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告白の躊躇いと檸檬狐




部屋の中は、ほこほことしていた。

いつの間にか窓からの景色はウィームのものらしい雪景色に変わり、先程まで見えていた素晴らしい初夏の庭は雪に包まれている。


青みがかった灰色に乳白色の硝子の絵の具を刷毛で塗ったような素晴らしい床石は、魔術で温められて素足で歩いても冷たくはなさそうだ。

けれども、あくまでも冷たくはないという程度にしておき、きちんと暖炉にも火が入っているところが、いかにもアルテアの住まいらしい拘りだった。


魔術の火ではなく火の祝福を燃やしている暖炉は、煙などは出ないので煙突はないらしい。

暖炉としての術式を成していないからこそ、扉にはならない素敵なものだ。

ネアは先程から、祝福を燃やしたものでマシュマロは焼けるだろうかと気になってならなかったが、アルテアにマシュマロがあるかどうか尋ねたので、察してくれたかもしれない。




そして今、ここでは深刻な会談が行われているのだった。




「ここで告白してしまうのも、一つの手ですよ?」



ネアが、アルテアが席を外している内にと提案すれば、正面にもふもふぽてりとした足で踏ん張って立っている銀狐は、尻尾をけばけばにしてじりじりと後ずさった。

暖炉側に逃げてゆくので、お尻から燃えてしまわないように、ネアはまずそんな銀狐の体の向きを変えてやる。


なぜかアルテアは、とても大事な用事があるのでこの部屋から出てはならないと言い残し、ネア達を残して別の部屋に行ってくれている。

訪れた偶然のチャンスを、逃す訳にはいかなかった。


わしっと掴んで持ち上げられた銀狐は一瞬だけ尻尾をふりふりしたが、抱っこではなく体の向きを変えられただけで、この話し合いが続くのだと気付いたのか持ち上がった尻尾がぱさりと落ちる。


青紫色の瞳を震わせて、邪悪な人間に虐められた狐のような顔をしてみせるが、実際にはこちらにおわすは公爵の塩の魔物である筈なのだ。


見た目通りの少し小さめだが普通の銀狐なのは見かけだけで、ネアにとっては義理の兄にあたる元王族位の魔物なのだが、残念ながら銀狐の姿になるとその心の多くを銀狐モードに切り替えてしまう。



本来の魔物としての彼は、氷色の混ざる白い髪に青紫の瞳をした、女性問題の事件が絶えないものの魔物らしい美貌を持つ男性だ。


多くの人達に求められながらも心を空っぽにして享楽的に、或いは酷薄に生きてきた塩の魔物ノアベルトにとって、何の力がなくてもみんなが大事にしてくれる銀狐としての生活が、この上ない幸福な時間であるのはネアもよく知っている。


あまりにも銀狐としての時間を謳歌し過ぎて、魔物としての心を取り戻せるのだろうかと心配する者もいるが、ネアは、そのような時間があってぬくぬくと幸福に緩んでいるのは良い事だとは思うのだ。



(でも、次の予防接種までに本当のことを言っておかないと、アルテアさんの精神へのダメージが大変なことになってしまいそうで……………)



殆どの者達は銀狐が塩の魔物の仮の姿だと知っているのに、換毛期用のブラシを買ってくれたり、ご飯を作ってくれたり、予防接種に連れて行ってくれる、実は結構銀狐を可愛がっているに違いないアルテアだけは、その真実を知らないのだ。


自分だけ知らなかったその事実を知らされたら、きっと傷付いたアルテアは森に帰ってしまうに違いなく、ネアとしては、出来ればそんな使い魔が春告げの舞踏会までには帰って来てくれるくらいの内に、真実の告白を終えて欲しいと考えていた。



しかし、頑なにぷいっとそっぽを向いている銀狐を見ていると、本日はいたしませんという強固な意志を感じずにはいられなかった。




「……………むぅ、そのお顔は、告白しないようですね」

「キュ…………」



銀狐になってしまうと、脳内が、遊ぶ、寝る、可愛がられる、食べるで九割を占められてしまうノアには、ここで目先のボール遊びを諦めて真実の告白をするという選択肢はないらしい。

日々ボール遊びの研究に余念がない銀狐は、先程から何やら檸檬色のボールを隠し持ち、アルテアに投げて貰おうと虎視眈々と狙っているのである。


このままでは不利だと考えたのか、ネア達の前からムギーと鳴きながら駆け去っていった銀狐は、部屋の入り口のところで、内緒の用事から戻ってきたアルテアにあっさり捕縛された。

