2. 父親の裏側を知る
エリザベスがいつも「そっくりだ」とよく言われる美人の母親、メアリーアンが亡くなって今日で一年と三日。
気持ちのいい初夏の一日が始まりそうな日。
そんな今日は、一年の服喪期間が明けた父が、仕事柄出張の多い自分の留守を任せるため、また『まだ小さい二人の娘、エリザベスとアリアンヌのために』新しく母親となる人を家に連れてくる日だ。
継母の登場――これはゲームのシナリオ通りといえそうな状態だけれど、エリザベスはたいして取り乱すこともなく、軽く緊張してはいたもののむしろ歓迎する気持ちでいた。
それには理由がある。
身分が高い男性なら第二夫人や第三夫人を置く場合も多い中、エリザベスの父親ジークフリートはそうしていなかったのだ。これまで父親の周辺にはエリザベスとアリアンヌの母親メアリーアン以外の女性の存在はなく、当然異母妹もいない。再婚の話だってきちんと服喪期間が明けるまで一切なかった。
貴族にしては珍しいことだけれど、妻のことをちゃんと大事にしていたのだと思う。政略結婚だったにしては夫婦仲もよかったのかも――その辺りは詳しくはわからないけれど、父親に向ける母親の笑みはいつも優しかったと思う。
わたしだって、ちゃんと大事にされている、よね。
侍女だけでなくマナーの教師もつけてくれたこともそうだ。父親が二人の娘をしっかり育てられるようにきちんと考えているからこその手配だと思う。
もちろんエリザベスも妹のアリアンヌもマナーの勉強をしたかったわけではなかったけれど。
アリアンヌにもメッシーという侍女がいて、エリザベスに対するマリーのように、世話をし、勉強も教えてくれている。
それにジークフリートは、今回再婚するのは『まだ幼い二人の娘を助けるため』だとはっきり言った。
両親に子どもは二人、エリザベスと妹のアリアンヌだけで、跡取りとなることが多い男の子には恵まれなかった。
それは残念なことなのかもしれないけれど、エリザベスはジークフリートが穏やかな声でメアリーアンに『公爵家のことは、娘の誰かが婿をとればいいのだし、よさそうな男の子が見つかれば養子として迎えてもいいのだから心配しなくていい』と、そう言ったのを何度も聞いていた。
今のところそちら方面には何の話もないけれど、ゲームの通りになるならば将来のエリザベスは王太子に嫁ぐことが決まり、家はアリアンヌが他家から婿を取って継ぐという話になるはずだ。
――ゲームではその後逆転劇が起こってエリザベスの立場は新しい母親が産んだ末の妹のキャサリンに取って代わられるのだけれど。
身分的にも年齢的にも、エリザベスが王太子の婚約相手になることはじゅうぶんあり得ることで――王太子の年齢が一学年上だということは父親の話で知っていたし、その話をしていた時の父親は「おそらく私の娘は有力な婚約者候補になるだろう」とも言っていた。
父親にとっては申し分のない将来だと思う。どちらの娘も欠けてはならない。
大事なはずよ。
それに、何よりエリザベスの一番の気がかりになる、『ヒロイン』の異母妹『キャサリン』が未だにこの世界に登場していない。
それはものすごく大きな違い。
ゲームとまったく違っている。今、エリザベスが義母となる人を快く歓迎できる一番の理由はそれだった。
ゲームでは、キャサリンはアリアンヌと同学年だったもの。
いまや前世の記憶持ちとなったエリザベスだ。この人生がゲームのシナリオ通りに進むなら、どうせ破棄される婚約なんてしたくないし、自分が家を継ぐのも――思い出してしまった『記憶』にあるゲームの中では表情も変えずにエリザベスの断罪と婚約者の交換に応じたジークフリートと義母オリヴィアの様子からして――ない。と、思う。
だけど、そんな未来はたぶん起こらない。
『記憶』によればゲームでのエリザベスは父親とも義母親とも仲が悪かった。けれど今現在エリザベスと父親との関係はごく普通だ。
突然乳母を首にされたことは辛かったけれど、それが自分たちのことを思えばこそなら――大切にされているのだから、きちんと恩を返したいと思っている。
小さい自分たちに代わってこれからはきちんと屋敷の切り盛りをしてくれるだろう義母のことも、もちろん歓迎するつもりでいる。
なによりキャサリンがいない。それが重要だよね。
エリザベスは七歳、下の妹のアリアンヌは六歳。
未来は果てしなく続き、ここでの将来は確定していない。
どういう手違いが起こっているのかは知らないけれど、この世界では十二歳から入ることになっている学院での生活に三女でヒロインのキャサリンが一緒に在籍するなら、彼女は既に生まれていないとおかしい。ジークフリートとオリヴィアの間にすぐに子どもができたとしても、その子が入学するころにはエリザベスは卒業――王太子は卒業後だろう。十八歳の自分が十二歳で入学したての妹を嫉妬に駆られて苛めたり、そんな相手に王太子が惚れこんで新しい婚約者に挿げ替えるのは、いくらなんでも無理がある。
