大事なお客と新しいレシピ
「兄さん、ネア様のこと随分気に入ってるでしょう?」
リーエンベルクから帰って来てた日は、幸いにも定休日だった。
部屋にやってきた妹にそう言われて、そうだろうかと首を傾げる。
言われてみれば確かに気に入っているのは間違いない。
でもそれは、妹が眉を寄せてじっと観察の眼差しを注ぐような理由ではなく、あの少女がいつも、初めて食べ物を与えられた小さな獣のようにアレクシスのスープを飲んでくれるからだ。
だからアレクシスはいつも、あのお客が来ると正面の席に陣取る。
ネアはいつも、真剣にメニューを吟味するが、お勧めのものを教えてやれば必ずそれを選んだ。
どのスープも飲んでおき、その中のお気に入りのものを延々と頼み続けるのがネアの嗜好で、そこまで執着を示されるのは料理人としての欲を堪らなく満たしてくれる。
新しいスープを出せば、まず出てきたスープを何方向からか眺めて目を輝かせると、匂いを嗅ぐ。
そこで幸せそうに唇を持ち上げ、深い溜め息を吐くのだ。
スプーンを持ってからは、思いがけず少しずつ飲むのがネアの飲み方である。
店に通う信奉者達は優雅だと誉めそやしているが、思うように食事が出来なかった頃の癖でちびちびと食べてしまうのだと本人から聞いて成る程と思った。
スープの全てを計算して均等に味わい、時折その味を噛み締めて身震いする。
気に入ったものほど一心不乱に飲み続け、邪魔を許さず、決して誰であれ分け与えない。
婚約者である契約の魔物にも、自分のスープは自分で頼むようにと徹底させているのが、ネアのやり方だ。
新しいものを頼む時には、最初から二種類を取って分け合うという頼み方もするが、やはり一つのものを自分でという楽しみ方が彼女流なのだろう。
実はこれは、アレクシスの流儀でもある。
アレクシス達の店のスープには魔術的な効能があるものも多く、材料や調理に拘り、それなりに苦心して作り上げたレシピのスープばかりだ。
出来れば一人前を一人で飲んで貰えると、薬効や付与効果なども綺麗に定着するものばかり。
なので、口に合わなくて残す場合は体質に合わないことが多いので仕方ないのだが、あれもこれもと注文して残してしまったり、お喋りで冷ましてしまうお客や、飲み回しで味を混ぜてしまうお客を見ていると、アレクシスはひどくがっかりする。
妹には、お客様はお金を払って注文しているのだし、食べ物は楽しいのが一番だから寛容にと叱られるのだが、こればかりはアレクシス自身の好みなので変えようがない。
よって、アレクシス渾身のスープはメニューに出さず、お気に入りのお客にだけ勧めることも多かった。
(その点、ネアはいいな。味の好みも似ているから自慢のスープは大抵大喜びするし、表情や言葉で美味しかったと伝えてくれる…………)
つまり彼女は、アレクシスにとっての理想的なお客なのだ。
一番好きなのが、食べ終わった後に満足げに深い息を吐いてから暫くすると、空っぽのスープ皿を見て悲しげに瞳を揺らすところだ。
お代などいらないので、お腹いっぱいに飲ませてやりたくなる。
寧ろ、この家に住んでくれれば、三食美味しいスープを飲ませてやるのに。
「……………ネアが娘だったら、毎日美味しいスープを飲ませてやるのにな」
「……………ああ、そっちなのね…………」
「ディノという、あの契約の魔物も気に入っている。あれだけ高位の魔物が、ネアへの執着を威嚇しながらも子供のように目を輝かせてスープを飲むのが堪らない。可愛いとしか言いようがない……………」
「……………兄さんは、未婚の時間が長過ぎたのかしら。先に父性に目覚めちゃったのね…………。エーダリア様は?」
ここで、妹が期待に満ちた目でこちらを見ていることに気付いた。
今回アレクシスがダリルの提案を受けリーエンベルクに出掛けていったのは、あの雪煙のオレンジを求めてのことではあるのだが、この妹からの猛烈な後押しがあったことも否めない。
よりによってダリルは、わざわざ店に来て妹や他の領主の信奉者の前で、仕事の依頼をしたのだ。
「……………俺は魔術師が嫌いだが、エーダリア様もいい表情だったぞ。店に来る時にはまだ硬さもあったが、リーエンベルクでスープを飲む時には、こう、ほろりと喜びが滲むような表情でな………」
「兄さん!そこを、もっと詳しく!!」
「はは、お前はエーダリア様が好きだなぁ……………。うわ、押さないでくれ、話すから!」
アレクシスは、魔術師が嫌いだ。
料理人であることを最良とし続けるアレクシスを軽視したり、理解出来ないと呆れる者達が多かった。
親交を深めて理解があると思っていた者達も、アレクシスのスープに付与効果があると知れば、スープの味わいではなくそちらに恩恵を見出した。
