7. おねだり
エリザベスは椅子の上で姿勢を正し、パンパンッと二回頬を叩いて気合を入れた。
教材を抱えたマリーがやって来る時間が迫っていた。
「前向きにならないと」
呟いてもう一度頬をたたく。
どんなに不本意でも、今はやることをやる。
そう、この先がどうなろうとも、生きていくためにできることはする。
とくればまずは学問。絶対に必要だ。
今は無理でも、学院で学ぶようになれば寮生活もできる。家から出られる。たとえ将来での追放が避けられなかったとしても、読み書き計算は生活の必需品。今から備えておけば格段に生きやすくなるはずだ。
アリアンヌに話したときに考えていた通り、できないフリをすることは『できる者にこそ』可能。
そう。できの悪い振りをして、婚約を回避することだって可能かも。
うん。父親のことを見限ったからには、自分が頑張っていることを見せる必要もなくなったんだし、それはありだ。
それに、家から出られれば――学院では通常の勉強だけでなく魔法の使い方も学べる。
そう。魔法。
それはエリザベスの心を浮き立たせる言葉だ。
『記憶』の世界には存在しない、ファンタジー。
それを知らずに行き詰ったり諦めたりするのは、早すぎるってもの。
魔法を扱うための魔力は、量の違いはあるものの、この国の国民のほぼ全員が持っているもので、その力は通常、子どもの体内では眠っている。
そのためこの国では、学院に入学した後でその力を起こし、適性を判断し、それから扱い方を学ぶことになっている。
ちなみに魔力保有量の多さは身分の高さにほぼ比例している。つまり王族がトップで、そういう特別な人たちは、意図せずに魔法を使ってしまうことがないように、赤ん坊のうちから魔封じの魔術具を持たされている――そこまでが魔法のなんたるかを知らない子どもにも公開されている情報だ。
だから今のエリザベスは魔法についてはまだ何もわかっていないに等しい。全てが入学後に始まるのだ。
その日を思うとわくわくするし、待ちきれない思いさえ湧いてくる。
魔法のことを考えたら、だいぶ気分が上向いた。
服の上から胸元を押さえれば、指輪の形がわかる。
エリザベスは自分とアリアンヌが持っている母の形見の指輪はおそらく魔封じの魔術具なのではないかと思っていた。
ウィルベリー公爵家は主に国際政策を担う公爵家で、その仕事に魔法の扱いは必須ではないけれど、身分が高いのは疑いようもなくあきらかだ。ジークフリートは通信関係では魔法を使っているそうだし、移動魔法も使えるので、あちこち飛び回るのに便利だと言っていたことがある。
瞬間移動なのか、門やドアを抜けると別の場所だったりするのか、超速で飛ぶような乗り物が使えるようになるのか、その辺りはわからないけれど、考えただけでわくわくする。
いつかできるようになるだろうか。そうだ、できるようになったら南の島にゆったりバカンスに行ったりしたい――そう思ってから違和感に首を傾げた――んん? この場合の南の島ってどこになるんだろう?
マリーが来るまでの時間と思って本棚から地図を引っ張り出した。
「この国の南に行くと確か広大な砂漠があるってこの前本で読んだはずだけどな……? バカンスができるような海があるなんて聞いたことはないのに……って、ああ、また余計なものを思い出しちゃったのかな……記憶がミックスされてるよ。とほほ」
がっかりしてしまって、ぶんぶん、と首を振った。今は魔法に関する将来のことだ。
父親の魔法適正はそんな感じだとして、エリザベスの母親メアリーアンの実家も魔法部門を担うパートリッジ公爵家だ。身分は高いし、なんといっても『魔法』部門。
「いろいろできそうなんだよね~」
それに、メアリーアンの父でエリザベスとアリアンヌの祖父であるアーノルド・フォートワース・ド・パートリッジ――既に実政からは引致して相談役の身となっている――は、『かなりの』魔法を扱える人物だったと聞いている。
祖父はエリザベスが生まれる以前に終結した戦争での英雄だ。当時はまだ若輩の身であったにもかかわらず魔導士たちを率いて敵を翻弄し、国に入ることを一切許さなかったその功績を称えられてミドルネームの後ろに敬称である『ド』を名乗ることを許されたとか。
エリザベスはメアリーアンが魔法を使っているところを見たことはないけれど、それなりに使えたらしいし、しかも魔力量では他の追随を許さない王家の血まで引いているのだ。
だから、エリザベスとアリアンヌが魔封じの魔術具を持たされている可能性は――それこそかなりものすご~く高い。
誰からもなにも言われたことはないけれど、エリザベスにだってかなりのことができるはず、と期待するのは仕方ないってもの。
魔法がちゃんと使えるようになるのかどうかについては学院に入って調べてみないとわからないし、実際は使えなかったらどうしよう、という不安もあるけれど。
