初めまして
……あったかい。
柔らかなシーツからいい匂いがする。
それに寝ているところもふかふかで心地好い。
病院のベッドとも奴隷部屋の冷たい床とも違う。
………………ん?
「っ?!」
思わず飛び起きた。
けれども視界が一瞬暗くなって、体から力が抜けて、慌てて手をついて上半身を支えた。
戻った視界の先には小さく細い手があった。
試しに手に力を入れれば、視界の中にある手が同じようにギュッと手をついた部分を掴む。
ゆっくりと自分の顔に触れる。
頬をつねってみた。痛い。
…………夢じゃない。
瞬間、これまでの記憶が頭の中を駆け巡った。
前世の記憶と今生の記憶が入り混じる。
……頭、痛い……。
あまりに沢山の記憶が押し寄せてきて気持ち悪い。
わたしは前世で天寿を全うして、どうやら生まれ変わったらしい。
見下ろした両手はやはり小さくて細い。
前世のわたしも痩せていて細かったけれど、体を触ってみれば、それと同じくらいこの体も痩せていた。
……ええっと……奴隷、だっけ?
そう、確か今のわたしは戦闘用奴隷というやつで、同じような戦闘用奴隷達が集められた場所にいて、八番と呼ばれていた。
「ジュ、ナ、ナ、バン……!」
慌ててベッドから降りて仕切りのカーテンを開く。
すると、そこには同じようにベッドがあり、十七番が眠っていた。
それを見て心底ホッとした。
足から力が抜けて床にへたり込む。
コンコン、ガチャ、と音がした。
カツ、コツ、と小さな音がして、仕切りのカーテンが揺れて、知らない顔が現れた。
……うわ、青い!
まず目に飛び込んできたのは長く伸ばされたまるで海のように真っ青な髪で、それを緩く三つ編みにして左肩に流してある。
次に色白の肌、そして左右対称の綺麗な顔立ち。
やや垂れ目の瞳は金色で、鼻はスッと通って高く、唇は薄く、覗いている耳は先が少し尖っている。
……え、耳が尖ってる? 何で?
見たこともないほど綺麗な人だった。
綺麗だけど、首の太さや顎の線などから男性だと分かる。
相手も一度目を瞬かせると慌てた様子で入ってくる。
「ああ、大丈夫ですか? 床に座っていては体を冷やしてしまいますよ」
警戒したのは一瞬だけ。
その声には聞き覚えがあった。
……そうだ、わたし、死にかけてたはず。
首に触れてみたが、わたしの首はきちんと繋がっていて、呼吸も出来るしちゃんと血も通っている。
近付いて来た男性を見上げる。
伸びてきた手に体が反射的に動いて頭を守ろうとする。
その時は八番の意識の方が強かった。
殴られると感じたのだ。
はっ、と息を呑むような音が聞こえた。
「……すみません、怖がらせてしまいましたね」
声が思ったよりも低い位置から聞こえてくる。
そっと翳した腕の隙間から見れば、青い髪の男性は屈んでおり、座り込んだわたしと目の高さを合わせるために背を丸めていた。
「私はあなたの敵ではありません」
金色の瞳が困ったように目尻を下げている。
「なぐ、ら、ない……?」
「はい、殴りません。あなたを傷付けません。……そのままでは風邪を引いてしまいます。立てますか?」
言われて、立ち上がろうとしたけれど、足に力が入らなかった。
何度立とうとしても足が震えてしまう。
それが分かったのか男性が首を振った。
「無理はいけません。触ってもいいですか?」
……触られる。
見れば、男性は心配そうな顔でわたしを見ている。
八番としての意識が「この人はわたしに敵意はない」と告げてくる。
上手く言葉に出来ないが本能的にそう感じた。
男性の言葉に頷けば、男性の腕がゆっくりと伸びてきて距離が一気に近くなる。
背中と膝の裏に手が入れられて、あっさり持ち上げられた。
こういう経験があるのだろうと分かる。
病院でずっと暮らしていた前世のわたしは最後の方はもうあまり体を自力で動かすことが出来なかった。
時々、看護師さんや父が車椅子に乗せて散歩させてくれたが、慣れている人とそうでない人とでは、人を抱えた時に安定感が違う。
この人は多分、人を運ぶのに慣れている。
男性はローブみたいなゆったりとした格好だったので気付かなかったけれど、わたしを抱えた腕は細身ながらにしっかりと固定されていた。
男性はわたしを驚かせないためか、やっぱりゆっくりと立ち上がって、わたしを元のベッドの上へ戻す。
