201. 発情期
「まったく――ちょっとくらい嫉妬するとか、わめくとか叫ぶとか怒るとか、ないのか? 見境なく噛みついた自分が情けなくなる」
呟いてすとんとベッドから飛び降りたエリックは、足音を立てずに戸口に向かった。
黒豹のまま背伸びをして、そっとドアを開けようとした時、背後から声が届いた。
「手、出してないよな?」
まだ眠っていなかったのか――。
眠そうだけど、ちょっと怒ってるような声に聞こえた。
振り向いても、声の主が動く様子はない。
「お前は?」
「――出すと思うのか?」
やっぱり怒ってる声――それが聞けて、ちょっとすっきりした。
「今は思わないよ。トリスタン――これまでのことも、昨夜のことも、本当に悪かった――『発情期』だったみたいで」
「……は?」
驚いた声とともに、トリスタンが起きあがってこっちを見た。
左肩に血の跡はあるけれど怪我はすっかり癒えたようだ。さすが、エリザベスに溺愛されているだけある。
それにしても、眠っていても癒すとは――呪いも解けるって言っていたし、彼女は本当に不思議な白魔法使いだ。
「聞こえただろ? ――悪かったよ。理性でどうこうしようなんて、できるわけがなかったんだ」
トリスタンはちょっと呆れたような顔になった。声もそうだ。
「そんなのまであるのか? お前のことは本当に人じゃないと思った方がいいな――その姿は? それになんでここにいるんだよ?」
なんでここに、のところでまた声に怒りが混ざったのは当然だと思う。
ここはトリスタンとエリザベスの寝室なんだから。
その声を聞いてまたちょっと溜飲が下がるのは――まあ、しかたないか。
「発情期については俺も知らなかったんだ。なんで理性的にものを考えられなくなるのか全然わからなくて――今までは女性が、つまりそこまで気を引かれるような雌が近くにいなかったせいでそういうやつがなかったんだよ。
だけど昨夜のあれは酷かっただろう? それでエリーが思い当って――他の猫科の動物にそういうやつがいるって話をしてくれた――エリーは本当に博識だよな。で、理由がわかったから、当面は大丈夫なように、ってシュヘルの祖父さんが変えてくれたんだ。別にここまで若返らせなくたって、って思ったんだけど、あの祖父さんマジで容赦なくて。確かに俺のやったことも酷かったけど、お前たちの近くにいるつもりなら五歳以下じゃないと許さん、って」
昨夜、エリザベスに連れられて離れの玄関扉を叩いたときの、自分とエリザベスの繋いだ手を見たあの顔を思い出しただけでゾッとする。
「俺がレイラを好きなのは変わってない。嫉妬はまあ、ちょっとはするけど、イライラは見事に治まったよ。爪にも牙にも威力はないし。
この部屋にいるのは――お前たちのところに飛び込まないように――それに寂しかったからだよ。それに、こんな子どもの黒豹でも、エリーと一緒に寝てたらお前も――少しは俺たちの昨日の心境を感じるかと思って。つまり俺としては意趣返しのつもりもあった。
ああ、エリーは違うぞ? 急に子どもにされて落ちつかない俺を心配してくれただけだ。それに俺もエリーも昨夜はお互いフラれた感じで――本当に、かなり辛かったんだよ。そこは間違いない」
昨夜のトリスタンとレイラの様子を思い出してついムッとした声が出た。
さすがにもう喉笛に食らいつきたいとは思わないけれど、ほぼ落ち着いたとはいっても、やっぱりそれなりに嫉妬はする。昨日みたいに抱きしめたりしているところは、それがたとえ友人同士のような軽いものでも見たくないし腹立たしい。
それに――。
昨日自分が感じたあの不安はエリザベスのものだろう。
どこにも行き場がなくて、酷く心細くて、迷子の子どもみたいな――足もとから大地が消えてしまうような不安に、次々と勝手に出て来る涙をどうしても止めることができなかった。
自分が泣いたことや、その後の超若返りの呪いのおかげで、エリザベス自身はずいぶん落ちついたように見えたけれど、あんな気持ちを抱えた彼女を一人で部屋に帰すなんてできなかった――そう思ったからこそ、断られることも覚悟で一緒に寝てもいいかと聞いたのだ。
不適切だってことくらいわかっていた。
それでも言わずにはいられなかったし、エリザベスも断らなかったってことは、やはりそれだけ辛かったのだろう。
昨夜のことを思い返す。
理性の通用しないイライラが消えてしまえば、それだけでもわかることはたくさんあった。