もしかしたら、ここは『記憶』にあるゲームの世界とはちょっと違うのかも――自分は『悪役令嬢』になんてならずに、この容姿でこの世界をただ楽しめるのかもしれない。
厳格な父親に対する「この人なら常識外れなことはしないだろう」という信頼感とこれからの人生への期待とともに、エリザベスは自室を出た。
タイミングを計っていたかのように隣の部屋のドアが開いて、妹のアリアンヌも出てきた。
今階下に向かっているのは朝食のためであって、新しい母親がこの屋敷にやってくるのはお茶の時間のことなのに、アリアンヌはすでに綺麗な眉をひそめていた。かなり緊張しているようだ。
胸もとを右手で押さえているのは落ち着かない時の癖。そこにはエリザベスと同じように首から下げた鎖に通した母親の指輪があるのだ。
だからやわらかい声を心がける。
「おはよう、アリー」
「おはようございます、エリーお姉さま」
姉の顔を見てちょっとだけ眉が緩んだ妹を励ますように、エリザベスは笑ってみせた。
ちなみにアリアンヌは父親似で、真っ黒い髪に濃い青い目の――エリザベスとは形態が異なるがやっぱり美人だ。美形の両親から美形の子が生まれるのは……まあ、そういうものだろう。もとがゲームだとすれば設定なのかもしれないけれど。
黒髪と濃い青い目で気が強い印象を与えるけれど、今のアリアンヌはどちらかと言えば控えめで引っ込み思案だ。ゲームでは(エリザベスほどではないけれど)もっと見かけに合ったはっきりしたいじめっ子キャラに成長していた。
そんなところも違う。
まあ『悪役令嬢』の大ボスであるエリザベスがわがまま放題に成長していないところだって全然違うのだけれど。
そういえばキャサリンも父親似で、性格は見事に天真爛漫を絵に描いたような明るく優しい子で、ちょっと天然なところがあったんだけど……そこはどうなっているんだろう。
そんなことを考えて首を傾げながら、妹と隣り合わせで廊下を進み、朝食室に向かう。
と。
なぜかいつも静かなはずの朝食室から賑やかな声が聞こえ、エリザベスとアリアンヌは顔を見合わせた。
ドアをノックして待つ。
既に中にいるらしい父親が応える声を聞いてドアを開けた。
中央奥に座っている父親の右手側の席――そこは亡き母の席だった――に見たことがない『はず』の女性が座っており、その席に対面する、いつもエリザベスが座っている父親の左側の席にはやはり見慣れない『はず』の少女が座っていた。
賑やかな声は彼女たちだ。
しかもいつもは寡黙で硬い表情を崩さない父親が、笑顔を見せている。
一瞬、エリザベスの息が止まった。
『見たことがない』っていうのが『今世では』だったから。
――やられた。このタヌキオヤジ。
一瞬ですべてを理解し、七歳ならではの本来の単純さで父親を信じ切っていた自分を呪う。それでも前へ足を進めたエリザベスとは違って、アリアンヌはピタリと足を止めた。
それに気づいたので、一緒に歩くように妹を促す。
テーブルから二メートルほどの距離まで近づいて、きちんとお辞儀をした。
「おはようございます。お父様。いいお天気ですね。お客様がいらっしゃるにはずいぶん早い時間ですが、母の席に座っているそちらの女性と私の席に座っているそちらのお嬢様を紹介していただけますか」
通常であれば自分から父親に声をかけたりはしない。それはマナー違反だからだ。けれど近づいてお辞儀をし、自分の存在を示した後なのでギリギリ失礼には当たらない可能性もある。
口調がきつくなって、思わず二文字軽く強調してしまったけれど、それでもどうにかにこやかな顔を保って言えたのだから、上々だ。
紹介なんかされなくてもわかってるけど。
女性はオリヴィア・ノーマン。既に式を挙げたということはないはずだから名字はこれで合っているはず。平民で、これから父親が再婚する相手だ。それからキャサリン。顔つきがアリアンヌにそっくりで、つまりあきらかに父親似だ――ストロベリーブロンドの髪の毛と淡い緑の瞳以外は、だけど。
そのふたつだけははっきりと母親似だった。
しかもどう見てもアリアンヌとさほど変わらない年齢――つまり父親はこれまでずっと――愛妻家の仮面を被って母親を裏切っていたのだ。エリザベスとアリアンヌのことも。
七歳の少女であるエリザベスの心に、この朝の出来事が父親の大きな裏切りとして刻み込まれていく。
しかも事前にそれらについて一言の説明もなく連れて来るとは。
報・連・相は円滑に仕事を進めるための基本でしょー!!!!