大きな手が離れていく。
「喉は渇いていますか?」
こくりと頷けば、男性が動く。
ベッドの横の棚兼テーブルみたいな家具の上に、コップと水差しがあり、男性がコップに水を注ぐと渡してくれる。
わたしがしっかりコップを受け取ったことで、男性の手がそっと離れた。
コップに口をつけて水を一口飲む。
…………美味しい。
飲み始めて、初めて喉がかなり渇いていたことに気付き、そのままコップの中身を飲み干した。
ただの水ではなく、レモンみたいな風味がする。
「もう一杯飲みますか?」
頷けば手の中のコップに水が注がれる。
それを半分ほど飲んで、ようやく渇きが癒された。
コップを置こうと家具に手を伸ばせば、大きな手がコップを取り上げて代わりに置いてくれる。
ここは病院のような場所のようだけど、それにしては薬品臭さを感じない。
でも病院に近い空気を感じる。
静かで、この慣れた空気にどこか安心する。
「ここがどこだか分かりますか?」
気分が落ち着いたところで声をかけられた。
首を振ると男性が脇に置かれていた椅子を持ってきて、そこに腰かけた。
その様子を見ていて気付いたが、男性は背が高い。
でも細身だからか圧迫感はない。
「わたしの名前はセレスト=ユニヴェールといいます。グランツェールの第二警備隊に所属しています」
セレスト=ユニヴェール。
それがこの人の名前。
「覚えていないかもしれませんが、あなたがいた賭博場は昨夜、私達第二警備隊が摘発して──……全員捕まえたので、あなた達奴隷は保護されました。あなた達はもう自由ですよ」
……それはつまり、解放されたってこと?
八番にとっては衝撃的だった。
その賭博場は八番にとっては世界の全てであった。
そこがなくなったと理解して、何とも言葉に表し難い気持ちになる。
わたしにとっては良かったと思うのだが、八番はこれからどうすればいいのか途方に暮れている。
しかし男性は勘違いしたようだ。
「すみません、あなたには分からない言葉ばかりでしょう。……あなたはもう誰からも殴られない、ということは確かです。分かりますか?」
言われて頷けば、ホッとしたような顔をされた。
「疲れたでしょう。今はよく休んでください」
ベッドの枕を軽く叩かれる。
……横になれってことかな?
寝転がると毛布をかけられた。
ふかふかのベッドに、柔らかくて清潔なシーツと毛布で包まれるとウトウトとしてしまう。
まだ色々と知りたいことは沢山あるが、眠気で意識が段々と沈んでいく。
「起きたらまた話しましょうね」
まるでわたしの気持ちが伝わったかのように男性に言われて、わたしは何とか頷き返したのだった。
* * * * *
眠りに落ちた番をセレストはしばし眺めた。
薄汚れてしまってはいるが、亜麻色の短い髪にオレンジがかった赤色の、紅茶色の瞳をした少女だ。
抱き上げた体はやはり細くて小柄で、あまりにも頼りない。
疲れていたのだろう。
横になるとすぐに眠ってしまった。
……それも当然か。
彼女は一度死にかけている。
ギリギリ治癒魔法で繋ぎ留められたものの、もしもあの時駆け寄れたのがセレストでなければ彼女の首は隷属の首輪のせいで完全に千切れていたはずだ。
そこまで制約の強い隷属魔法は違法である。
本来ならば奴隷という身分自体が廃されるべきなのだが、中には罪人を奴隷として働かせるなどということもあるため、全てを一概に廃して良いというわけでもないのだろう。
無意識のうちに強く握り締めていた手を開く。
あの時は番を生かすことに夢中だったけれど、自分の唯一が奴隷にされていたと思うと今すぐにでもあの獣人の男を同じ目に遭わせてやりたいと感じるほどだ。
眠っていた間に医者が番を診察してくれたが、栄養失調に軽い脱水症状、貧血、それに身体中のあちこちに打撲や傷だけでなく多くの古傷があったそうだ。
あの賭博場は人間同士を戦わせて、どちらが勝つかを賭けるものだった。
ただでさえ他の種族より弱く、短命で、人口の少ない人間は保護されるべき存在なのに、その人間を戦わせて賭博に使うだなどと許せるものではない。
摘発時に入った賭博場では、奴隷の人間を狭い牢屋に押し込めていた。
きっと彼女もそのような境遇だったはずだ。
……この子は恐らく常識を知らない。
