黒竜の駒と砂の呪い
夕刻前に、ネアが部屋の窓から外に出ようとしていた一件が落ち着くと、アルテアは、アイザックとの国取りをしている駒を置いた盤面に変化があることに気付いた。
これは、一見チェスのようなものではあるが、淡い金色の黎明と透き通った藍色の盤上はその国を、そして置かれた駒はアイザックと分け合っている獲物達を正確に模している。
そのどちらも、つい先ほど、うんざりするような通信をかけてきた人間のいる国のものだ。
(………………成程。したたかな女だが、やはり選択の域では退屈なことには変わりないな…………)
アルテアに、否、アシュトンという名前の魔物には、あのように駄々を捏ねて見せた女は、その言葉の奥に微かな不誠実さを感じ取ったのだろう。
アイザック側と繋がっている貴族の息子とも、抜け目なく繋ぎを取ったようだ。
しかし、保険をかけることを忘れない狡猾さは、その身分であれば当然備えているべき用心深さに過ぎず、多少工作をする脳があったからといって、あの面白みのない人間を見直すきっかけになることはなかった。
欲しいものがあまりにも見え透いている以上、どれだけ手札を増やしたところで、所詮その動きは想像から外れることはない。
何の面白みもない。
辟易とする程に、いっそ面倒になる程に。
だが、かつてのようにその何かが自分の興味を引けばと思うには、いささか忙しい身の上になった。
自分が使い魔になるなど想像もしていなかったが、相変わらずこちらにいるのは、なかなかに油断のならない、何をするのか分らない生き物である。
なのでアルテアはすぐに、その人間の行動に目を細めて低い声を上げなければならなかった。
「……………おい、やめろ。何をしてる」
「む。…………この駒がとても素敵なので、是非に支援します」
「そいつは、アイザックの駒だ。黒いのが見てわからないのか」
「竜さん………………。囲まれてしまっていますが、死んでしまったりはしませんか?」
「夏影の竜だぞ。放っておけ。それと、前に、その盤上のものには触るなと言わなかったか?」
「勿論、アルテアさんのお仕事を邪魔するつもりはないのですが、それとこれは話が別でして」
「何でだよ」
「この竜さんを見て下さい!翼が鷹のような翼で、お顔も綺麗です。この首回りはもふもふに違いなく、これはもう、毛皮の会の名において保護せざるを得ないのではないでしょうか」
現在、この部屋にはシルハーンと銀狐はいない。
先程淹れてやった紅茶が気に入ったのか、ポットに触ろうとしたシルハーンが、その温度で昏睡しかける事件があり、銀狐と共に蘇生の為に庭に出してある。
庭とは言え、軒下の一画を四角く結界で囲み、その小さな柵の中で雪に触れさせているだけだ。
先程まで窓を開けてその様子を見ていたネアは、部屋に戻るなり、窓際のこのテーブルに置かれていた国取りの盤に目をつけたらしい。
(以前、ランシーンのものを見せたことはあったが、よりにもよって、あの竜に目をつけたか…………)
この勝負では敵にあたるアイザックの駒を贔屓するとんでもない主張に唖然としたが、この人間がうっかり参入すると、本気で勢力図がひっくり返りかねない。
おまけにこの夏影の竜は、ダナエを気に入っているネアにとっては、それなりに興味深い個体になるだろう。
どことなく雰囲気が似ているのだ。
「……………やめておけ。こいつは人間を食うぞ」
「まぁ、獣さんですしね」
「お前と相性の悪い夏の系譜だ。それに、シルハーンが嫌がるだろ」
「あら、ディノは、蝕の時にダナエさんがとても頼もしかったという事があってからは、野良竜を飼うのは禁止のままですが、お喋りまでは解禁してくれたのです」
「この竜のいる国は、カルウィの属国の一つだ。おまけにこいつは、そのカルウィの第一王子の知己の竜だからな?」
「……………カルウィ。……………ぽいですね。この黒い恰好いい竜さんには、何の興味もなくなりました。どこへ行こうとも自由ですし、勝手に滅びるがいいと思います」
相変わらず、自分で引いた一線を越えるものはものの見事に切り捨てる人間だ。
カルウィの、しかも第一王子の系譜だと知った途端、ネアは、あれ程騒いだ竜への興味を一切失ったようだ。
また妙な縁を増やしてくる可能性がありひやりとしたが、あの夏影の竜の騎士がカルウィの人間を守護していたことに感謝するしかない。
ところが今度は、こちらの駒の一つに興味を示した。
「………………白い駒のお姫様は、とても綺麗な方ですね。私がお友達になれそうな方であれば、アルテアさんも、愛想を尽かされてしまわないよう、長いお付き合いを目指して下さいね」
