14. 少年の悲劇
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公爵家五人兄弟の末っ子。
野心にあふれる性格をしていたら呪いたくなったかもしれないけれど、そんな環境に生まれたことに不満を持ったことはなかった。
パートリッジ公爵家の男の子は第一夫人のところに一人、第二夫人のところに年子で二人、第三夫人のところに一人、第四夫人の母にはトリスタン一人――その五人の誕生日が二年と離れていない。
そう、ただでさえ五人もいる上に、トリスタンの母は第四夫人で、しかもトリスタンは末っ子だ。
ちなみに女の子はいない。
ちょっと変わった家族構成なんじゃないか――とは思う。けれど特に問題はなかったから、それでいいのだろうと思っていた。
トリスタンが見る限り、父と母の夫婦仲は悪くはなさそうだったけれど、聞いたところによれば二人が結婚した理由は愛情ではないらしい。
貧乏男爵家の跡取りだった伯父のルーク(母の兄)と父は学院時代の友人だったそうだ。で、その伯父が持参金がないのに身分がある妹――つまりトリスタンの母の行先に困って――近所の農家に嫁がせるわけにもいかず、行き遅れになりかけた母を裕福な父に半ば無理やり押し付けた、というのが事の顛末なのだそうだ。
そんなひどい理由で嫁いできたトリスタンの母のソフィアは――美人なほうだと思うし、他の奥さんたちより若干若いように見えるから、行き遅れというほどではなかったのかもしれない。とはいえ、財力も権力もある実家をもつ他の奥さんたちと競える余地なんてあるわけがない。
だから母はいつだって控えめで、トリスタンにも「目立たないようにおとなしくしていてね」と繰り返し言っていた。
トリスタンはそれが嫌だったことはない。
だって毎日は穏やかで、父も母も優しくて、それで十分だと思ったから。
そんな日々が続くのだと思っていた。
だって、そんな境遇に加えて、三年前に伯父が未婚のままで急逝したことで、男爵家の祖父がトリスタンを男爵家に呼び戻して継がせたいと王家に訴え、パートリッジの父と祖父がそれを了承したから。
トリスタンはあっさりと公爵家の権力争いから外れることになり、毎日はさらに穏やかになって、何の問題もなく過ぎていった。
将来的には公爵家を出るけれど、学院を卒業するまでは両親の手元で教育を受けさせる約束になっていて、卒業後に辺境にある男爵家の領地に移る。
今は敷地内(離れ)に住んではいても、他の兄たちとは扱いが違って――ほぼ部外者というか、お客さん。権力争いもなく、衣食住も心配がないため、むしろ過ごしやすい。
だから、本当に不満なんてなかった――のに。
想像もしなかった恐ろしい現状にトリスタンは呆然とするしかなかった。
ぶつかり合う剣の音、誰かの悲鳴、怒鳴り声、叫ぶような母の声。
「違います! ここにはリュカ様はいらっしゃいません。私もマリエラ様ではありません! 私はソフィアで、この子は末っ子のトリスタンです! 手荒なことはやめて! 誤解です!」
いつもより乗り心地のいい馬車に揺られ、暑気を払うという名目の盛夏の夜会からの帰り道。
つい数分前まで、やわらかくていい匂いのする母の腕の中でまどろんでいたはずが、突然夜の街道に引っ張り出された。
幼い頭に自分が長兄と間違われて襲われたのだということがわかった時には、護衛の剣士や魔導士の殆どは切り捨てられるか、地に膝を、いや、身体のほぼ全てをついて這いつくばっているようなありさまだった。
それでも母はトリスタンを背に庇うように立って襲撃者たちに訴えていた。
その少し先にはいつも母に付き従っていた侍女のポーリーンが倒れている。既に息はないのだろう、ピクリとも動かない。
――そう、たぶんこれは誤解だ。
いつもなら長兄と四男、そしてその母親のマリエラが乗っているはずの馬車で帰って来たことで、取り違えられたのだ。
目の色こそ違えど、トリスタンは長兄と同じ黒髪だった。並べば身長は兄の方が十センチ以上高いけれど、夜道のこと、どこまで信じてもらえるか。
それでも、ここで自分がパートリッジ公爵家の次期跡取りではないと証明できなければ母親共々この場で殺されてしまうんだ。
その冷酷な事実は、今まで跡目争いには無縁だったトリスタンを戦慄させた。
襲撃者の一人が馬車の中をあらためて、「他には誰もいない」と主犯格らしい男に報告しているのを震えながら見つめる。
「残りは」
男が短くそれだけを母に聞く。