扉を開けたところで素早く銀狐を捕獲した選択の魔物は、自分の手の中のもふもふが、かつては自分より高位であった魔物だとは考えもしないのだろう。


責めるような眼差しでこちらを見る。



「おい…………」

「アルテアさん、狐さんを捕まえてくれて有難うございます」

「勝手に屋敷の中を荒らさないように、しっかりと見張っておけと話さなかったか?厄介な品物も多いんだぞ。ただの狐なんだろうが」

「……………なぜか、アルテアさんの背中を優しくぽんと叩いてあげたくなりますね」

「キュ………………」

「何でだよ」



お腹の下に手を差し込まれてひょいっと持ち上げられてしまった銀狐は、空中に浮いた手足をばたばたさせている内にそれが面白くなってきてしまったのか、尻尾を振り回して空中遊泳風の遊びを楽しみ始めた。

アルテアはとても呆れているが、日常の些細なことにも喜びを見出せることは、とても良いことだとは思う。


ただし、遠からぬ内に銀狐がノアであることをアルテアに告白するのだと思えば、これはとても胸を締め付けられる光景であった。




『…………やっぱり、アルテアにも早く言わないとまずいよね。もう、知らないとは思わなかったよって体にして、そのままにしておこうかなとも思ったけど、……………もう一度、アルテアに本当のことを言えるように頑張ってみるよ………………』



先日、ノアは、ネア達の部屋に来るなり深刻な面持ちでそう切り出してきた。


早くも薔薇の祝祭関係のすれ違いで異性関係の問題を起こしており、祝祭の日を一緒に過ごせないと知った恋人の一人に、食べきれなくて捨てられたヌガーの墓場に投げ込まれそうになったのだそうだ。


その際、誠実さというものに対してどういう考えを持っているのか、ヌガーの墓場を背後に臨んでの話し合いがあったのだとか。



また、ネアとの間に兄妹の契約を交わしたことで、意識の変化もあったようだ。


昨年末の様々な試練を共に乗り越えた仲間として、そんなアルテアに、最大の秘密を明かさずにいることに対する罪悪感も膨らんだのだろう。



使い魔のご主人様の目線で考えるに、この段階で銀狐の正体が明かされた場合、アルテアは、少なくとも一ヶ月くらいは森に帰る気がする。


ネアとディノで傷心旅行の準備は整えてあるが、告白が遅くなればなるほど、森に籠ってしまう期間は長くなるに違いないので、さてどうしたものかなと見守る中で、銀狐は、まだ無邪気に足をばたばたさせていた。



「すっかりご機嫌ですね………………」

「……………キュ」

「普段からちゃんと運動させてるのか?」

「アルテアさんは、一度、狐さんとの耐久誰の肩が死ぬかボール投げ戦争に参加してみればいいと思います………………」

「いや、普通に考えて疲れて寝るだろ」

「最後に狐さんと残された人が負けで、ディノは、六時間ボールを投げたことがあるんですよ」

「………………は?」



六時間もボール投げに付き合わされてしまった万象の魔物が衝撃的だったのか、アルテアは愕然と赤紫色の目を瞠った。


しかし、おもむろにすっと目を細め、何か不具合を見付けてしまった職人のような眼差しで小さく溜め息を吐くと、銀狐を床に下した。


楽しい空中バタ足遊びが終わってしまい、突然床に下されて首を傾げている銀狐をいとも容易くひっくり返して仰向けにするので何事かと思ったが、後ろ足の内側にあった毛の絡まりを発見し、どこからか出した毛皮用ブラシで梳かしてくれているようだ。




(こ、これは、本日は決して告白してはならない雰囲気になった……………)



