8話
「えっ?誰?」
アシュレイは視線をさまよわせる。
居間には、採光と換気のため、ガラスのはまっていない小さな窓がある。使わない時は、板戸を閉め、その上からさらに鉄板で塞いでいた。食事中は、板戸を少し開けて、換気をするのが常だった。いま、その板戸を外から押し上げ、こちらを堂々と覗き込んでいる男がいた。
「わーっ! いた! 不審者よ!」
アシュレイは窓を指差す。全員の視線が窓の向こうの男に集中する。
「本当! 変な人だわ!」グレイシーも叫び声を上げる。
ローエンは引きつった笑いを浮かべ、ハリスとアンドレアは無言で見つめている。
「お父さんだよ。開けておくれ」
謎の男は、甘く、よく通る美しい声をしている。
「うちのお父さんはもう中にいるわよ」
ステラはそう言いながら、鉄板で窓を閉めようとした。
「なんてひどい。私も当事者なんだから、話に混ぜてくれてもいいだろう?入れてくれないのなら、ここでヴァイオリンを演奏して騒音問題を起こすぞ」
口調は猫なで声そのものだが、後半は脅迫である。
ステラは怯まずに、ぐいぐいと板を押し付ける。男はふいと後ろに下がり姿が見えなくなったが、閉められた板戸の向こうから再び語りだす。
「開けておくれ」
なおも壁越しに甘い声がする。
「開けてくれないといたずらするぞ」
コンコンと、板戸がノックされる。
ハリスが諦めた様に言う。
「アンドレア、どのみち彼を避ける事は出来ないのだから、変に拒否せず普通にもてなした方がいいんじゃないかね」
夫婦は、謎の男の正体について、確信がある様だった。妻は顔をしかめる。
「それはそうなんだけど……」
娘たちと客人が夫婦の判断を待っている間、謎の男はなにやらごそごそと動いている。
「こうなってしまっては仕方がない。聞いてください。『ひばり』」
男の前口上が終わるや否や、外からけたたましいヴァイオリンの音が響き渡る。
「なにこの曲!?」
激しい高音が、せわしなく押し寄せる。「ひばり」と男は言ったが、小鳥のさえずりと表現するにはあまりにけたたましい。下手ではない。むしろ芸術に疎いアシュレイですら、素晴らしい技術によって演奏されていることが理解できる。ただ、夜の住宅街にふさわしい音楽ではない。とにかく、曲そのものが騒がしいのだ。アシュレイの知っている「ひばり」という鳥は、もっと慎ましやかで控えめな鳴き声をしている。
「うるさいわね!!」
アンドレアが叫ぶ。
その叫びに押されるよう、仕方なしにハリスが立ち上がり玄関扉を開ける。すぐにヴァイオリンの演奏は止まった。無表情のハリスを押しのけ、派手な衣服に身を包んだ青髪の男が入ってきた。暗がりでよく見えなかった顔は、20代にも30代にも見える不思議な雰囲気を纏っている。
「久しぶりだね、アンドレア」
「リカルド……」
リカルド、という名前には聞き覚えがあった。母の元婚約者で、まだ見ぬ叔母と結婚した人物だ。
不敵な笑みを浮かべ、リカルドは一家を見渡す。
「その通り。僕がリカルド。ラングレス家の婿養子さ」
簡潔に自己紹介をしたあと、彼は断りもなく空いている椅子に腰掛けた。昨日アシュレイが座っていた席だ。
「いつから外にいたんですか?」
アシュレイはこわごわと話しかける。
「『アシュレイさんはお母さん似なんですね』のあたりから」
リカルドは空いているワイングラスに白ワインを注ぎながら答えた。
「それってだいぶ前ですよね……」
アシュレイは男の行動に寒気を覚えた。家族もきっと同じ気持ちだろう。
「ううん、思ったよりまともなものを飲んでいるじゃないか。結構結構」
リカルドは冷たい視線を全く意に介していない様子で、ワインの香りを確認している。
「貴方があの子を焚きつけたの?」
アンドレアがリカルドを見つめる。リカルドは薄く目を開いた。
「違う。今回の事は、彼女が勝手に言いだした事だ。まあ、止めなかった、という点では同罪とも言えるけどね」
「ミシェールはね……少し、精神を患っていて」
リカルドはぽつりぽつりと語り出した。
「彼女が言うには、自分は物語の登場人物で、永遠に終わらない悲劇を繰り返しているらしい。それで、物語の展開を変えるために、新たな役者、すなわちアシュレイ嬢を舞台に上げたい、と言うわけなんだね。自分の役柄を、アシュレイ嬢に代わりにやってもらう。それで晴れて、ミシェールは悲劇の連鎖から抜け出すことが出来る。彼女はそう信じているんだ」
