215. 再び王都
「お祖父様! お変わりありませんか――会いたかったです」
パートリッジ家の客間で祖父がいつもの魔術を使った直後、エリザベスはアーノルドの側に駆け寄った。
トリスタンの後ろには心得た無表情のウーリッヒと俯いたレイラ(さすがに黒豹というわけにはいかないので侍女仕様。前に出ず、目を伏せてひたすら黙っていることがコツだ、と言われて何度も頷いていた)――その両手の上にロゼッタ(こっちは栗鼠で、あくまでもエリザベスのペットに徹するつもりらしい)。
一瞬で尊大な表情が消え、目を細めた好々爺と化した祖父がエリザベスを軽く抱きしめて笑う。
「これはまた――元気そうじゃのう。なによりじゃ、なによりじゃ――腰回りは増えとらんが」
そう言ってじろりと睨むのはトリスタンの方だ。
トリスタンがささっと視線を床に向けた――ら。
「お祖父様! またそんなことを――でも、次に来るときまでにはいいお知らせを持って来られるかも――だからもうそんなことはおっしゃらないでください。さもないとひ孫を抱きそこねますわよ?」
え。
ぱっとあげたトリスタンの視線の先では、きつめの言葉とは裏腹にエリザベスが祖父にやわらかく笑いかけていて、そのエリザベスを見て祖父がゆるやかに頷く。
「つまり醜聞と――ウィリアムとキャサリンのことを気にしておったのか? それとも子どもと自分たちの年齢のことか? まったく――お前たちは二人とも――いや、そういうところがお前たちらしい、んじゃろうな」
祖父が首を振りながら言って、また目を細めた。ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「ひ孫ならわんさかできそうじゃわい。リュカの式がこの秋じゃというのは聞いておるな? ステファンはゆっくり、と言っとるがディミトリがこの夏に婚約式――ミモレットはまだ若い――式はまだ先じゃが、婚約式が済み次第入り婿扱いで引っ越すと言っとる。実に慌ただしいことじゃ。
アントニーとリリアナはどちらも家を出て別に家を持ちたいと――『継がん』と言ったわけではないが、もっとこぢんまりとした暮らしがいいとか何とか――ボーンブリッジ伯爵家が大慌てじゃ。
そうそう、うちとは直接の関りはないが、トゥルクロウ公爵家の長女クレアとジョナサンもな、クレアが二十歳になる前に式を挙げると言っとるぞ――つまり、これからは『田舎で休養』する奥方も増えるじゃろう――それにアリアンヌもじゃな」
エリザベスのもう一人の妹、アリアンヌの挙式はこの夏の終わりだ。
既に国際政策部はほぼユージーンが取り仕切っている様子だし、アリアンヌももう十六歳になったから、結婚するのに待つ必要はない――それにユージーンは三十歳間近。たぶん子どもは――早く欲しいだろう。
自分たちも――うん。賑やかな生活は楽しい、ってわかったし、助けてくれる人たちにも囲まれているし。
「長旅じゃったんじゃ、まずは休め」
そう言ってからにこやかな笑顔を消した祖父が魔法を解除する。
コルセットのせいで普段より細いエリザベスの腰をそっと抱いて割り当てられた客室に向かう。
うん、そうだな。次にここに来るときは――って、よく考えたらそれ、アリアンヌの挙式じゃないのか? それはもうすぐだからたぶん無理――だと思うけど。がんばれって――? まさか、それはないよな。
ちょっと困惑しながら客室に引っ込んだ。
「トリスタンとエリーのお祖父様ってすごく――変わってる。シュヘルのお祖父様もすごく怖いのに、こっちのお祖父様も負けてない――むしろ表情に出ないからわかりにくくて凄みが――あの人、いったい何?」
部屋に入ってすぐにレイラが言って、ロゼッタが頷いた。
なぜか二人とも顔が引きつっているような。
「私、『なんじゃ、人か』って耳元で言われたわ――あの声、絶対聞き間違いじゃないと思う。あの距離でどうやって――口も動いてなかったのに」
ロゼッタがレイラの手の中でぶるりと震えた。
「あたしも。『変わるなよ。狩られるぞ』って言われた」
なんと――。
エリザベスが首を振る。
「魔法よ。大丈夫――アーノルドお祖父様は怖くないわ。前からそうなの。初対面の人をからかうのがすごく好きで――お茶目なのよ」
「ああ、こっちのジジイは割と――」そこで「怖くないぞ」、と続けようとした言葉を引っ込めた。『罪人奴隷用の輪を嵌めてから国外に追い出し、逃亡奴隷にした』のは、怖くない、とは言えないかもしれない。「――良識はあるぞ」と、言い換える。
「絶対嘘、でしょ? あれが怖くないわけない――良識についてはわからないわよ。あれは笑顔のままで怖いことができる人――だって尻尾が戻らないもの」
ロゼッタが耳をピンと立てて目を左右に走らせた。周囲の気配を窺っている――確かに尻尾もずいぶん太い。