不安。
それは――『記憶』を探ると、この悪役令嬢エリザベスというキャラについて、ゲームではできるとされていた治癒魔法への適正なんて本当はないのではないか、という懸念が出てくること。
ゲームのエリザベスには、この世界では珍しい白(治癒)魔法への適性があるとされていた。
けれど、適性がある、とされながらもエリザベスはゲーム内では魔法自体を殆ど使っていなかったのだ。
エリザベスがやったとされた改善症例はいくつかあったし、どれも治癒魔法系列のものだったけれど、証拠はなかった。誰かの怪我を治したとかいう話はあったけれど、ゲーム内スチルもなかったし、ムービーもなし。
プレイヤーなら、本当に使えるの? 王太子の婚約者でいるための嘘じゃないの? と、おそらく誰もが疑いを持ったと思う。
まあ、性格最悪のエリザベスが誰かのために治癒魔法を使うとかないかなって気も――するんだけど。
――そこに一抹の不安を感じて、地図を棚に戻しながらエリザベスはまた息を吐いた。
「あれだけ偉そうにしていたんだし、事実王太子の婚約者になったのだから嘘ってことはないだろうけど、それでも嘘だったらどうしよう」
この八方ふさがりポジで魔法まで使えないとなったら――最悪だ。転生と前世の記憶の意味ナッシングじゃなかろうか。
人生がこれだけゲームの流れに沿った進み方をしているのだからおそらくシナリオ通りになるはず、ちゃんと婚約者だったんだから嘘じゃないはず、と気を取り直してから、どうせ適性があるなら黒魔法の方が面白そうなのにな、と思ってしまって、つい声を出さずに笑った。
今のエリザベスなら父親を呪殺しそうだ。
自分が呪いの呪文を唱えながら黒い鍋をかき回しているところを想像して、堪えきれずに声を出して笑って――笑った途端にまた一つ思い出した。
そういえばアリアンヌは直感力に優れていて、占いもできたっけ。
そうならきわどい駆け引きや取引もあり得る国際政治の場でかなり有利になる。
だからアリアンヌが公爵家に残ることになったのね――。
女性なので政治の表舞台には出なくても、夫とともに出る夜会や集会は多い。そこでは多くの人に会うことになるし、異国の客もいる。相手の人となりをアリアンヌに判断してもらえるなら、夫となる人はとても助かるだろう。
それが職務に熱心な人間であればなおさらだよね。うんうん。
妹にはそんな特性があったから、自分が王太子妃候補としてあげられて、結局婚約者になったんだな、とエリザベスはまた一つ納得する。
キャサリンの登場に触発されたのか、今日はいろいろと思い出しやすいようだ。
ゲームの内容だけではなく、普通の生活のこと。
魔法なんかなくても、じゅうぶん魔法みたいなことができていた『記憶』の世界。
「電子レンジ、冷蔵庫、エアコン、給湯器、上下水道――ゲーム、ネット、スマホ、タブレット……『記憶』って本当に、本当のことなのかな。それこそ魔法みたいなのに――」
新幹線、飛行機――魔法、か。
約一年前、メアリーアンの葬儀で久し振りに会った祖父、アーノルドのことを考える。
戦争の功績とは無縁そうな好々爺。髪は銀髪で体形は小柄。丸眼鏡の奥の瞳は笑みを絶やさない。そんな人物だったのに、あの時のアリアンヌはなぜかひどく怯えて祖父に近づこうとしなかった――アリアンヌにはなにか感じるところがあったのかもしれない。
公爵家の跡取りにふさわしい適性――それがアリアンヌにはある。
『記憶』の自分はスッキリ要素や甘々展開ばかりを求めていたし、すべてを思い出したわけではない。けれど、あのゲームにも意外ときちんと背景設定がしてあったのかもしれない。
敵役設定がいい加減だと考えた時とは真逆にそんなことを考えていたら、九時になったらしい。
今日の教材を抱えてマリーがやって来た。
ここに来たばかりの頃みたいな、少し硬い顔つきをしている。
ということは父親になにか言われたのかもしれないけれど、マリーはいつものように教材を並べて授業を始めたのでエリザベスもそのまま従った。
勉強の内容は計算と書き取りだ。計算は三桁までの足し算と引き算と掛け算で、前世の記憶が戻り出してから計算の速度が速くなってずいぶん楽になった。特に掛け算。問題用紙を睨んでいたら九九の記憶が戻ったあの時は、その場で万歳三唱したくなった。
書き取りも難しくはない。美しい文字の形を意識しながら、貴族らしい文の使い方をしている本や手紙をえんえんと書き写し、わからないところの意味を確認するだけだ。
勉強よりもむしろ美しい姿勢を保つことの方がはるかに大変だった。
意識が切れるとつい『記憶』の自分のように前かがみになってしまう。