「はあ」
一同は無言になった。全員がリカルドを見つめている。
「別に僕はどうでもいいけどね。ヴィルヘルムのクソ野郎をそっちが引き受けてくれるんだろう?それだけでも十分さ」
男は、大袈裟な動作で肩をすくめる。
「婚約の打診が来ているのではないのですか?」
ローエンが、初めてリカルドに声をかけた。
「いいや。ミシェールはずっとラングレス領にいた。王弟殿下とは会ったことがないし、僕も娘の容姿について聞かれた事は一度もない。ま、素直に白状すると、意識的に隠していた。だって面倒臭いしね」
リカルドはぐい、とワインを飲み干し、グラスを置く。
「彼が見初めたのはミシェールではなく君って事さ。名前なんだっけ?アメリア?」
「アシュレイです」
「彼の標的は君なんだよ。一部界隈では既に持ちきりさ。王弟殿下が運命の人を見つけた、ってね」
「もう噂に?出どころは何処なんですか」
「そりゃ本人だろ。わかるだろう?彼の性格。僕なんて可愛いもんさ、なんたって思慮深いもの」
リカルドは歌う様に、ご機嫌な様子で語る。
テーブルの上に転がっていた指輪を手に取り、空中にぽんぽんと放り投げて遊んでいる。
「ラングレス侯爵家なら君を守ってあげられる。でも、ここにいれば問答無用で連れて行かれる。しかし妻にはされない。身分が足りないからね。妾と言う名の使用人にされるのがオチだろう。それなら、どこかの……うーんそうだな、年が近くて庶民的な伯爵か何かと結婚した方がよほどマシじゃないかね?ん?」
リカルドはローエンをちらりと見る。あまりにも不躾な視線だが、ローエンはあまり気にしていないようだ。
再び、何度目かの沈黙が場を支配する。そのさなか、ニールセン家の前で馬車が停まる音がした。一家に緊張が走る。大公が乗り込んできたのかもしれない。そんな感情がニールセン一家の思考を支配する。
カタリと、板戸の隙間から見知った顔が覗く。ミシェールだ。侯爵令嬢としては些か品位に欠ける振る舞いである。彼女は自分の父がそこにいるのを見て、信じられない、とでも言いたげな表情を見せた。
「お……お父様!?観劇に行ったのではないのですか!?」
まずフェリックスが扉を開け、うやうやしくミシェールをエスコートし、室内に歩み出る。彼女の仕仕草は優雅だが、アシュレイそっくりの美しい顔は引きつっている。
「観てる観てる。茶番劇をね。いや〜フェリックスを買収しておいて正解だったなぁ〜まさか妄想癖がここまで悪化しているとは思わなくてさ〜ほんとうちのわがまま姫には困っちゃうよね〜」
ミシェールは従者を振り返る。全身の毛が逆立った猫のようだ。
「裏切ったわねフェリックス!!」
従者は無表情のまま、ふいとそっぽを向く。
「これも全てお嬢様のため。リカルド様が来た方が話が早いかと思いまして」
「あなた、本当の本当に本気でそう思ってる!?」
「だって、お嬢様は人を脅す事はできないではないですか。その点、リカルド様はアンドレア様に恨みがありますし。一片の躊躇いもなくお嬢様のために行動してくださるかと」
「恨み……」
ぽつりと、アンドレアが呟く。
「別に恨みはないけれど。こんなのだけど、僕はミシェールの事を愛しているからね。彼女の望むようにしてあげたいのさ。ま、従者と結婚するとか言い出した時はこのクソガキ、修道院に入れてやろうか?と思ったけど」
「お、お父様、そんな事を考えていらしたの!?」
「冗談だよ。冗談、冗談。僕はいつもホントの事は言わないから。ところでアシュレイ、君はどうする?向こうに連れて行かれたら、僕たちはなんの手助けもしないよ?」
リカルドは、花が開いた瞬間のように、ふわりと微笑んだ。美しい場面だろう。そこだけを切り取れば、の話ではあるが。
「ご親戚なのは間違いないようですし、ひとまず避難、という形でお話を聞きに行ってもいいのでは?」
ローエンがアシュレイに囁く。彼女にとって、それは信頼できる助言のように思われた。
アシュレイは紅茶を一口含み、答えた。
「とりあえず、お話だけならば」




