要なさそうですね」
……ああ、そういうことか。
前世では問題を解いた後にも、もう一度確認して、答えが合っているかどうか確かめるというのが普通だけど、この世界ではそうではないのだ。
そもそも学校がないから教育をされていないため、そういうことまで最初は考えが及ばないのだろう。
それを本当ならここで教えられることとなる。
でもわたしはそれもやったから、アンナさんは驚いたということだ。
「……もう少し、計算は出来ますか?」
訊かれて頷いた。
「でき、ます」
「では、こちらの書類もお願いします」
ドサッと更に書類の山が目の前に置かれた。
最初に渡された量と同じか、それより少し多いかもしれない。
……うわあ、凄い量だ……。
アンナさんが困ったように笑う。
「すみません、ここはいつでも人手不足なので」
使える者なら見習いでも使うという意味だろう。
「やり、ます」
それなら、わたしもやれるだけやってみせよう。
* * * * *
「…………ユイ?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
………………?
目の前の書類の山から首を覗かせれば、事務室の出入り口にセレストさんが立っていた。
視線を動かせば、壁にかけられた時計はもう昼休憩の時間だった。
昼食を食べるために迎えに来てくれたようだ。
アンナさんが「あら」と席を立つ。
「もう昼休憩の時間ですね。皆さん、休憩ですよ!」
アンナさんが声を張り上げると室内の空気がふっと緩み、途端にざわざわと人の話し声が広がっていく。
わたしもキリの良いところまで計算を終わらせる。
ペンを置き、インク瓶にフタをして、本を閉じる。
アンナさんとセレストさんがわたしの机に近付いて来た。
「ユイ、お疲れ様です。どうでしたか?」
それに頷いた。
「けい、さん、がん、ばった」
アンナさんが嬉しそうに両手を合わせて微笑んだ。
「そうなんですよ、ユイちゃん、本当によく出来た子で助かります。計算も正確だし、再確認を教えなくても出来ているし、何より仕事が早いんです」
「そうなのですか?」
「ええ、普通の見習いの倍以上やってくれています。計算が得意だと聞いていましたが予想以上でした」
セレストさんに頭を撫でられる。
「それは頑張りましたね」
返事の代わりにわたしのお腹が、ぐぅ、と鳴った。
思わずお腹を押さえるとセレストさんとアンナさんがクスッと笑った。
「そろそろ行きましょうか。ディシーとヴァランティーヌも待っています」
差し出された手に自分の手を重ねる。
「午後もお願いしますね、ユイちゃん」
アンナさんの言葉に頷いた。
セレストさんに手を引かれて事務室を出る。
初めての仕事で緊張したけれど、思ったよりも単純作業でホッとした。
計算するのも別に大変じゃないし、集中してやっているからか、時間もあっという間に過ぎていった。
ずっと座ってるだけだったのにお腹が空いた。
歩いている間もお腹が鳴っているのが分かる。
それに甘いものが食べたい気分だ。
「……お、かし、たべ、た、ぃ」
呟くとセレストさんが立ち止まった。
見上げれば、セレストさんが驚いた顔をしている。
けれどもすぐに微笑まれた。
「セリーヌからクッキーを持たされているので、昼食後に渡しますね」
セリーヌさんのお菓子は美味しい。
セレストさんが「昼食は軽めにしましょうか」と言いながら歩き始めたので、ついて行く。
頭を使うと甘いものが欲しくなるというのは本当のことらしい。
お腹も空くけど甘いものも欲しい。
ぐぅ、とまたわたしのお腹が抗議の声をあげた。
食堂へ着けば、ディシーの声がした。
「こっちこっち!」
ディシーの声はよく通る。
周りの人達も思わずといった様子で何人か振り返り、わたしとディシーを見ると、また食事へ戻っていく。
セレストさんが食事を取ってくるからと、わたしだけでディシーのところへ向かう。
「おつ、かれ、さ、ま、ディ、シー」
「ユイもお疲れさま!」
ディシーの隣に座る。
「どうだった? 事務員、難しい?」