「残りなんていません、私は第四夫人のソフィアで、この子はトリスタンです。マリエラ様とリュカ様、アントニー様は馬車の調子が悪いとのことだったので私たちの馬車で先にお帰りになりました。私とトリスタンはマリエラ様の馬車の修理を待ってあちらを出たので遅くなったのです」
マリエラ、は第二夫人の名でリュカは長兄、アントニーはトリスタンのすぐ上で四男だ。
母の説明に男がたじろいで、舌打ちの音が続く。
「一人か」
「お願いだから私たちのことは見逃してください。私たちは気を失っていたことにいたします。誰にも何も話しません。この子は学校を出たら私共々田舎に帰ることが決まっています――どなたの邪魔にもなりません。それにこの子は要なのです――どうか見逃してください」
母の訴えが続く。
何も言われないことで、聞いてもらえているのだとわずかに緩んだ緊張を割くように、襲撃者の声が響いた。
「目撃者を残すな」
息を呑むような小さな悲鳴は母のもの。
ぼくはここで殺されるんだ。
――それがわかったトリスタンも身体を硬くした。
月明りを反射して容赦なく振り下ろされようとする冷たい銀色のきらめきが自分の死か――けれどその時、銀の刃の向こうに巨大な黒い影が踊った。
続いた悲鳴は母のものではなく、襲撃者たちの怒声。
「ナイトイーグルだ!」
「動くな! 狙われるぞ!」
ピタリと動きを止めた襲撃者たちの中に――母の声が響いた。
「トリスタン、走って!!」
息を呑んだ襲撃者が振り向くよりも早く、母はトリスタンの背を押していた。
言われるままに駆けだした小さな身体を獲物とみなしたナイトイーグルの飛翔。
あっという間もなく硬い鉤爪がトリスタンを攫み、その先端がずぶりと右肩に刺さり、痛みに上げた悲鳴とともに身体は宙に浮いていた。
遠ざかる地面に白刃が踊る。
トリスタンが精一杯伸ばした手が母の手に届くことはなかった。
「生きて!」
声だけが届いた。
空を切って音も立てずに飛ぶナイトイーグルの鉤爪に攫まれたまま、運ばれていく。
微笑む母の背に振りおろされた白刃も、右肩から流れる血が腕を伝って指先から宙を飛んでいく様も少しも現実のこととは思えなかった。
全てが嘘みたいに静かだった。
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そのままどれくらいぼんやりしていただろう。
最初に戻って来た感覚は痛みだった。血は止まっていたけれど、ナイトイーグルが羽ばたく度に鉤爪が刺さったところがズキズキと痛んだ。
それからやってきたのは恐怖。
夏の夜なのに、寒さ。
このままではいけない、という焦燥も。
ナイトイーグルは夜行性だ。夜明けには巣に帰り、そこで獲物を食べる。
運ばれながらトリスタンはあたりを見回した。
月の光に照らされた真っ黒い夜の森が続いているだけで何も見えない。
逃がしてくれた母の心を裏切ってはいけないと思う。
生きなければ。
このまま巣まで連れて行かれてしまったら終わりだ。
身じろぎをして痛みにうめいた。肩に食い込んだ鉤爪は到底外せそうにない。練習し始めたばかりの黒魔法はこの大きな鷹に効くような威力はない。
そもそも学校に入学する前の子どもが魔法を扱えることの方が珍しい。
母はトリスタンが兄弟の誰よりも早く魔法を扱えるようになったことを、父と祖父母と侍女のポーリーン以外には秘密にしていた。
右手の親指に嵌められた指輪は祖父から贈られたシグネットリング(爵位を継ぐ者の証)ということにしてあるけれど、実は封魔の指輪で、トリスタンがうっかり魔法を使わないように魔力を封じている。
父のもとを去り、貧乏男爵家の領地に落ち着くまでは目立たないように過ごす。母と魔法の練習するときも十二歳から通うことになっている学校でも、この指輪は絶対に外さない。そう約束させられた。
封魔の指輪と呼ばれているとはいえ、つけると魔法が全く使えなくなるというわけではないその指輪はつまり――あまりいい物ではないのだろう。
所詮は貧乏男爵家だということが幸いし、そのポンコツの指輪のおかげでつけたままでも簡単な魔法なら使えるし、練習にはそれで十分、というかかえって便利とさえ言えたけれど。
トリスタンは既に感覚のない冷たい右手と親指にはまった鈍い色の指輪を見つめた。
外さないって約束したけど、これを外してもいいかな……外したら、少しは威力のある攻撃魔法が使えるかもしれない。だって他には何もできそうにないよ。
左手を伸ばして右手を掴んだ。その指から指輪を引き抜こうと引っぱる。
けれど――ずっと手を下に向けてぶら下がっていたためか、それとも何らかの魔術的な仕組みが働いているのか、指輪は一ミリたりともその場から動かなかった。




