208. エリック、戻る
ナイジェルたちは家に帰ったらしい。ロイド一家も言っていた通り部屋に戻ったらしく、外にはいなかった。
一応カイルには応接室の外に出てもらってレイラを呼び、周囲に他の人間の気配がないことを確認する。
エリックが黒豹のレイラとエリザベスの手をかわいい手で握って、エリザベスのもう片方の手をトリスタンが握った。
その解呪でトリスタンが感じたのは――いつもの安心感や幸福感ではなかった。
山盛りの心配と不安と祈りの気持ち――そう、大切な子どもを遠くに送り出す親みたいな。それか親と離れる子どもみたいな、心細さ。
もうずいぶん長い間思い出していなかった自分の母親のことを思い出す――美人だったはずの顔は既におぼろげだけど、最後の時まで笑顔だった。けれど、その内心はどんなに心配だっただろう――しかもあの時トリスタンが逃げられたのは、肉食の鷹に餌として捕まえられたからだった。
……ちょっと泣きたくなった。
無事大人に戻ったエリックはかなりすっきりした顔をしてはいたけれど、「本当に母親が増えたみたいだな」と、一言呟いて、困ったように笑った。
ということはやっぱり、トリスタンがこの解呪で受けた感覚は親心か――心細さで合っていたんだろう。
エリザベスは半泣きの笑顔で――「すぐに行くの?」と聞いた。
それからずっと「必ず元気で戻ってきてね。無茶はしないで」のくり返し。
見かねたレイラがエリザベスの手を取って「あたしがいるから大丈夫よ」って言ったらちょっと治まった。どうやらエリザベスがかなり心配していて不安だってことは、エリックと手を繋いでいたレイラにも伝わったらしい。
「なんだかすごく寂しいの――」
「大丈夫よ。ほら、トリスタンもいるもの。トリスタンはどこにも行かない、でしょう?」
「……そう――そうなんだけど、それはまた別みたい」
エリザベスはなぜかちょっとためらって答えて、静かに俯いた。
エリックが「レイラ――ちょっと話したいんだけどいいか?」と聞くと、レイラはわずかに眉を寄せた後で頷いた。
それからキッチンで待つこと数分。
エリザベスは少しだけ疲れた顔をしていたけれど、「エリックが帰るなら、ちゃんと送り出したいから」と、眠らずにがんばっていて、出てきた二人を見た途端にまた半泣きになった。
「エリー、あたしは行かないから――」
エリザベスに駆け寄ったレイラが慌ててそう言って、エリックが安心させるように頷くと、なぜか本格的に泣き始めた。
「なに――エリー、まさか一緒に行って欲しかったの!?」
かなりショックな顔でレイラが言うと、エリザベスはとりあえず勢い良くかぶりを振った。
「行って欲しくない――だけど、それが私のせいなら――行っていいのよ? 寂しいけど、ちゃんと、待ってるから――遊びに来て――くれるでしょう?」
そう言いながらも、ポロポロ涙が落ちる。
「行かないわ。ちゃんと考えて決めたんだから――それにエリックはいろいろきちんとしたらまた戻って来るって言ってるから、泣かなくていいのよ?」
「……戻ってくるの?」
「そう。戻ってきたら、そのときはちゃんと――ゆっくり考えればいいんだし。でしょう?」
これじゃ、どっちが親でどっちが娘かわからないな――もともと、歳も二歳しか違わないし。
レイラが笑って抱きしめてやると、エリザベスはやっと半泣き状態に戻った。
「エリック、ちゃんと戻ってきてね? 待ってるから――絶対戻ってきてね?」
それでも何度もそう繰り返す。
なんだろう、これ。
心配なのはわかるけどちょっと腹が立つな――そういうやつじゃないのはわかるんだけど。
「努力するよ――レイラ、エリーを頼むな。それにロゼッタのことも――迷惑をかけるが。ちょっとおせっかいなところはあるがいい子だ。それから、トリスタン。絶対エリーを離すなよ」
さらにムッとしながら当然だとばかりに頷いたトリスタンの横でレイラが苦笑した。
それでもまたエリザベスが繰り返す。
「絶対よ? 戻って来なかったらレイラなんて――絶対他の人に取られちゃうんだから――こんなにかわいいんだから。絶対よ? いつまでも待っててくれたりしないわよ?」
縋りつきそうな勢いで――引き止めてるわけじゃないけど――戻ってくることを勧めている。
娘の夫としてはダメだって言ってたのに、実際は随分と気に入っていたみたいだ。
「エリー? あたし、そんなに浮気性じゃないし、そもそも別に結婚の約束とかしてないわよ?」
「だけど――エリックが戻って来なかったら、絶対誰か他の人に目をつけられちゃうもの――ダメよ、そんなの」
「大丈夫よ。あたし家の外では黒豹なのよ? 黒豹を好きになるような人間はさすがにいないわ」
「そうだけど――」
「わかってるよ。エリー、ちゃんと戻って来る。だから、それまでレイラに余計な虫がつかないように見張っててくれ」
こっちもなんか、息子っていうよりは父親か兄貴って感じになったように見えるな。まあ、エリザベスの方が十歳近く若いし。
「がんばるけど――」
「じゃ、エリーはちょっと手を貸して――レイラ――悪いけど、人に変わってくれる? 俺は黒豹で帰るから」
「?」
「黒豹同士の時が一番危険だから――頼むよ」
首を傾げたレイラにそう理由を説明してエリザベスの片手を取る――エリックがほっと小さく息を吐いたのは、やっぱり大人の黒豹でレイラに会うのはかなり大変だってことなんだろう。
人に変わったレイラの頬は真っ赤で――その辺りの事情も聴いたらしい――エリックはちょっと残念そうな顔になってレイラのその頬をひと撫ですると、その場で黒豹に変わってすぐに背を向けた。
雪の中を音もなく去っていく黒豹とその上空を飛んでいくミミズクはあっという間に見えなくなる。
「一人で上に戻りたくないの」
解呪で疲れているだろうにそう言ってその場に立ち尽くしたエリザベスは本当に寂しそうで、応接室のソファに並んで座って肩を抱くと、ほっと息を吐いてそのまま静かに目を閉じた。
レイラも反対側に座って手を握る。
眠ったわけではないのはわかる。
呼吸も、流れていく魔力の流れも不規則で、不安定――たぶん心理的にガタガタ――エリザベスが解呪の魔法を使った後でこんなふうになったことはこれまでなかったのに。
エリックがいなくなったことがそんなに寂しいのか――そう思った途端にエリザベスの身体がびくりと震え、レイラもその動きにつられて警戒するように黒豹に戻った。
エリザベスの驚いた顔に、流れ込む魔力の中に自分のざらついた気持ちが混ざったことに気がついた。
「――ごめん。ちょっと、あいつに嫉妬した」
今更取り繕うわけにもいかなくて、正直に言う。
エリザベスは不思議そうな顔をしてトリスタンを見上げた。
「あいつに? ……エリック?」
全く心当たりのなさそうな顔は――なんでだ。
「そう。そんなにエリックがいなくなるのが嫌だったのかと思って」
「……違う、わ」
否定の言葉と、ちょっと怒ったような声に、自分の眉が寄ったのがわかる。これだけ動揺しているのに、違うわけがないじゃないか――。
エリザベスがゆっくりと俯いたのは、やっぱり疚しいところがあるせいなのか?
「リジー?」
膝の上できゅっと握ったエリザベスの手を見たせいで、問いかけるトリスタンの声も揺れた。