あんなに辛い気持ちを抱えていたのに、それでもエリザベスが一人でレイラの部屋から出てきたのは――トリスタンをちゃんと信じているからだ。
心から想われているって、こいつはわかっているのだろうか。
わかっているなら――俺だったら絶対他の女の部屋で寝たりなんかしない――って、そこはたぶん、俺が酷い怪我をさせてしまったせいだとわかるだけに、きつく言えないのが辛い。俺のせいだ。
「俺のが自業自得だってのはわかってる。
昨夜、っていうか、もう今日だったと思うけど、『これはなんとかしないとダメだな』ってなってから――エリーは、夜中だっていうのにあの祖父さんのところまで一緒に行ってくれたんだ。叩き起こされて不機嫌な祖父さんを説得してくれた――」
頷いてそのまままた布団にもぐり込もうとしたトリスタンに、どうしても一言言わずにはいられなかった。
「トリスタン。俺やレイラのためだったのはわかってる。だけどもう二度とやるな」
昨晩エリザベスが抱えていた、あの気持ちは、辛すぎる。
「好きでやったわけじゃない。どっちかと言えば迷惑だった――何をされても俺はレイラを『捕まえたりしない』って、わかってもらうのにはあれが手っ取り早かったからだ。言っとくが、お前が(・・・)怖がらせたせいだぞ?」
トリスタンの声に怒りがある。
そしてその通りだ。
自分に怒る資格はない――もう。
「わかってる――本当に申し訳なかった。今さらこんなふうに見た目を変えてもらったって、既にフラれたも同然だよな――望みがないって身に染みたら、エリーに解呪してもらって国に帰るよ」
自分のやったことを思えば、長々としたため息が出たのは仕方ない。
初恋は嵐の前の散りかけた花びらだ。
「ゆっくり休んでくれ。仕事も――休むって連絡しとく――俺のせいだし」
心から申し訳ない気持ちで言って扉を開け、部屋の外に出たら、閉めようとした扉の隙間から声が聞こえた。
「エリック」
小さな声、一拍空いてからため息。
その後で追加が。
「『嫌だったわけじゃない』って言ってたよ。慣れてないから驚いて怯えただけだ。がんばれ」
伏せ気味だった耳がピン、と立った。
扉の隙間からまた声がしたけれど、それは自分に聞かせるための言葉ではない。
「……本当にもう――娘だけじゃなくて手がかかる息子までできたのか? 俺、まだ十七歳なんだぞ……」
疲れて眠そうな声。またちょっと泣きたくなった。
――そっと扉を閉める。
「……自分より十近くも若い父ちゃんかよ」
扉に向かって呟いて身をひるがえした。小走りで下に向かう背中の後ろで――長い尻尾がまっすぐに立って、頬が緩む。
お詫びのしるしに――朝食でも作ろうか。
食べる人がどれだけいるかは疑問だけど。
~~~~~~
「エリック~! これ、この羽のやつはどう?」
「こっち! このロープの方がいいと思う!」
「だけどボールならロランも一緒に遊べる――」
……シュヘル邸の応接室が一気に賑やかになった。
遊び盛りの仔犬に加えて、子猫(豹だけど)まで。
リディアもまた入り浸ってるし、女性陣は大喜びなんだけど。
「ちょっと――エリックは俺と仕事に行く時間――」
「え~! 働く必要ないじゃない。五歳よ?」
「中身は二十六歳……」
「体力は五歳よ?」
「疲れたらちゃんと休めるようにバスケットを準備してあるしソファもある。住民ギルドでの仕事は知力がいるんだよ――学校の運営の仕方とか――」
「え~。そんな小難しそうなことをさせるの? 五歳よ?」
「だって中身は二十六……」
「そんな難しそうな仕事じゃなくて、エリーの診療所の招き猫をやってればいいじゃない――それなら私も遊べるし」
「だけどロランと遊んでくれた方が庭仕事が捗るってサラが――」
「冬なんだからサラも外に行かないで中にいればいいのに――」
かしましい。
賑やかさに負けないように大きく息を吸って、きっぱりと言う。
「今日のエリックは、午前中がギルド、午後はレイラとロランと庭だ! リディアはダンジョン、リジーは家で錬成! レイラかリジー、どっちかお昼にエリックの迎えに――こら! ほら、行くぞエリック――やめろ、遊ぶなって! リディア、その羽が付いたやつをエリックに見せるな――振るなよ! エリックもいい加減に――いや、そういうヤツを見ると抗えないのはわかるけど、今疲れたら仕事にならないだろ。