「するか。さっきの通信の女だぞ」
「むぐ。…………そうなると、こちらの盤上には何の興味もないのです。この国にはせめて、私を満足させる素敵な毛皮遺産になりそうな生き物は生息していないのでしょうか。もしいるのであれば、お土産はそやつでもかまいません」
「まず、俺から土産を貰える前提なのをやめろ」
「む?」
ネアはわざとらしく首を傾げてみせ、時には土産などを所望してやるのも、すっかり懐いた使い魔を持つ主人の務めだと呟いている。
けれども、その話題を切り上げようとすると、はっとする程に鋭く瞳を眇め、冴え冴えと微笑むのだ。
こういう時に、この人間はこんな目をする。
それは見慣れた終焉の子供のそれであり、その上で苛烈なまでの選択を示すこちらの手の内の領域を治めるもの。
「もしそのお姫様が、何かアルテアさんに悪さをするのなら、くしゃりとやるので言って下さいね」
返すべき言葉は色々あったのだろう。
それは、同じ人間同士であっても構わないのかとか、何も知らない人間のことを、そうも容易く排除すると言えるのかとか。
でもきっと、この人間はそうするだろう。
自分の領域を侵し、自分の持ち物だと認識したものに誰かがその手をかけるのであれば、容赦なく滅ぼしそのことを決して後悔するまい。
この人間は選ぶのだ。
手を伸ばすことを、そして欠片も顧みないことを、その強欲さだけでいとも容易く選び取る。
それが例え自分を滅ぼすとしても、この人間はそれを自分の願いとして選択してのけ、満足げに微笑むのだろう。
そんな人間だからこそ、アルテアはこの脆弱な人間の使い魔であることを選んだのだから。
「…………言っておくが、あの女の可動域は九百だ。お前の百倍はあるぞ?」
どんな答えでもなく、そう言ってやれば、鳩羽色の瞳に微かな絶望が揺れた。
いつものように項垂れるかと思えば、今回はそれだけで踏み止まり、どこか得意げに微笑む。
「とは言え、せいぜい棘牛さんより強いくらいです。棘牛さんは美味しいタルタルにして食べてしまえるので、その方もいざとなれば、ざらざら砂の呪いで滅ぼすばかり」
「……………待て。何だそれは………………」
ネアが、自慢げに聞いたことのない呪いを口にしたので、慌ててそう尋ねれば、最近駆除した祟りものから献上された武器であるらしい。
土筆程度の可動域の人間が気軽に祟りものを滅ぼしていることも問題だが、得体の知れない呪いのようなものを既に受け取ってしまっていたことに愕然とする。
きちんとした経緯報告をさせようと、捕まえて長椅子に座らせていると、雪の上で体を冷やした万象の魔物が戻ってきた。
「キュ!」
体を冷やしてくると聞いていたので、てっきり人型の魔物の姿に戻るのだとばかり思っていたが、帰って来た姿を見ると、雪毛玉を作った銀狐の背中の上に、三つ編みのある白いムグリスが乗っているではないか。
アルテアの視線を辿り振り返ったネアが、その姿を見て、嬉しそうに目を輝かせている。
「あら、すっかり目が覚めて元気になったみたいですね」
「キュキュ!」
「………………人型で戻って来るという選択肢はないのか……………」
「ディノは優しい伴侶なので、この後も私にむくむくのお腹の毛皮を撫でさせてくれるのですよね?」
「キュ!」
「ふふ。狐さんに乗ったムグリスなディノは、何て愛くるしいんでしょう!合せて抱き締めたいもふふわ具合です!!」
褒められた万象の魔物は照れているようだが、そもそも乗っているのはただの狐である。
ただの獣と共に過ごすことで妙な親睦を深めるのであれば、第三席の魔物としては大きな懸念を示したいところだ。
「……………おい、放っておくと、あの狐の巣に連れ込まれるようになるぞ」
「あら、それはアルテアさんなちびふわがやられたからですね?しかし、狐さんが我が子のように慈しんでしまうのは、アルテアさんがちびふわになった時だけなんですよ?ムグリスなディノは勿論のこと、念の為にウィリアムさんなちびふわも与えてみましたが、そちらにはあまり興味を示しませんでした」
「…………………おかしいだろ」
「そう言われましても、狐さん基準なので………………」
良く考えれば、終焉の魔物を拳大の小さな生き物に変えてしまい、その状態でリーエンベルクで飼育しているとはいえ、普通の狐に差し出すというのも大きな問題なのではないだろうか。
仮にも終焉の魔物が世界から失われたら、とんでもないことになる。
