不運と出会いの因果 1
永世中立国―リュネック―自然環境保護第五番区
リュネックの首都『ジェンヘン』の南西に位置するこの区域は、自然環境を保護するために国が直接管理しており、森林伐採は当然の如く外来種の持ち込みも禁止され、破ったものには重罰を科せられる厳しい規則が設けられている。
このような国が管理する自然環境保護区域は、現在国内に十三個ほど存在しており、どれも世界的に有名である。
また、この五番目に位置する区域は特に有名で、他の区域では認められていない人工物である病院が例外的に設置されている。
首都が近いこと、自然が患者の療養に適していることから建造された。
この病院『セント・エンジェル病院』の存在は国から重要視され、その援助を受け医療技術は世界の最先端を行っている。
セント・エンジェル病院の三階の個室、日当たりは良くそこから見える景色は、あらゆる邪気をかき消してしまう程の壮大さを持ち、季節が秋であれば木々に彩が映え万人の視線を釘付けにすることだろう。
その病室でベッドに上半身を起こして座っている少年がいた。
少年の名はロス・センスファー。まだ幼さの残る顔立ちで病人であるが故か身体は痩せており、病院から支給された服を着ている。
彼は窓から一望できる綺麗な景色を見ずに、膝にかかる布団をじっと見つめていた。毎日見ているから見る必要が無いと言うことではない。
その景色を見たくても見ることができない。
つまり、彼の目は失明していた。
ふと、彼は入り口の方に視線を送った。
どの方向を向いても見えるものは無い、ましてや、その方角に何があるかもわからないはずなのだが、彼は確信を持ってその入り口のドアを見た。
コンコンとドアをノックする音の後、そのドアがスライドして一人の女性、身なりから判断するに看護師が入ってきた。
当然、その姿は彼には見えていない。
「こんにちは、イーナさん」
彼はズバリ入ってきたその看護師の名を言い当てた。
ある学説によれば、人間が持つ五感の中で何らかの理由でいくつか機能しなくなってしまった場合、それを補うために残った感覚が常人を著しく超えるほどに発達することがあるという。
一例では、視覚を失った者の聴覚が発達して、常人では聞くことが出来ない音を感知し周りの人を驚かせることがある。
彼もまたこの例に該当し、しかも珍しいことに残った感覚すべてが異常に発達、それ以上に進化したと言える。
今では、その残った四感を駆使し、自分の周りに何があるか把握でき、ましてや視覚を有する者よりも認識できる範囲は広い。
だが、それでもそこにある物の色までは識別できず、彼の闇は消えない。
「元気そうね、ロスくん。今日はすごくうれしそう。待ちに待った日だからかな?それとも、不安の裏返しかな?」
看護師のイーナ・エーベルは、太陽のような笑みで話しかけてくる。彼にその笑顔は見えなくても感情を察知し認識する。
「そうですね。少し不安ですけど…、それ以上にうれしいです。今日から普通になれる」
イーナに挨拶した時の満面の笑みは消え、沈痛な面持ちで――
「イーナさん。あなたには感謝している…。何度お礼を言っても言い尽くせないほど…」
彼にとって彼女の存在は大きい。命の恩人と言っても過言ではない。直接彼の命を救った訳ではない。
彼女の存在自体が彼を生かした。
ロスが現在の病院『セント・エンジェル病院』に来たのは三年前、イーナの勧めで入院した。
ここに来る前はもっと小さな病院で、施設はお世辞にも良いとは言えないものであった。
彼が失明したのは八歳ごろ、当時の医療技術では視力を回復させることは不可能であった。
回復の見込めない視力に絶望し、立ち直れないでいた彼に手を差し伸べたのがイーナだった。
彼女は当時その小さな病院の看護師で、ロスの担当と成ったことから縁が生まれた。
生きる意味を持てなかった彼に幾度と無く救いの手を差し伸べた。
彼はそれに答えることはなく、六年の月日が流れる。
その間も彼女は健気に看病を続け笑顔を絶やさなかった。
その行為はまさに聖女そのもので並みの努力では決して成しえないものであり、彼女の持つ慈悲があったからこそ、彼女であったからこそ出来えた偉業である。
その甲斐あってか、視力回復の知識と技術を持った現在居る病院を耳にし、彼と彼女は二人で移ることとなる。
「さあ、行きましょう。マイアー先生も待ってますよ」
イーナは、ロスの心情を悟って優しく手を差し伸べた。
ロスは、部屋の入り口に居るマイアー医師を知覚し、差し伸べられた手を握ってベッドから降りた。
今日は、待ちに待った視力回復手術。
そして、目指すは処置室。
慣れ浸しんだ病室をイーナと共に出る頃には、緊張はピークに達していた。
視力回復は彼にとって目が見えるようになるだけの機能回復という事象を意味するだけではない。
もっと大きな意味を持ち、今まで失ったすべてが戻ってくると彼は信じていた。