こんな風に銀狐を可愛がっている日に秘密を明かされたら、アルテアの心の傷は深刻なくらいに深くなるに違いない。

永遠に森から帰ってこなくなる可能性もあるので、ネアは、告白イベントはまた今度にしようと早々に結論付ける。



冬毛なお腹を出して良きにはからえなうっとり顔の銀狐は塩の魔物であり、その毛の絡まりを解いているのは選択の魔物という、たいそう複雑な構図がここにある。


そんな運命の残酷さについてもう少し考えるべきかもしれなかったが、ネアは目の前に開かれた、銀狐のふかふかなお腹毛には逆らえなかった。



「ふかふかもふもふは正義です!私も撫でるしかありません。ていっ!」



人間の理性とはとても儚いものである。

ネアごときの脆弱な魂では、ふかふかのお腹には抗えず、アルテアがひっくり返してくれている内にと飛びかかり、便乗して銀狐のお腹を撫で回した。



銀狐はきゃっとなり、ムギムギ鳴きながら大喜びで尻尾を振り回して応戦する。

その際に、アルテアの腕を尻尾でぱすぱすやってしまった結果、ぎゅむっと尻尾を掴まれて動きを封じられていた。



「……………さてはアルテアさんは、尻尾派ですね?」

「……………毛が飛ぶから押さえただけだ。ちゃんと毎日手入れしてるのか?」

「狐さんのお世話はその日に遊んだ方がする習わしですが、昨日はヒルドさんなのでそんな見落としがある筈がありません。さては、大事にして貰う為にわざと…………」



そう視線を向ければ、銀狐はすすっと目を逸らしてしまう。

どうやら毛の絡まりは、ブラッシング目当ての罠だったらしい。


ネアも何度か目撃したことがあるが、この銀狐は、甘やかして貰う為にわざと毛玉を作って悲しげに鳴いてみせたりする、恐ろしくあざとい愛すべき毛皮生物でもあるのだ。



「悪い狐さんですねぇ………」

「…………………キュ」



ネアからの追求を避けようとして体を起こした銀狐は、アルテアなら守ってくれると思ったのか、その爪先にお尻を落として座り込みつつ、アルテアの足に体をぐいぐいと押し付けている。



「おい、やめろ」



これは銀狐の肉体言語によるところの、敵から守り給えのサインなのだが、アルテアの言葉に顔を上げ、自分が塩の魔物であることを思い出してしまったのか、銀狐は再びけばけばになった。

びゃっと飛び上がると、しゃかしゃかと床の上を走り回り、またしてもアルテアに叱られて捕縛されている。


けばけばになったまま必死に首を傾げている銀狐は、溜め息を吐いたアルテアの手で、ネアの腕の中に返還された。




「まぁ、狐さん、歯ブラシみたいになっていますよ?」

「キュ……………」

「ふふ。自分で思っているよりアルテアさんに甘えてしまうのですね。……………それにしても、この時期の狐さんは至高のもふもふですね。特にこの、お腹からお尻にかけての冬毛が堪りません。一緒に寝たら気持ちいいでしょうね」

「キュ?!」



抱き上げていると、手のひらでみっしり詰まった冬毛のふかふかを感じることが出来る。

ほうっと満足の息を吐いてそう呟いたネアに、今度は胸元からご主人様を見上げていたムグリスディノがちびこい三つ編みをへなへなにしてしまった。



慌ててよじよじとネアの胸元から這い出すと、ネアが抱き上げた銀狐の背中の上に移動して、そこでぱたんと仰向けに倒れてみせる。



「キュ!」



何ともいじましいこの伴侶は、ネアにお腹撫でをさせてくれるらしい。




「まぁ、ディノを撫でてもいいのですか?」

「キュ」

「では、ゆっくり撫で回せるところに移動しますね。…………アルテアさんも、ちびふわになりますか?」

「やめろ」

「では、そちらの長椅子でムグリスディノと狐さんを撫でていますので、もし、加わりたくなったら言って下さいね」

「ならないから安心しろ」



あまり素直ではない使い魔だが、これでも純白の雪豹風白けものや、ちびちびふわふわするばかりのちびふわになってしまえば、ご主人様の撫で回しに夢中である。

特に、ネアに正体がバレていないと信じている白けものの擬態の時には、優雅で美しい猛獣が、尻尾の付け根をこしこし撫でるとふにゃんとなってしまい、たいへん愛くるしい。




「アルテアさん、今年の初白けものさんには、いつ会えますか?」

「さてな。…………仕事の通信だな。俺が戻るまで、大人しくしてろよ?」



それは、唐突な変化であった。

特に呼び出し音が聞こえた訳ではないが、眉を寄せて低く冷たい声でそう言うと、アルテアは素早く部屋を出ていってしまう。


ネアはちょうど、長椅子に座って膝の上に乗せた伴侶のむくむくのお腹を、指先を使って心ゆくまで撫で回していたところだったが、アルテアの瞳を素早く過った疲弊の影のようなものが少し気になった。