って、なんのことだかよくわからないけど、そう叫びたくなった。たぶんそれは前世の記憶の何かだと思う。
七歳児にしては丁寧過ぎる言葉使いでの質問をどう感じたのかは定かでないけれど、父親は多分不快だったのだろう。右の眉をピクリとさせてからそれでも笑顔を作った。
「おはよう、エリザベス、アリアンヌ。こちらは今日紹介する予定でいたオリヴィアと娘のキャサリンだ。言ってあった通り、新しいお母様になるからそのつもりで。仲良くするんだよ」
それですべてが済んだとばかりに口を閉じる。
エリザベスは父親がわざと女性の名字を言わなかったのに気づいた。そして隠し子についての言及は一切ナシ。平民であることも知らせないつもりらしい。
――どうせバレるのに。
「そうですか。よろしくお願いいたします。エリザベスです」
できるだけ優雅に落ちついて見えるようお辞儀をし、アリアンヌを促す。
「アリアンヌです」
同じようにゆっくりとお辞儀をしたアリアンヌを見て、オリヴィアは戸惑うような複雑な顔をした。キャサリンの方は何を返すでもなく、珍獣を見たかのようにポカーンとした表情で見ている。半分開いたままのその口の中にハムがあるのが見える。
そのまま動かない二人を見て、父親が苦笑した――エリザベスやアリアンヌがそんな失礼なことをしたら間違いなく厳しく叱られるのに。
「席に着いて朝食を食べなさい」
「その前に一つお聞きしたいのですが、お父様」
エリザベスの声に、父親は今度ははっきりと嫌な顔をした。
またひどく裏切られたような気がした――転生した方の自分ではなく、エリザベス自身の心がだ。
「言いなさい」
声も冷たく聞こえた。
「これからは食事の時は私とアリーが末席になるのですか。年齢的に私がお父様の隣と考えておりましたが。それともこれからは好きな席に着いてよい、ということになるのでしょうか」
平民が産んだ年下の妹が上座か――。
テーブルマナーどころか、挨拶さえまともに返せないような子なのに。
お父様とこの人はまだ結婚していないのだから、身分を考えれば同じテーブルで食事をとるどころかたとえこちらからでも声をかけることさえありえないような相手なのに。
エリザベスがそう思ったのは『記憶』のせいではない。公爵家の娘として育ってきた七年間と、父親の厳しいしつけのせいだ。それなのに父親はそんなことは一切気にしていないらしいかった。
「今は――特別だ。だがオリヴィアはもうすぐこの館の女主人になる。そうなれば席は常にここ――私の隣だ。今からそうしたとして問題あるまい。キャサリンは、新しい環境に慣れていない。慣れるまでのことだ」
それはひどく事務的な口調だった。
エリザベスにそう言い終えた父親は、オリヴィアとキャサリンの方を見て安心させるようににっこり笑った。
その笑顔が必要なのはわたしとアリアンヌも同じなのに。
せめてキャサリンがオリヴィアの隣に座っていたらよかった。それならアリアンヌと姉妹で並んで座って、そっとテーブルの下で手をつなぐことができた。でも、この並びではエリザベスとアリアンヌの席はテーブルをはさむ形になる。
「そうですか」
『慣れるまで』とはいつまでだろう――。
いつまでもだ、という声がエリザベスの心の中で響いた。




