22. ナイト
深呼吸してからお腹に集中してくるりと戻る――突然ベッドの上に現れた少年の姿に驚いたマリーが、小さく息を呑んだ音がした。
そっちを見て小さく頭を下げてから祖父に向き直る。
「馬車が襲われたんだ」
「それはわかっておる――残念じゃが――」
「わかってる。母さんは死んだ。……だよね?」
祖父がゆっくり頷いた。
途端にあれが現実だとわかった。
あの時のことが蘇ってくる。
微笑んだ母の顔。
その背に光っていた刃。
恐怖と胸の痛み。
両腕を開いた祖父の胸に抱きつくと、やっと泣けた――。
母がもういない。
堰を切ったようにあふれ出した涙を、祖父はそのまま受け止めてくれた。
自分のことを誰よりも大切にしてくれた人。
そこだけは絶対に安心できた腕の中。
安らぎ、温かさ、守られているという幸せ。あそこだけは絶対。なのに、もうそんな場所はない。
「母さんは、僕たちは兄さんと間違えられたんだと思ってた。馬車が違ったから――僕は違うんだって何度も――だけどあいつは『目撃者を残すな』って。もうダメなんだって思った。
その時ナイトイーグルが来て。母さんは僕に『走れ』って――背中を押されて。
僕は――母さんは――僕は、手を、伸ばしたんだけど、あいつ、が……母さんは『生きて』って。だから、僕は」
言葉は切れ途切れにしか出てこなくなって、ついに消えてしまったけれど、祖父はひとつひとつの言葉に頷いて頭を撫でてくれた。
何度も大きく息をして、心を落ちつける。
「一晩中運ばれて。ずっとここに爪が刺さってて、外せなくて、朝が――空が明るくなってきて、小さな動物たちが走って逃げてるのを見て、僕もあのくらい小さかったらって……鳥になろうと思ったんだ、だけど肩が痛くて飛べないから、着地できるように猫にしようって、だけど、その後でたくさん歩かなきゃいけないから、図鑑で見た豹の方がいいなって、ほら、見た目も一緒だしさ」
深呼吸を交えながら話すと、ちゃんと喋れるようになってきた。
「変身して小さくなった時に爪が抜けたんだ。藪の中に隠れて、あいつがいなくなるのを待ってから山を下りた。川で水を飲んで、丸一日歩いて、二日目には熱が出たんだ。肩もすごく痛くて。
でも歩いた。だけど三日目の昨日の朝はもう歩けなかったんだ。頭がガンガンして、傷もすごく嫌な臭いがして、せっかく母さんが逃がしてくれたのに結局死ぬんだなって思った。……そこにあの子が――エリザベスが来てくれたんだよ」
「そうか。そうか――トリスタン、よくがんばったな――あの子も、よう間にあった――」
祖父の声が震えた。
ぎゅっと抱きしめて、また頭を撫でてくれる。
その手も震えているような気がした。
「治してくれたんだ。だけど、エリザベスは魔力を使い果たしちゃって――僕のを返したんだ。母さんがやってくれたみたいに。
あの時、エリザベスは疲れ切って混乱してた。
名前を聞かれたんだけど、答えていいかわからなかったから黙ってた――僕が誰かわかったらまた襲われるかもしれないって思ったし、エリザベスが誰かも、ここがどこかもわからなかったし――そしたら、名前がないならつけてあげる、使い魔になってくれたらいいのにって――で、また寝ちゃって。
あの時僕はちゃんと僕だったんだけど、エリザベスは僕がまだ黒豹だって思ってるんだって気づいたんだよ。それで僕はエリザベスと一緒にいることにしたんだ。恩人だし、僕、その――。僕……一緒にいたいんだ」
ほっほっほ、と、腕を解いて祖父が笑った。
「惚れたか――そこはの、どうにかがんばれ。なあに、お前の正体は黙っといてやる。あっちに戻るのは危険かもしれん。アリアンヌも警戒しとったしな。
しかし、黒豹でよかったのう、人だとバレていたら間違いなく逃げられておったぞ」
そこまで話すと祖父はマリーの方を向いた。
「こういうわけでの、こいつは行方不明のうちの末っ子じゃ。
死にかけておるとわかってもうダメかと思ったんじゃが、昨日の朝急にもちなおしてな、ほっとしたら今度はエリザベスが死にかけておるとわかって、それがまた落ちついた。いったい何がどうなったかと思っておったところに使い魔が戻ってきて、エリザベスが妙な黒猫を拾ったと報告した。それで見に来たんじゃよ」
「使い魔? そうだ、祖父ちゃん、アレ、どうなったんだ? アレで僕が危ないってわかったんだろ?」
トリスタンは祖父の部屋に並んだ不思議なガラス瓶を思い浮かべた。
ガラス瓶の中には水が入っていて、その中には名前の書かれた玉が浮かんでいる。その玉が沈めば沈むほど、名前の当人の体調は悪く、沈み切った時に死ぬのだと聞いている。