撫で回され過ぎてしまい、丸まってぴくぴくしているムグリスディノをそっと抱き上げると、ネアの膝に体を寄せてお昼寝に入るところだった銀狐を長椅子に残して立ち上がった。



くるくる回ってネアに寄りかかり、ちょうどいい形に収まったところだった銀狐は、お尻留めなネアが動いてしまい、慌てて立ち上がってムギムギと抗議に足踏みしている。


しかし、ネアが扉の隙間からこっそりお仕事通信なアルテアを覗こうとしてると知り、しゅたんと床に飛び降りてこちらにやって来た。



ネアは、そんな銀狐に人差し指を唇にあてて見せ、開けっ放しということなどなくきちんと閉められた扉を、熟練のテクニックでそうっと開いてゆく。

これは、遊び始めてしまうと無休のボール投げ運動を強要してくる銀狐が、ボールを咥えて次の犠牲者を探すべく続き間に潜んでいないかどうかを探る為に、磨き抜かれた技術であった。



(…………通信な会話ということは、個人的な魔術通信を繋いでいる程の相手なのだわ……………)



それでいて、どこか嘲るような冷たい目で唇を歪めながらも、疲弊しきったような苛立ちを隠さないのだから、かなり手を焼いている相手なのだろう。


この使い魔はとても困った暇潰しをしていることも多く、時として、かなり危ない橋を渡っている。


一昨年の夏には、かつて罠にかけた相手に魔術を返され、一時的にではあるものの自由を奪われてしまったこともあるので、彼を使い魔にしているネアとしては、注視しておかなければならないところであった。



(…………開いた)



決して焦らず、ゆっくりとドアノブを動かして扉を引けば、音もなく微かな隙間が生まれる。


ふわっと扉の向こうの空気が入り、廊下で話すアルテアの声が聞こえてきた。

盗聴に挑みながら言うのもなんだが、こうして声が聞こえてしまうところで仕事のやり取りをしてしまうのも、いつものアルテアらしくない。



「…………いえ、構いませんよ。…………それは承服致しかねます。姫君、私にあまり無理を仰りませんよう。……………おや、困りましたね………」




そんな会話が聞こえてきてしまい、ネアは目を丸くすると、そっと扉を閉じた。

閉じた扉の前でムグリスディノと銀狐と無言で視線を交わし、呆然としたまま長椅子に戻る。



(……………敬語のアルテアさんは、かなりレアなのでは……………)



そう思ったのは、ネアだけではないらしい。

ムグリスディノも目を真ん丸にしているし、銀狐も尻尾がけばけばだ。



「キュ……………」

「ああいう使い魔さんは、初めて見たので驚いてしまいました。あの様子ですと、お相手はお姫様ですよね。…………もしかすると、恋人さん、……………は!それとも、新しいご主人様候補かもしれません…………!」



考え事をしている手の中にむくむくの毛皮生物がいるので、ネアはついつい習性で撫でまわしてしまい、先程もお腹撫でをされたばかりのムグリスディノは、こてんとなって意識を失ってしまった。


うっかり撫ですぎてしまったとはっとしたところで、背後からずしんと頭の上に手を乗せられる。



「おい、俺は、大人しくしていろと言わなかったか?」

「むぐ?!首がぐきっとなったのでやめていただきたい」

「仕事の話を、扉を開けて盗み聞きしていたのはお前だろうが」

「……………アルテアさん、もしかして新しいご主人様と、上手くいってないのですか?」

「…………………その質問に辿り着いたお前の思考はどうなってる……………」

「先程の会話は、お姫様に仕える騎士さん風の口調でした。でも、……………お部屋を出る際に、何だかとても疲れているように見えたので、何か問題があるのかなと思ったのですが………………」



そう言えばアルテアは微かに瞳を瞠り、ややあって、肩を竦める。



「…………………近く、動かす予定の国の皇女だ。思い込みの激しさが精霊並で、要求が多くてうんざりはしているが、それだけだ。お前が気にするようなことはない」

「……………以前のように、実は捕まってしまっていたりしません?」

「あの女に?有り得ないな」

「それでも、何か困ったことになったら、教えて下さいね。それと、ちびふわな靴下はもう脱いでしまったのですね。お家で履いていてくれると知って嬉しかったので、もっときちんと見せて欲しかったです……………」

