16. 小さな魔法使い
「治してあげる」
笑いがおさまると、女の子は静かに言ってゆっくり手を伸ばした。
その手の速さと同じだけのスピードで後ずさったトリスタンを見て、女の子が手を引っ込める。
「……痛いんでしょ、治してあげる。逃げないで」
もう一度言われて、言われた内容に目を見張る。
痛いのか、と聞かれて治してあげる、と言われた。
ってことは――それはつまり、この自分と変わらないような歳の女の子が、世間では珍しい白魔法の使い手だということだ。
本当だろうか。
だけど今はこの子を信じない理由がない――それに、治してもらえなかったらきっと自分はここで死んでしまう。
じり、と二センチほど近づくと、女の子はニコ、と小さく微笑んでその場に腰を下ろした。
「触れるところまで来て。怪我をしたところはどこ? あなたはまっ黒でよくわからないから」
そろり、ともう少し近づく。右の肩が見えるように。
「そこなの? じゃあ、触るよ? 噛みついたり、ひっかいたりしないでね?」
さっきよりもさらにゆっくりと、女の子が手を伸ばす。
指先がそっと肩に触れると、身体がほんわりと温かくなった。それから痛みが引いていく。やわらかい毛布に包みこまれるような安心感にトリスタンは安堵の息を吐いた。
ああ、気持ちいい。
身体ごと暖かくなるような治癒に、勝手に喉がぐるぐると鳴った。ぺたりと地にお腹をつけて伏せる。
そのままおとなしくしているうちに朝日がしっかりと顔を出し、風が木の枝を揺らして木の葉がさわさわと音を立てはじめた。
女の子はそのまましばらくトリスタンの肩に触れていたけれど、やがて手を離して、その身体に似合わない長いため息を吐いた。
「もう大丈夫よ。あなたは山から来たの? お山にお家があるの? ちゃんと帰れるよね?」
ふう、とさっきより強く息を吐いて、立ち上がろうとする。
けれどすぐに、その場にぺたりと座り込んだ。
その身体が小さく震え出したかと思うと、側の石にもたれかかって目を閉じる。
浅い呼吸と額に浮かんだ汗。
すぐに理由が浮かんだ。
魔力切れだ――。
黒魔法にしろ白魔法にしろ、それを使うためには力がいる。それが『魔力』だ。
それはどんな人間も多かれ少なかれ持っているもので、その簡単な扱いかたは十二歳以降学校で教えられる。その後は才能のある者のみが本格的に学び、国や国民のために役立てる。
不思議な力を自在に扱えるようになる人間は多くない――ほとんどが貴族ばかりだ。平民では魔力はあっても扱えない人間も多い。
中にはトリスタンのように人より多い魔力を持っていて、学校に入学する前に使えるようになる人間もいるけれど、そんなのは稀だ。
目の前の少女はトリスタンと同じそんな珍しい人間の一人で、しかもその中でも珍しい癒しの力を持っている。そして『まっ黒でよくわからない』と言われたとおり、トリスタンの怪我は女の子が思っていたよりもずっと酷かったのだろう。
僕を治すために自分の魔力を限界まで引き出しちゃったんだ。
魔力切れを起こすと、人間は悪寒や眩暈に襲われ、気を失うこともある。酷い時にはそのまま数日間眠ったままになったりもする、と母親が言っていた。
すっかり良くなった前足でそっと膝に触れてみたけれど、女の子はまったく反応を返さなかった。
どうしよう。
この子は恩人だ。見返りも求めずに助けてくれた。
そうだ、魔力を返さなきゃ。
急いで人間に戻って、できるだけ優しく抱えた。
やり方は知っていた。七歳になった時にトリスタンの魔力の限界値を調べた時、限界まで魔力を引き出されてふらふらになったトリスタンに母親がやってくれたことがあったから。
母親のことを考えたら泣きたくなった。最後に見た笑顔。その背後に光った銀色の――。
思い出しちゃだめだ。
涙も一緒にぐっとこらえて、さっき怪我を治してもらったときと母親に抱きしめてもらったときの幸せだった気持ちや安心感だけを思う。
そっと頭を抱えておでこにキスをした。
あの時に感じたように、温かく、柔らかく、身体全体を包み込むように。血流に乗せて身体中にいきわたるように――さっきこの子がしてくれたみたいに。
やがてピクリと女の子の手が震えて、ゆっくり目を開けた。
澄んだ水色の宝石みたいな瞳に初めて気がついた。それにこの子――。
……ものすごくかわいい。
女の子はそのまましばらく身じろぎもせずトリスタンをじっと見つめた。
……。
トリスタンもそのままじっと見つめ返した。
「あなた、名前は?」
「僕は――」
名前を言おうと思って言葉が止まった。
あの襲撃者は『目撃者を残すな』そう言っていた。自分が生きているという事実は、はたして話していいのだろうか。
あの襲撃はおそらく兄の誰かが長兄を狙ったものだろうし、母もきっともう――。
卒業までのこととはいえ、母のいないあの屋敷に、自分の居場所はどれくらいあるだろう。
父に連絡するべきだろうか。
でも、『目撃者』である自分は帰ったら危険にさらされることになるかも――。
この子のことが信用できたとして、その親はどうだろう。
逡巡したトリスタンを見て、女の子はにっこりと笑った。
「やった! 名前がないのね? じゃあ私がつけてあげる」
名前がない? 一体どういうことだろう。
とまどっているトリスタンを女の子がじっと見つめる。
「うん。ナイト、にする。あなた夜みたいにまっ黒だから。とっても艶々しててキレイ。私の使い魔になってくれるといいんだけど――」
そこまで言うと、女の子はそのままトリスタンの腕の中で目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
何が起こったのかよくわからなくて眉を寄せる。でも、少なくとも最後、眠ってしまった理由だけはわかった。
魔力を移してもらった時、トリスタンもそうだったから。
トリスタンの魔力がこの子の中に浸透して落ち着くまで、少し時間がかかる。そのための休息に入ったのだ。
女の子を抱えたまま、どうしようかと考える。
しっかりした服装をしているように見えるから、それなりに裕福な家の子なんだろうな。
それにしても、人形みたいな子だな。
完璧な造りの顔。柔らかそうなほっぺ。桃色の唇。
お姫様、ってこういう感じだろうか。
国王の子どもは、トリスタンの一つ年上の王子と、一つ下のやはり王子しか見たことがない。けれど、その王子たちには昨年妹が生まれたはずだ。お祝いの宴があったから覚えている。
その子もこんな感じなのかな。
基本的に家から出ないトリスタンが近しくているのは男の子ばかりだ。
女の子には近づかないように言われているせいもある。公爵家の子どもとはいえ五人兄弟の末っ子、しかも将来は貧乏男爵家を継ぐと決まっていれば、娘の相手と考える貴族はいないのだろう。
それを残念に思ったことはこれまでなかった。
今日、この時までは。