祖父はそれを血縁者全員分持っていて、自室に並べている――叔母の玉が沈み始めた時は、祖父も祖母もとても辛そうだった。ついに沈み切った時は何日も部屋に籠っていた。
「そうじゃ。まず水が青くなって凍えとるのがわかった。それから赤くなって熱があるのがわかった。昨日の朝には灰色に――玉もどんどん下がってきて、もうダメだと思ったぞ。それが一瞬で水が澄んで、玉がポンと浮かびよってな。ほっとした時にはエリザベスの玉が半分以下に沈んどったんじゃ。色は変わっとらんかったし、じきに浮いて来よったが、ああいうのは実に心臓に悪い」
じろりと睨まれたけれど、本当に怒っているわけではないのはわかったので、気にしないことにした。
「父さんは?」
「元気ならよいと」
「あっちの祖父ちゃんは?」
「そこそこでかくなるまで隠れておればいいと」
「じゃあ、僕――ここにいてもいい?」
「まあ、そういうことになるじゃろう――というわけで、マリー?」
やった! と拳を握るトリスタンにちょっと呆れた顔をして、祖父は侍女に話しかけた。
「はい」
「こいつの勉強もエリザベスと同じように頼む。一通りやっとるし、覚えは早いから、厳しくな。費用の請求は全部わしに回せ。服も常に一式そろえておくように。頼むぞ」
「かしこまりました」
マリーが頭を下げる。
「トリスタン」
「なに?」
「困ったときはマリーに相談しろ。それから、エリザベスに負けるなよ」
「う」
返事に詰まった。
「なんじゃ、勉強では既に負けておるのはわかっておるぞ。魔法では勝っとるのじゃ、挽回しろ。男じゃろ」
「……祖父ちゃん」
「うん?」
「掛け算が、違う」
「うん?」
「やり方が違う。速さが全然違う。エリザベスはどうやってあの速さで――」
「それなら、九×九までを暗記していらっしゃるせいです。それができるととても楽になるのだそうで……ちょうどアリアンヌ様が練習を始めるところですから、一緒に覚えるとよろしいかと思います」
マリーがにっこり笑ってそう教えてくれた。
なんと、暗記していたのか――だけど。
「九×九までを、全部?」
「はい」
ちょっとひるんだトリスタンを見てマリーは笑顔を作った。
「大丈夫です、掛け算はひっくり返しても答えが同じになるのでそこまで大変ではありません。アリアンヌ様もやる気はあるようですが、六歳なのですからまだ早い、とエリザベス様はおっしゃっていました」
「六歳は早い……ならエリザベスはいつ覚えたの? 最近?」
祖父が肩をすくめ、マリーが困った顔になった。
「そこじゃよ。あの子は特別での――前世の記憶がある、というのじゃ。時々妙な考え方をするし、話し方も子どもらしくない。お前も大概変わっとるが、お前とは違う――あの子は前世の記憶を利用しておるのだそうだ」
は? それ、妄想じゃ……。
トリスタンの心の声に、祖父が首を振る。
「否定できんのじゃよ。話せば話すほど。そのあたりは自分で判断するといい。それから、エリザベスに魔法を使わせるな。ただでさえ白魔法と黒魔法の常駐者というのは珍しい――しかも白魔法よりの使い手としてうまく隠さねばならん。バレたらお前たちに将来はないぞ」
ギクリと動きがとまった。
確かに白魔法の使い手は少ないし、貧乏男爵家のお嫁さんにはもったいなさすぎる。
でも、祖父の言い方だと『それだけではない』みたいだ。
「トリスタン。あの子を国外に出すわけにはいかん。この先何があってもじゃ。お前はそのための布石の一つになり得る――すでに王太子はあの子の中で『対象外』として拒否されとるし、同じ年頃の身分の高い少年たちもことごとく『対象外』――つなぎ止める要素が少なすぎる。お前も本人ならアウトじゃが、黒豹の爪が引っかかってギリギリぶら下がっとる状態じゃ」
祖父は大きなため息を吐いた。
「それから、その黒豹だが――簡単には戻らんように追加の呪文をかける。夜だけは戻りやすいようにしておいてやるから、魔法の練習は夜の間にこっそりとな――くれぐれも誰にも気づかれんようにやれよ?」
それはありがたかった。
覚えたばかりのトリスタンの魔術は、疑われて逆戻りの呪文でもかけられたらあっという間に元に戻るような心もとないものだ。
「いいか。お前、心してかかれよ。学院にあがればエリザベスの白魔法のことは隠せん。争奪戦になるだろう――つけられた名に恥じぬ働きをしろ」
?
首をかしげたトリスタンに祖父がこっそりと耳打ちをした。
「ナイト、には夜ではない意味がある。……己の姫を守る騎士のことじゃ。お前の姫は、決まったのじゃろう?」