良いスープを作る筈だった材料を狙って暗殺されかけたり、レシピを魔術薬の調合の為にと盗まれそうになったこともある。
だからアレクシスは、店を開いても旅を続けて新しいスープを作り続けた。
最初の旅の理由は失望と怒りからで、その内に世界には食べ尽くせない程のスープの材料があると知った。
それを知り、その至高の味わいを楽しめない者達を哀れに思えるようになる頃には、アレクシスの魔術師としての階位は容易に暗殺などを許さないところにまで到達していたようだ。
妹が、アレクシスが伴侶を持たないことを案じているのは知っていたが、どんな女性も、スープの飲み方までが好みに合致しなければ途端に魅力を感じなくなるので、我ながらなかなかに難しいなとは思っている。
しかし、アレクシスはそれこそをと望んでしまうので、なかなか相手は見つからなかった。
勿論家族を得たいという欲求がない訳ではないし、人並みに女性を好きになることもある。
とは言え、アレクシスにとって何よりも大事なスープに纏わる欲求を抑えてまで、そんな誰かと生きてゆきたいとは思えないので、自分の中でそちらの比重は、さほど大きな欲求ではないのかもしれない。
女性としては珍しくネアは気に入っているが、あまりにも低い可動域から、恋人としてはどうしても見られないのが難点だ。
魔物が伴侶として選ぶくらいなのだから、魔物にとっては問題ないことなのだろうし、国によっては可動域が低くとも成人扱いとなる場所もあるが、ウィームで育ったアレクシスにとってはやはり難しい。
(寧ろ……………)
「……………ネアを養子に出来たらな。娘婿で、ディノもついてくるだろう?お前の好きなエーダリア様もついてくるだろうし、あのほこりも名付け子でついてくる…………。雲の魔物もなかなかにいい食べっぷりだった」
「兄さん、お客様に非合法なことをしたら許さないわよ?それと、あの方は随分な高位の魔物でしょうに。勝手に名前で呼ばないの!」
「…………お前は、エーダリア様を悩ませたら許さないだけだろう」
「あのお嬢さんだって魔物さんだって、私の大事なお客様です!」
厳しく叱られたので渋々言葉を収めたが、妹は、あのお客達がどれだけ稀有な存在なのかを知らないのだ。
そもそもネアのように、可動域が低く抵抗値が飛び抜けている人間はまずいない。
可動域を上げることが出来ない永遠の子供の数値持ちであるからには、ネアは、アレクシスにとって、この先もずっと純粋にスープを楽しんでくれる大切なお客だということだ。
抵抗値が高いのでスープを飲み体調を崩すこともないので、可動域が関係ない守護などはじゃんじゃん増やしてやれる。
(ディノやほこりも、スープの付与効果が与えられても気にならない相手だし、本人達もそのようなものはどうでも良さそうだ…………)
エーダリア様については、かなり材料や付与効果を気にしてしまうものの、その部分の興味と、スープを楽しむことを分けて考えられる天性の才能があるらしい。
こちらは息子にしたいと言うほどではないが、今迄出会った魔術師の中ではかなり好ましいし、いち領民として見れば、アレクシスもエーダリア様は大好きである。
雲の魔物については、付与効果のあるスープは出せないが、美味しいとすぐに表情に出るし、スープを飲み切ってしまった時の表情はネアそっくりだったので、隠れた逸材を発見してしまった。
(ヒルド様は却下だな。個人的には好きな御仁だが、スープの楽しみ方はなっていない…………)
雲の魔物と一緒にいたイーザという霧雨の妖精も、スープを楽しんではくれていたが、気質的なものか反応が薄いのが惜しいところだ。
店で仲間達とネアの話をしている時はその比ではないので、彼の一番はやはりネアなのだろう。
そう言う意味では大事なお客を守ってくれているので、あの妖精は好きだ。
(とは言え、伴侶になる前に付与効果のあるスープを飲ませておいたから、…………あのジャムの量だと、二回程は死んでも大丈夫なんだがな…………)
契約の魔物であるディノとの婚姻にあたり、アレクシスは特別なスープをネアに飲ませておいた。
その時に、ダリルに店への招待状をそれとなく渡して欲しいと頼み、今回の依頼に繋がる貸しを一つ作ってしまった訳だが、大事なお客達を失う訳にはいかなかった。
ディノにも特別なスープを飲ませて目的を達成出来るようにしておいたので、晴れて二人が伴侶になった時には、らしくなく感動してしまい涙ぐんでいたところを妹に見られて呆れられてしまった。
なぜ店の客にそこまで執着するのかと、そんなことを言う者もいるだろう。
だが、スープを作ることがアレクシスの生きる理由であるように、それを楽しく飲むお客を大事に思うのも、アレクシスが生きる為には必要なことなのだ。
妹が部屋を出て行くと、貰ってきたオレンジや、その他にも菜園や森で収穫させて貰った食材を金庫から取り出す。