いつものようにまず計算の課題を終えると、書き取りの前に休憩時間が与えられ、お茶セットが運ばれてきた。
マリーがお茶を淹れてくれるその間に立ち上がって窓の外を見ると、マナー教師のミス・マリーゴールドがアリアンヌとキャサリンと一緒に庭を散策中なのが目に入った。
エリザベスの部屋は二階にあるので、見下ろすかたちになってよく見える。
どうやら庭を公園に見立てて、二人に散策中のマナーを教えているよう――だけれど、マナー教師の顔つきからして、そろそろ鞭代わりの定規や柳の小枝が出て来そうだ。
――すぐ後ろをジークフリートとオリヴィアが歩いているので、そんなことはできないようだけれど。
スカートのすそを翻して駈け出そうとするキャサリンを引き止める教師。
キャサリンの不満顔。顔だけではなくて、実際に文句も言っているらしく、アリアンヌが困惑の顔をしている。マナーの教師に言い返すなんて、普通なら許されないことだ。
けれど、ジークフリートは鷹揚に笑っており、教師にはそのまま続けるようにと言ったらしい。
一緒に歩いているアリアンヌの当惑顔とマナー教師のひきつった笑顔に同情のため息を吐くと、マリーが隣にやって来た。
エリザベスの見ていたものに気がついて、小さく頷いたけれど、コメントをすることは控えている。
公爵家の人間を批判できる使用人はいない。少なくとも家主の家族の前でそんなことができるのは古参の執事であるパークスだけなのだ。
「マリー、ここに来る前にお父様に何か言われた?」
その場に立って外を見つめたまま聞くと、マリーはしばらくためらった後で答えてくれた。
「これまでのエリザベスお嬢様の学業や生活態度におかしなところはないか、とお尋ねになりました」
やっぱり。
エリザベスは、今日の会話を除けば、これまでは自分の特異性がはっきりと目立つようなことをしたことはなかったはずで――ちょっとできる子ではあったけれど。
けれど、さすがに今日の会話は七歳児にはありえない。あの会話の内容をマリーはジークフリートから聞いたのだろうか。
「そう。……で、どうなの?」
「どう、とは?」
「マリーは私のことを、おかしいと思う?」
否定しかできない質問なので正直な答えは期待していなかった。マリーもそれはわかっている。
「……あのね、私今日、少しお母様のまねをしてみたの。お父様は随分驚いていらしたわ」
首を少し右にかたむけながら説明すると、マリーは納得したように頷いた。
「こちらのお屋敷に来て以来お仕えしておりますが、お嬢様はおとなしくて口数も少なく、公爵家にふさわしいご令嬢だと思います。それに年齢より落ち着いていると……。私はお嬢様が同じ年頃のお子様にはありがちなわがままをおっしゃったのを聞いたことがございません。けれどお母様を亡くされたのですから、気持ちが沈むのは仕方ないことだとも考えております」
しっかりした答えは使用人のお手本のようだ。
「そう」
マリーはメアリーアンが亡くなる前のエリザベスを知らないけれど、確かに母親が亡くなってからのエリザベスは子どもらしくない面がいっそう増えた。乳母がいなくなって甘えられる人がいなくなったし、前世の記憶が戻るようになったせいでなおさらだ。
朝の支度のお礼でようやく打ち解けてきたとはいえ、マリー自身も雇い主は父親だし、大きなわがままを言えるような相手ではないし――それとも言ってもいいのだろうか。
「ねえ、マリー?」
問いかけて目を合わせる。
「私、誰にわがままを言えるの?」
侍女の驚いた顔。
「もちろん公爵閣下に――お父様なのですから」
そうだろうか。
「もっとわがままを言ってもいいと思う? お父様は厳しい人だからそんなことをしたら嫌がられるし叱られるって――ずっとそう思っていたんだけど」
今更わがままなど言いたくもなかったけれど、その言葉にマリーが微笑んだ。
「お子様らしい面が戻れば、公爵様も少し安心なさるのではないでしょうか」
ふむ。それも一理あるかも。
少なくとも油断させておくのは、ありかもしれない。
窓の外では、大きなツツジの茂みのところで折り返した二人の少女をにこやかに見つめているジークフリートとオリヴィア。
スカートを翻さないよう、もっとゆっくり歩くようにと指導しているのだろうマナー教師の背中に回した手は――大人たちからは見えない位置だったけれど、エリザベスの部屋に背を向けるように立っていたためにエリザベスとマリーからはよく見えた――ものすごく硬く握られている。
はあ。
あちらは前途多難のようね。
「ねえ、マリー、次の書き取りの時間はお父様に手紙を書く、というのではダメかしら? さっきは少し偉そうな口をきいてしまったし、お父さまにお願いがあるの。文面を考えるのを手伝ってもらえる?」
今度こそにっこり笑って頷いたマリーに笑顔を返し、エリザベスは椅子に戻った。