銀狐の背中から伴侶を手に取り、ひんやり毛皮が気持ちいいと頬を寄せている人間を、遠い目で眺めた。
だいたい、ウィリアムをいつあの獣にしたのだというのだろう。
アルテアはまったく聞いていないことなので、あの男はまた知らぬ間にリーエンベルクを訪れていたようだ。
その問題は後々調べることにして、アルテアはまず、持って来たタオルで、雪毛玉を作った銀狐を拭いてやりつつ、ネアが貰ってきたという呪いについて、引き続き事情を聞くことにする。
「………で、その祟りものは何だ」
「エーダリア様とディノには、きちんと報告済なのです…………………」
「見落としがあったらどうするつもりだ。お前は自分の事故率の高さを考えろ」
「むぐぅ……………」
低く唸りはしたが、こちらが引かないと観念したものか、ネアは、ぽつぽつとその時のことを話し始めた。
魔物の王だった筈の万象は、ムグリス姿でそんなネアの手の上で満足げに寛いでいる。
「あれは、安息日のことでした。私とディノは、お部屋でぬくぬくのんびりしていたのですが、ふと窓の外を見ると、森の方に禍々しい黒い霧が出ており、これはもう退治しにゆくしかないと出かけていったのです」
「………………あらためて確認するが、お前の可動域は幾つだ?」
「…………………九でふ。……………で、でも、エーダリア様達はリーエンベルクを空けていましたから、大切なお家を守るのは、私達しかいませんでしたからね。とは言え、とても頼もしい伴侶なディノが一緒だったのですよ!」
「ほお、ムグリスにはしてなかったんだろうな?」
「キュ?」
「ディノはその時は人型でしたよ。何かあるといけないからと警戒してくれて、私を持ち上げて森を歩いてくれたのですよね?」
「キュ!」
森で出会ったのは、シルハーン曰く砂の系譜の精霊の祟りものだったそうだ。
シルハーンがそう判断したのなら、まず間違いなくその通りなのだろう。
精霊で、よりにもよっての砂の系譜など、厄介でしかないものをどうして安息日に引き当ててしまうのか、この様子だと今後も目が離せないと考え、アルテアは渋面になる。
昨年の年始の安息日は、大晦日の日の呪いが間違いなく解けているのかどうかを調べる為にリーエンベルクに戻るようにしたが、今年は、年末にかけてのかなり長い時間をリーエンベルクで過ごしていたので、年始はさすがにもういいだろうと目を離していた。
その僅かな隙にまた妙なものに出会ってしまったのかと思えば、渋面にもなろうというものだ。
「砂の系譜のものは少々厄介だということになり、ウィリアムさんに相談してみたのですが、滅ぼしに来てくれるというウィリアムさんの到着前に、つい出来心でその霧の中にぞうさんボールを投げ込んでみたところ、容易く虫の息になりました…………」
「二失点だな」
「なぬ…………………。その結果、そやつは私を崇め、自分の固有魔術の呪いを献上しましたし、最後はきっちりウィリアムさんが剣で滅ぼしてくれたのですよ?」
「キュ!」
ウィリアムの到着前に攻撃をしかけたとなると、その際に反撃があり、重篤な障りを受けた可能性もあるのに、可動域が九しかない人間はけろりとしている。
おまけにウィリアムは、何かを絶つということにかけては万全であるが、細やかな魔術の動きの追尾や解析は、あまり得意としていない。
うっかり些細な魔術の罠を見逃したでは済まされない問題において、頼っていい相手ではないのだ。
「で、どんな呪いなのかは確かめたのか?使わせることで、所有者を呪うものもあるが、大丈夫なんだろうな?」
「後日、ダリルさんと、たまたま同じ日に、ディノに魔術通信のカードを届けに来てくれたアレクシスさんに相談し、動作確認をして貰いました。呪いをかけた相手を、ざらざらの黒い砂で飲み込んでしまい、沼地に捨ててくるとても恐ろしい呪いなんですよ」
「キュ!」
「………………インビウムの黒砂の呪いだな。砂礫の精霊の固有魔術だ……………」
それは、砂の系譜の最高位の魔術の一つだ。
大したことがないような表現にされてしまっているが、小さな国一つを漆黒の砂嵐で飲み込み、地中深くに引き摺り落とすことも出来る、災厄級の魔術の一つである。
ただ、確かにネアの可動域では、標的にした一人を沼地に引き摺りこむのがせいぜいだろう。
「ダリルさんにも、そんな名称を教えて貰ったような…………。アレクシスさんからは、その精霊の領域のものは美味しくないという豆知識もいただきました」
「……………あの男の規準は、今後一切あてにするな」
「なぜなのだ」