まずはこの中ですぐに料理出来るものはしてしまって、雪煙のオレンジのように合わせる食材が難しいものは、より高性能な状態保存の金庫に移し替えておこう。
擬態を解いて髪を僅かな紫がかった白色に戻すと、持っていた髪留めで適当に一本結びにした。
今は少し長くなったので、一本に縛ったり、訪れる国によっては複雑に結い上げたりしている。
白持ちである部分であるので、伸びたということは魔術階位を上げたということなので、最近食べていたものに何か作用した食材や組み合わせがあったのだろう。
(髪や爪は、幾らでも擬態がきくんだが、血が面倒なんだよなぁ…………)
血を流すような場面ではそれなりに追い詰められている場面も多く、零さないように魔術を展開し、その上で色の擬態までとなるとなかなかに厄介なのだ。
そろそろ、血が赤くなる食べ物でも探すべきかもしれない。
そのまま葉物の下拵えや調理を終えてしまい、ついでにお気に入りのナイフや包丁類の手入れも済ませると、いつの間にかもう午後も半ばに差し掛かっていた。
簡素な部屋着に着替えた後は、試作品のスープをお供に、世界各地の詳細な地図とスープ作りの計画書を広げ、次の旅の準備に取り掛かる。
ダリルが最初に近付いてきたのは、アレクシスのこの地図が目当てであったが、その内にスープ以外のところで気が合い意気投合した。
アレクシスがスープに向けるような情熱をダリルは本に持っており、代理妖精の仕事における有用性がない相手だと、付き合いを持つかどうかは本への愛情で判断しているらしい。
付与効果目当てで弟子達を店に送り込むのは不愉快だが、ウォルターという青年については、隠してはいるものの、食道楽の気があるので悪くはない。
そんなことを考えていたら、ふと、あの少年達はどうしているだろうかと考えた。
かつて、異国で各国の王子達が集まる式典のようなものがあり、外遊中の王子達が集まった土地で祟りものになった竜による凄惨な事件が起きた。
たまたま通りかかったので、二人の少年と一人の騎士に知恵を貸してやったことがあったが、それは、その騎士のスープの飲み方が気に入ったからであった。
(王子達の方は、それぞれヴェルクレアとカルウィの王子だったが、今も交友は続いているのだろうか。…………もう一人はランシーンの騎士だったな。ほんの少しの時間を共に過ごし、知恵や力を貸してやっただけだが、あの騎士がどうなったのかを見る為に、ランシーンに行ってみるのもいいかもしれない……………)
あの頃はまだ様々な迷いを抱えている青年だったが、もう、とうに立派な大人の男性になっているだろう。
野営のテントで振る舞ってやったスープを美味しそうに飲んでいた姿を思い出し、時間の流れは早いものだなと考える。
スープを作っているだけなのに、あっという間に時間は流れて行ってしまう。
そう考えると、自分はお気に入りのお客にスープを飲ませる機会を、こうしている間にも、どれだけ失っているのだろうとも考える。
(……………次に旅に出る時には、ネアに魔術通信用のカードを渡しておこうか。…………だが、ディノに渡しておいて、あの魔物から、スープが飲みたいと言わせてみたい気もするな…………)
あの星鳥も気に入ったが、何でも食べてしまうというところで、ほんの僅かな減点があり、やはりネアとディノの二人が現在一番のお気に入りである。
旅先から、次はこんなスープを作るぞと連絡出来たら楽しいに違いないと考えると、創作意欲も掻き立てられるではないか。
視線を落とし、自前の魔術金庫から取り出した、リーエンベルクのオレンジを眺める。
このオレンジは幸福感を強める祝福と相性がいいので、その系譜の守護や属性を持つ氷河鴨や、春靄羊と組み合わせれば良いスープになるだろう。
早くそのスープを作ってやって、ネアとディノにも飲ませてやりたい。
(その為にはまず、氷竜も食べるという氷河鴨や、百年ほど目撃例がない春靄羊を探さないとだな…………)
お気に入りの手帳を出し、手に入れるべき食材と考えたレシピをつらつらと書き付ける。
氷河鴨を狩るにはまず、氷河の系譜の最高位の魔術を一つくらいは習得しておくべきに違いない。
(春靄羊については、ネイアが狩場を知っていそうだな……………)
海の方面はとんと響かないようだが、この大陸にある森や山の獣であれば、そこで暮らす希少動物についてはネイアが生息地を知っていることが多い。
明日になったら連絡をして聞いてみよう。
「…………それにしても、氷河の系譜の魔術はまだ最高位のものを持ってなかったのか。…………おちおちスープも作れないな」
少しだけ情けない思いでそう呟き、その系譜の魔術の贈与や祝福が可能な、特等の生き物を探さなければと考える。
やるべきことはまだまだ沢山ありそうだ。