「……………………は?」

「あら、自分で編んだものを履いて貰えているのに、私が気付かないと思いました?……………そして、狐さんにボールを押し付けられていますよ?」



どこに隠し持っていたのか、先程から見たことのない綺麗な檸檬色のボールを咥えている銀狐が、なぜか固まってしまったアルテアの足に、ぎゅうぎゅうとそのボールを押し付けている。


ここでうっかりボールを受け取ってしまうと、終わらないボール投げ地獄が始まるのだが、アルテアはなぜか引き続き集中力を欠いていたものか、手を伸ばしてそのボールを受け取ってしまった。



その直後、ぼふんと音がした。



もくもくとした魔術の煙までが上がり、ネアは慌ててその煙から遠ざかる。


銀狐が咥えていたものは、どうやらボールではなかったらしい。


煙が晴れたその向こうにいたのは、綺麗な檸檬色に染まってしまった銀狐と、同じく片手を檸檬色にしてしまって、何とも言えない悲しい目をした選択の魔物である。



「まぁ、…………染め粉玉だったのですか?」

「……………………檸檬の木から抽出した、魔術移植用の肥料だ」

「ひ、肥料となると、狐さんの体に害はありますか?!」

「物としては檸檬だからな、大した問題はない。ただ、色が変わった部分を舐めるなよ?」



もはや怒るよりも遠い目になってしまったアルテアは、丁寧に忠告までしてくれたのだが、銀狐はかえって興味をそそられてしまったようだ。


ちょびっと舌を出して自分の前足を舐め、その途端、ムギーと悲鳴を上げて部屋の中を駆けずり回った。


尻尾や背中の毛が逆立っているだけでなく、耳の毛までけばけばになってしまっているので、ネアはひやりとしたが、アルテアが酸っぱいだけだと教えてくれた。



「酸っぱい、…………のですね」

「本来は畑などの土壌に埋めて、檸檬の果実の要素をそこで育てる植物に付与する為のものだからな。………………ったく、あれ程野放しにするなと言っておいたのに、目を離すからだぞ」

「……………ということは、アルテアさんの手も檸檬味なのですか?」

「ほお、試してみるか?」

「この手でパン生地を捏ねると、素敵な檸檬風味になったり…………」

「やめろ。やらんぞ」



ぞんざいにそう言ったアルテアの視線が、足元に落ちる。

早くこの酸っぱい体をどうにかして欲しいと、銀狐ならぬ檸檬狐が、前足でたしたしとアルテアの爪先を踏んでるのだ。



「知らん。浴室を貸してやるから、勝手に洗ってこい」

「………………むぐ。……………誰が、…………狐さんを…………?」



ネアが悲しい目で見上げると、アルテアは、天井を仰いで暫く無言になった。


ここにいるのは、ムグリスになってしまっている万象の魔物と、可動域が土筆のように上品過ぎるネア、更には、アルテアはただの銀狐だと信じている塩の魔物しかいない。


恐らく今回の事故は魔術添付なので、可動域の低いネアには魔術洗浄は出来ない。

更にはムグリスな伴侶は、先程、ネアに撫でまわされてしまったせいで、未だにへなへなだ。

人型の魔物の王様に戻って貰うには、生き返るまで待って貰うしかない。


それでは待てないと思ったのか、銀狐はぐぐっと肉球に力を入れて、アルテアの爪先に体重をかけていた。

その様子をじっと見下ろし、けばけばで涙目の銀狐に絆されてしまったものか、アルテアが深く息を吐く。



「…………………ったく。ついてこい」

「私は今、アルテアさんがいつか森に帰ってしまいそうで、たいへん不安な思いです……………」

「なんでだよ。それと、いい加減にその森の設定をやめろ…………………」



銀狐はその後、アルテアのシャンプーがあまりにも気持ち良かったのか洗われているあいだにぐーっと寝てしまい、高価そうな洗浄剤で洗って貰ってふかふかの艶々の美狐に生まれ変わっていた。


凄艶な美貌を持つ魔物に檸檬色の狐が洗われている姿はとても微笑ましかったが、ネアは、銀狐の真実を知ったアルテアが、今日のことをどんな気持ちで思い出すのかを考えるといたたまれなくなった。



せめて今夜は、何も知らずにネアの義兄をお風呂に入れてくれた使い魔を、大事にしてやろう。


そう思ってきりりと頷けば、何の悪巧みをしているのかとたいそう訝しまれてしまったので、大変遺憾な思いである。




















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