そういうところ、うちのジジイたちは確かに性質が悪い。
最初に権力や財力、今回みたいに魔法力のこともある――などを見せつけて脅しておくのが、揉めることなく簡単に優位に立てるやり方だってことはわかるけど。
あの二人を前にしてまったくビビらないのはエリザベスだけだ。
たぶん、国王でさえもジジイズの前では(内心では)一歩引くところがあるんじゃないかと思う。
祖父がアーノルド・フォートワース・ド・パートリッジの名前にある通りの『ド』を賜ったのは飾りじゃないし、シュヘルの祖父ホルストに至っては、たとえ贈ると言われても「そんな邪魔なもんはいらん」と、一顧だにしないだろうことが容易に想像できる。
まったく、頼りにはなるが困ったジジイたちなのだ。
「なんにせよ、パートリッジ家の中は安全だし安心していいよ――他の使用人たちの目があるから、当面の振る舞い方だけは気をつけて。近いうちに俺もリジーも晴れて自由の身になるから、その後でならちょっと緩んでもいいけど。
すぐに帰るってわけにはいかないからレイラたちも暇になるだろうし、せっかくだからウィリアム達の結婚式が終わったらロゼッタと仲良く観光でもしたらいい――混んでいるだろうから気をつけて。ウーリッヒが連れてってくれる。だろ?」
今回も王都に入ってからはしっかり公爵家の従僕仕様になって、時には尊大に、時には威圧的にふるまって余計なトラブルを避けてくれたウーリッヒに目を向ける。
「自分はできればお二人と一緒に――」
「ここから先の順番はなかなか来ないぞ? 身分以外を理由に見下されることはなくなるから、夏のアリアンヌの式の時に誰を連れてくるかはじゃんけんだ。兄たちの式には、おそらく俺は呼ばれない」
「え!?」
驚いた顔のウーリッヒに笑う。
「俺もリジーも冠婚葬祭以外で王都に出て来ることはないし、冠婚葬祭でさえ無理かも――たとえ来られたとしてもいつまでか――こんなふうにシュヘル領を離れられるのはジジイが元気でいる間だけだ。ダンジョンのことがあるからあの土地は領主不在にはできないんだよ」
自分が幼少以来祖父に会ったことがなかったのはおそらくそのせいだ。
「これからは来客が増えそうだし、領地に客やリジーを置いて俺が出るわけにはいかないし、逆も――無理」
独占欲が強くて悪いけど、エリザベスを一人で王都に行かせるなんて、絶対したくない。
「それに、この二人と行くなら信頼できるやつじゃないと――だからウーリッヒ、頼む」
祖父の下で学んだウーリッヒが公爵家の護衛用魔術具の使い方を知らないはずがない。
「ああ――レイラちゃん、美人だから? もしかしてロゼッタちゃんも美人だったりする?」
ちょっと期待する顔になったウーリッヒを見てエリザベスが笑う。
「もちろん美人だけど、どちらか一人だって何かあったら極刑じゃ済まないわ――他の人になんて頼めない」
ウーリッヒは今度は引きつった顔になった。口調は軽くても内容は重いし、エリザベスはそういうところで冗談は言わない性質だから。
「承りました――」
踵を揃えてきっちり従僕モードに切り替えたウーリッヒが恭しく上半身を折ってみせるとエリザベスが苦笑してからこちらも尊大に頷いた。
「では、ウーリッヒ。頼みたいことがあります」
「心得ております。領地の方々へのお土産、ですね?」
軽く腰を折って答える様子は、どう見てもしつけの行き届いた公爵家の従僕だ。
またエリザベスが苦笑する。
「ええそうなの。お酒もいくつか見繕ってちょうだい――だけど支払い額は考えてもらわないと――」
「奥様――私がシュヘル家に仕える限り、購入物の支払いに関してはアーノルド公が全て持つ、と言われております。アーノルド様がお亡くなりになった場合はローランド様が引き継ぐそうです」
「父が?」
意外な言葉にトリスタンが聞いた。
自分たちに甘い祖父はともかく、父がそんなことを言うとは思っていなかった。
「ダンジョン素材の供給に感謝するという建前で――そうでもしないとソフィア様に顔向けができないとのことです。奥様が無駄遣いするタイプではないことも功を奏している様子でした――では私は明日以降の流れを確認してまいりますので」
出て行くウーリッヒの後ろ姿を見送ったエリザベスが素に戻り、「パートリッジ家の家政婦長の教えは偉大ね……倹約は主婦の基本。よっしゃ」と拳を握り、「汚名が消えたらあの二人には絶対お礼に行かないと」と嬉しそうに呟いた。
ホント、いい奥さんだ。
「そのときは俺も行くよ」
「え?」
「俺が毎日幸せに暮らしてるのはリジーのおかげだし、それはあの二人の手腕に頼ってるみたいだし――一番恩恵にあずかってるのは俺だから」
それに、エリザベスが俺を落とすためにあの二人に家事と料理を習ったのなら、逆にエリザベスを落とす方法で俺ができることがないかどうか――あるなら、こっそり伝授してもらいたい。




