灰の王子の部、第五
イヴェニルは与えられた部屋で灯りも灯さず、なるべく誰の目にも入りたくはない、入らないと隅の方へと身を置いて護衛のものらの職務を妨げ困らせながらも頑なに己の顔を両手で覆い、冬ごもりの熊のようにじっと息を殺すようにして気を落ち着かせようとしていました。
ジリジリと焼く火のような熱は無く、引きつるような痛みも不快感もない。
大丈夫だ、ここは己の住む城ではなくとも脅かす存在などいないのだと自身に言い聞かせ兄に頼りたいと訴える幼き頃のままの自分をその心に抱えながらも兄の負担になるなどと甘えた考えを消そうと躍起となり。
そうこうとしているうちに夜は耽け、やがて日が昇り皆が目を覚まし活動し始める時刻へとなりました。
目の下に隈を作りながらしかしこれ以上このような些事に気を取られる訳にはとその身と心を無理矢理に立たせて、イヴェニルは大臣からの気遣いや正式な謝罪を表す書と変わった滞在の予定、それに姫からの詫びの言葉を遣いより受け、それを自分の落ち度もあるからあまり気に病まないでほしいと遣いに持たせました。
更にはこの婚約に乗り気でないならこのまま自分は何もせず国に持ち帰るとの旨も内密に伝え。
噂に違わず醜く焼けただれた顔をあの時彼女も思い知ったはずで、元より乗り気でなかったのに更に真に化け物であったと知った男に嫁がされるなど冗談ではないと言われても仕方ないとイヴェニルはすっかりと自信を喪失させ負け犬のように国に帰ることばかりを考えていたのです。
「やはり生涯独り身でいる方が似合いだな」
もし、己が誰かに恋慕の情を覚えたとしても迷惑にしかもはやならない。そう卑屈に考え、早まった帰国の日程までを灰の王子らしく過ごし、イヴェニルは銀の国を発とうとしていました。
その前日。大臣から名残り惜しいが仕方ないと最上の持て成しを受け、食事を楽しみ自室として借り受けた部屋に戻ろうとしたイヴェニルの前に姫がやってきました。大勢の臣下や護衛のものも連れず数少ない限られたものたちのみで。
驚き、戸惑いとまた酷い言葉をかけられるのだと身構え顔色を悪くし、無礼であると知りながらも姫から視線を逸し、唇を震わせるイヴェニルを暫し見つめた後、姫は軽く息を吸い込んでその唇から言の葉を紡ぎ始めました。
「……少し、中で話せないだろうか。あの時の仕打ちに対する謝罪をしたい」
バツの悪そうな不貞腐れたような言い草に、連れていた侍女の一人が目を眇め姫様、と窘めるよう鋭く叱責が飛び。
それに姫は怒りもせずわかっているが、と口ごもりまた少しだけ時間をかけながらもイヴェニルに再度この通りだ、と僅かに頭を下げます。
イヴェニルは更に驚いて立ち尽くし目を白黒とさせてはいやしかし未婚の男女が部屋にこもるなどということは姫の落ち度にもなろうと混乱しかけた頭でもって考え、伝えます。
素直に謝ることも許されないのだと姫は受け取り屈辱と取ったか、それともそれほどのことを己はしでかしたのだとしたのか。グッと唇を噛み、今にも舌打ちをしそうな表情でイヴェニルに手を伸ばしてぐいと己に近い方の手を引きました。
距離感や婚約者以外に自ら手を伸ばして腕を組もうなどと。もはやマナーもへったくれもありません。
そうして漸くと姫はイヴェニルを部屋に押し込むとその場に立ったままで先程よりも深く。宛ら、断罪を待つ罪人のように頭を垂れて己の言動を侘び、二つの国で交わされた約定やその他婚約が成ることでもたらす益を考えずに行動し一方的に批判し、疎い、傷を付けた。
例え、婚約はならずともあのように暴かれたくない場所を暴き衆目に晒すなど絶対にあってはならなかった。済まない、その言葉だけで済ませるとは思わないが本当に申し訳のないことをしたと深く反省している。
目を閉じ、ひたすらに謝罪をする彼女の姿を見て開口一番に罵声や聞きたくないものを聞かされるのだと怯えていたイヴェニルも警戒を僅かに緩めました。
「失礼だが、貴方には自分など見えていないのかと思っていました」
「何?それはどういうことだ?」
「友好を成すべき国の王子などではなく、ただの醜い獣なのだ、と」
静かに視線を落とすイヴェニルに息を詰まらせ次の言葉も吐けずに姫は狼狽しました。
その気配を感じつつもイヴェニルは表情を作りました。なんてことは無い、そのような扱いは自国にいる時から慣れていると。
「私は兄のために生まれ、兄のために力をつけ、そして影武者としていつかこの命すら捧げることを目標にしていました。しかし己の力不足故に顔を失い、その道は断たれてしまった。その現実を受け入れられずにこの年まで生き恥を晒し続け、貴方にお叱りを受け、気付いたのです。……結局私は、兄のためにと言いながらも己の身が可愛かったのだと」
姿が崩れど兄を護る方法など数多ある。否、姿を崩したのだとて最愛の兄を護れたのだから喜ぶべきであり悲しみ、人の言葉に左右などされる必要などなかったのだ。
この傷こそ誉れと胸を張れてこそ真に兄の影武者として、弟として相応しい。
それを語って取り繕った表情を歪め泣いているような笑っているような王子らしくはないものを微かに覗かせイヴェニルは微笑みを浮かべ、姫にだから謝ることなど何もないのだと両国のためにも両者のためにも今回のアクシデントについて不問と伝えたのでした。
「……わた、しは」
時間にして一時間ほどもかけずにそのように穏便にと話をまとめ、姫は侍女に促され退出する間際掠れたような小さな声音を落としました。
「私は、私も過去の自分を哀れんでいるのだろうか」
恐ろしく幾度も幾度も繰り返し悪夢となってまで蝕む己に巣食う闇の気配を彼のように言い切ることができるだろうかと考えた時、姫はチリチリと傷痕が痛むようなそんな錯覚を感じ、思わずと項に左手を運びきつく目を閉じました。
己の体が焼け漂うかおり。肌を焦がした鉄の重さと熱。
哀れみを受ける度に、お可哀想にとかけられる度に重くのしかかる何か。足を泥濘にとられ沈んでいくようなこの心。
それを振り払いたくて必死になって反発し、周りを、思いやっているつもりで蔑み上から見下ろしてくるような輩をなぎ倒し進んできたこの道は。
王子の言葉と、己自身が哀れみ見下ろすようにして更に傷を付けたかもしれない事実を前に姫は王子の驚いたような顔を最後収めてその場を後にしました。
話を終えた二人はその夜なかなか寝付けず互いの立場や境遇のことを思い過ごしました。