サラ、頼む、ロランを押さえてて――ほら、エリック――痛っ! 爪を立てるな――こら! 暴れるなって――その羽が付いたやつはお前にやるから――リジー? リジー! こっちに来てエリックを捕まえて――この勢いで遊ばれたら絶対こいつ着いた途端にギルドで寝る――」
猫じゃらしを手にしたリディアに睨まれるし。
ロランも泣き顔でエリックに手を伸ばすし。
レイラが苦笑して、リディアの手の中の獲物を狙うエリックの背中を前足で押さえつけ、その後で首の後ろを咥えて引きずって行く――向かうのはエリザベスのところだ。
「ありがとうレイラ――エリック、暴れないで――それにロランにつき合って朝からがんばる必要はないのよ? ロランはいつだってお昼寝タイムにできるんだし、午後は一緒に遊ぶって約束したんだから」
エリザベスが両手で抱きあげると、それまでが嘘のようにおとなしくなったチビ黒豹が耳を伏せた。
いつもこうだ。
エリザベスが触ると急に静かになるのは『満ち足りた感じ』になるせいらしいけど、『眠くなりやすい』のが困りもの――ここに来たときのロランもそうだった。
エリザベスにのぞき込むように顔を見られて、チビ黒豹がきまり悪そうに視線を逸らす。
「大丈夫よ。このくらいならすぐ治るし叩き出したりしないわ」
エリックを捕まえようとして引っ掻かれたトリスタンの頬をエリザベスが撫でる。
そんなに酷くなかったはずだけど、ピリッとした痛みはたちどころに消えた。
そこに呆れたようなレイラの声。
「違うのよエリー、あたしたちが動くロープの先っぽを見ると我慢できないたちなのは確かだけど、エリックはかなり楽しんでるんだと思う。だから申し訳なく思って当然なの」
言われたエリックがレイラを睨む。
「……確かに楽しいけど、一度興奮すると落ち着きにくいんだよ。引っ掻くつもりはなかった――それに俺が五歳の頃はまだカイルも生まれていなかったし、遊び相手がいなかったから――やっと遊べるようになったんだし、こいつには兄弟もいないし――個人差があるとはいえ亜人なんだから小さいうちは人より成長が早いはずだし、今遊ばないとあっという間に大きくなるかも――」
「ね? ほぼ本人の意思」
そんなやり取りに、エリザベスが片方の眉を挙げてから仕方ないって感じで笑う。
「エリック。一緒に帰れるようにお昼前に寄るから、ギルドの紙や紐で遊ばないようにね。トリスタン、よく見てやってね――時々すごく落ち着きがなくなるし、もともとの本人と違ってかなり悪戯っ子みたいだから」
レイラも笑って、「早めに帰ってきてあげてね?」とエリックに頼んだ。
「まかせろ。すぐ帰って来る」
っていうエリックの返事がやけにきっぱりしていて、ギルドから逃げられそうな気分になる。
五歳児の体力を考慮しての半日勤務なのに、脱走されてはたまらない。
ダンジョンに向かうリディアとナイジェルと一緒にシュヘル邸を出て、ギルド前でエリックとトリスタンが二人と別れる。
「エリーはいいな~、あの子たちが遊ぶところ、私も見たい。凄く楽しそうなんだもの」
リディアがそう言ってから「エリック、小さいのにお疲れさま。トリスタンもお仕事頑張ってね」と手を振った。
なんか――本当に子連れで出勤する父親の気分だ……その割にげんなりしてるけど。
だって、さあ。
「なあ『父ちゃん』、校舎にする建物だけど、温泉の組み出しがうまくいってないから、工事が止まってる今のうちにちゃんとしたやつを建てたらどうかって意見が――」
「『ぼうず』学費が無料って、経費と教師の給料は税金から出すのか?」
「格安でここに来てくれる教師に当てはないのか『父ちゃん』」
「『ぼうず』、学科は二教科――算術と言語。あと実技科目が体術と技術――四つでいいのか? 全員に全部やらせるのか?」
「それで『父ちゃん』、教科書の手配はどうする――お薦めはあるか?」
「『ぼうず』のところでは普通は何歳からなんだ? え? 七歳か八歳? ずいぶん早い――いや、そういえば工業ギルドに親がいる子たちはもう手仕事をしてる年齢だもんな」
「『父ちゃん』は学院に入る前は家庭教師がついてたんだろ? 何歳から――は? 五歳? うわ、大変だなそれ――」
「あ、ほら『母ちゃん』が来たぞ『ぼうず』――よかったな、『姉ちゃん』付きだ。また明日な」
『ボス』も大概だったけど、これも酷いと思うんだよ。