ネアは不服そうだったが、アレクシスと言えば、ウィームに住む人間の領域の最高位の白持ちではないか。
とは言えその可動域の計測が厳密に行われたのは五年前のことで、あれだけの資質をその肉体に定着させられたのかどうかは、甚だ疑問である。
当時は、髪と爪に白を持つ人間という、怪物じみた条件を整えていたが、人間という生き物の肉体に複数要素の白を固定させるというのは、理論上は不可能に近いものだ。
(おまけに、ガルディアナと呼ばれるカルウィの王子とは違って、あの男の白の作り方は蓄えだからな……………)
カルウィには、魔物と魔術勝負をしてその身に持つ白を奪った王子がいる。
そのように、特定の白持ちの者と魔術的な誓約の下に引き継ぐ、或いは奪う白であれば、持ち主の資質と共にある程度の定着は望めるだろう。
その場合は、必ず持ち主に紐付く魔術証跡が結ばれ、見る者が見ればその白がどこから継承されたものなのかを調べることも容易い。
所謂、魔術の約束の下に継承する、遺産としての白である。
しかし、あのアレクシスという人間は、身に備えた白に元々の持ち主がいない。
スープの魔術師などという通り名を戴いているが、まさにそのスープから摂取された魔術を体の中に蓄積してゆくことで、唯一例外的に、人間そのものの内側から派生した白持ちの人間なのだ。
本来は魔術を通すだけの回路しか持たない人間が、無理矢理その回路に膨大な魔術を詰め込まれ、内側から染められてしまった成れの果てのものだが、そんなことをすれば、大抵の人間は死ぬばかりだ。
生きているということ自体が不可解である、人間の中の変異体に近しい。
あの観測が行われた年にどんなスープを飲んでいたのかは謎だが、今もなお健在であるということは、身に宿す白は少なからず削ぎ落としたのだとは思う。
でなければ、生き延びている筈がない。
(昨年のサムフェルの入場基準は満たしていたようだから、ある程度は、白を残してはいるんだろう。生来の魔術貴賎はあまり高くない。となれば、白を持たなければ、あそこまでの階位は維持出来ないからな………)
余談だが、サムフェルに入場可能な魔術階位というものは、おおよその予測の名簿が、アクスの調査で出回る。
大口の顧客が階位を落して訪れないとなると店側にも損失が出かねないので、ある程度順位をぼかした該当者達を、知られている限りの通り名や、身体的な特徴などで記した名簿のようなものが作られ、ごくごく限られた者にだけ公開されるのだった。
ノアベルトのように、階位を低く見積もられたままで情報を訂正せず、本来の階位を明らかにはしていないという厄介な者もいれば、精霊のように、その気分によっての階位の変動が大きいが故に、直前に大きな入れ替わりが起きる場合もある。
名簿に記す者は、託宣や予言の魔術で選出され、そこに昨年の入場者の情報をも合わせて審議されるのだから、手に入れておいて損はない名簿でもあった。
昨年もそこには、スープの魔術師の名前がしっかりと刻印されていた。
あのおかしな人間はまだ生きているのかとうんざりした記憶があり、加えて昨年の終わりには、ネア達の契約に纏わる一件を経て、ダリルから、あの男がネアを可愛がっていると聞いて辟易とした。
かたんと、硬質な音がして駒が動く気配があり、先程の盤上を一瞥する。
先程まで、アルテアの側の白い駒で囲まれていた黒い竜の駒が、自分を囲んだ駒を一つ後ろに後退させているではないか。
「………………おい」
「なぜこちらを見るのかわかりません。竜さんが、自力で魔術師さん的なやつを威嚇しただけなのでは……………」
「…………あの状況を整えるのに、どれだけ調整したと思っているんだ。お前が関わった途端にこうだぞ……………」
「なぜに責められる風なのでしょう。解せぬ」
ネアは不服そうに眉を寄せていたが、そのまま勢い付いたものか、夏影の竜は、アルテアが敷いた特殊な包囲網をあっという間に突破してしまった。
今度からはあのテーブルを、ネアの目に触れない奥の工房に移そうと心に誓い、タオルで拭かれている間に、すっかりアルテアの膝の上で眠ってしまった銀狐の首筋を掴んで床に下す。
目を覚まして必死に首を傾げている銀狐を呆れた目で見下しながら、深く息を吐いて立ち上がった。
「俺が食事の下拵えをする間は、大人しくしていろよ」
「お味見のお手伝いをします!」
「いらん。邪魔をするな」
そう言ったのにもかかわらず厨房までついて来ようとするので、ネアには砂の海の断面を切り取った図鑑を与えておき、大人しくさせておかなければならなかった。