常識どころか、もしかしたら自分のいた場所も、ここがどこなのかも理解していない可能性もある。
先ほど説明したけれど、あまりに反応が薄かった。
解放されたことを喜ぶことも、泣くこともなく、ただただぼんやりとしていた。
人間は発見され、どこかの村や街に属していない場合は保護施設に送られるのが一般的だ。
この街にも人間用の保護区画があり、そこでは多くの人間が暮らしている。
本来であれば彼女もそこに送られるはずなのだが。
問題は彼女が竜人の番であるという点だ。
竜人は番を絶対的な存在としており、見つけた場合、離れるのを極端に嫌う。
実際、セレストも番から離れると酷く落ち着かず、彼女のことが心配で普段通りではいられない。
基本的に番が見つかった者達は共に暮らすのが通例だ。
どちらも番がそばにいることで状態が安定する。
だが人間は始祖の血が薄く、他の種族と違って自分で番を感じ取ることが出来ないため、番以外と婚姻するのも珍しくはないらしい。
通例で考えるならばセレストが彼女を引き取る。
けれど、そうすれば彼女は他の人間との交流の幅が減って、同族の中で孤立してしまう。
上司には保護した人間の一人が竜人の番であることは報告済みなので、このまま行けば、セレストが彼女を引き取ることになるだろう。
それが彼女にとって良いことなのか……。
「あなたが望まないことは、したくありません……」
眠る番にそっと毛布をかけ直して部屋を出る。
許されるなら、何時間でもそばにいたい。
だがセレスト自身も仕事があるし、きちんと説明もしていないのにずっとそばにいられたら彼女も戸惑うはずだ。
番についてもしっかり説明するつもりだが、それ以外にも、色々と教えなければいけないことは多そうだ。
廊下を歩きながらセレストは番に関する書類を思い出した。
彼女には名前がない。
十二年前に『五十二番』と『三十六番』の間に生まれ、空いていた『八番』という数字が割り当てられただけ。
それから十歳までは空白で、十歳からの二年は賭博場で同じ戦闘用奴隷相手に戦わせられてきた。
どれだけ戦い、どれだけ勝ち、どれだけ負けたか。
書類に書かれているのはそれだけだった。
なんとか誕生日は書かれていた。
だが、きっと本人はそれを知らないだろう。
見つけた番の名前さえ呼べないとは思わなかった。
「あ、おーい、セス!」
こちらの名前を呼ぶ声に振り返る。
「ウィル」
駆け寄って来た緑の頭は同僚であり、幼い頃からの友人ウィルジール=アルナルディだった。
ウィルジールはセレストに追いつくとその肩を両手で掴む。
「お前、番を引き取るのを断ったって本当か?!」
この情報通な竜人は昔からそうだったが、どこから聞いてくるのか大抵のことは何でも知っている。
元より交友関係の広い男なので、色々な場所や人から話を仕入れてくるのだろう。
「断ってはいません。保留にしているだけです」
「何でだよ番だぞ普通は一緒に住むもんだろ番見つかって良かったな羨ましいぞこの野郎!!」
……どこで息を吸ってるんだ?
掴んだ肩を前後に揺すられる。
「それは竜人側の常識でしょう。彼女は人間で、私を番だと感じ取れない。無理に引き取ることは出来ません」
ウィルジールが止まった。
「……そうか、人間は番を感じ取れないんだっけ……」
「ええ、それに引き取るにしても彼女の承諾を得てからでないと。突然見知らぬ者と暮らせと命令されたら、誰だって嫌でしょう?」
「…………それは、まあ、確かに」
ウィルジールが肩から手を離した。
「でも、お前はそれでいいのか?」
竜人にとって番は特別だ。
何よりも、それこそ自分自身よりも大事な存在だ。
番を見つけたどの竜人も番に対し、過保護になる。
自分以外の異性が近付くのを嫌がる竜人も珍しくはなく、番は竜人にとってはもう一つの逆鱗と言ってもいいくらいだ。
触れられるのも離れるのも酷く嫌う。
「大切なのは彼女の意思です」
そばにいたい。大切にしたい。
そんな気持ちがセレストの中にもある。
しかし彼女のためを思えば、こちらの事情だけで推し進めるわけにはいかない。
ウィルジールは何とも言えない顔をする。
「何でわざわざイバラの道を進もうとするかねぇ」
それにセレストは苦笑をこぼす。
自分でも、その自覚はあった。