細工石とオーブンの昼食
眼鏡を置いて顔を上げた。
手元の特別な蝋燭の火を消し、細工の調整をしていた祝福石を台座に戻しつつ、深い息を吐く。
公爵位の魔物が自らの血で作り出す祝福石は、その当人にしか細工が出来ないものだ。
結晶化させただけでも潤沢な力を備えているので、自身の祝福石に細工までを施す者は滅多にいないだろう。
とは言え、これで数々の魔術を編むのだから、どこまでも精緻なペン先としてこの細工は必要となる。
アルテアはこの祝福石を杖の石突きに嵌め込んでいるので、細かな調整が必須となるのだった。
これだけの細工を施しておけば、杖の先で引ける魔術の線は針より細くなり、微かな動きでより多くの術式を編めるようになるのだ。
予備石と角度を少し変えたものを含め、全部で五つの祝福石を彫り終えた。
(……………だとしても、三時間もかかったか………)
窓の外の日の傾きに視線を向ければ、いつの間にか昼になっていたようだ。
立ち上がり、机の上や道具に残ってた祝福石の欠片を魔術で消滅させ、工房の中に立ち込めた蝋燭の香りを消す為の鈴蘭の香を焚いた。
しゅわりと音がして小さな香木の欠片に青白い炎が燃え上がり、黄緑色の火花を上げる。
だがそれは一瞬で、すぐに青磁の皿の上でぼうっと光る青白い光の欠片になった。
祝福石の細工に使う蝋燭は、迷い道の魔術を型で固めたものであり、削られた祝福石の欠片を、作業中に思わぬ出来事があっても決して外に出さないようにしている。
とは言え作業後にはその魔術を払わないと、アルテア自身も工房から出られないのだ。
窓の外の庭には、木漏れ日がちらちらと揺れていた。
満開の花を咲かせて重たい枝を下げたライラックは、薄紫の花に霧の祝福を受けた灰色の花も咲かせている。
この木は、苗から育てた時に霧や雨の浸透が良くなる湖の揺らぎ石と、月光や星屑の受け皿となる夜空の糸巻きを根に絡ませてあるので、様々な魔術の祝福を花に集めることが出来た。
薔薇や百合のような一輪の花がしっかり咲くものの方が植物としての魔術階位は高いが、細やかな花が多く集まって咲く花を持つ木は、その幹で複数の属性の魔術を受け止められるので、手をかければこれだけの花を咲かせるのだ。
その花が風に揺れる光景を窓から眺め、森の奥に煌めく湖の色に目を細めた。
ここ数日で万象の祝福が色濃く落ちたウィームの情景をこちらにも反映させておいたので、あの湖の蓄える魔術もかなり濃密になった筈だ。
木々や湖は祝福を溜め込み易く、泉と岩は怨嗟を溜め込み易い。
他にも様々な相性があるので、あえて怨嗟や呪いばかりを育てている土地もある。
かつて、あわいの列車でネア達が押しかけて来た城も、本来は、あまり良きものを整えることには向いていない。
だからこそ、呪いを受けた身を整えることには長けていたりもするし、呪いや怨念は、時として気に入った者に聖なるものよりも強く無垢な祝福を授けることもあった。
あの土壌が、ネアに与えた結晶石の薔薇がまさにそうだ。
通りかかったネアの魂に何を見たものか、彼女に驚く程にまっさらな祝福を授けていた。
土地に残る思いともなれば、アルテアにも、こっそり調べさせたシルハーンやノアベルトにもその真意は分からなかった。
ただ、シルハーンによれば、庇護に似た柔らかな愛情を感じるらしいので、ネアの持つ履歴のどこかに、あの城の土地に残る履歴に似たものがあったのかもしれない。
『或いはそれは、あの土地を手に入れて整えている君自身の資質が齎したものかもしれないよ?』
曇天の下で虹持ちの白い髪が揺れる。
こちらを見て微笑んだ、そのシルハーンの鮮やかな夜明けの空の色の瞳を思い出し、微かに眉を顰めた。
(……………あいつのことだからな、どうせまた、………………余分の方だろう)
無意識に祝福を与えてやるという行為から、アルテア程に離れた存在もないだろう。
恐らくあの人間はまた、こちらが見ていないところで余分な祝福を拾い集めていたのだ。
そう結論を出し小さく頷くと、細工を終えた祝福石を月光と雪影を織り上げた布で磨く。
すると、血の色そのままだったふくよかな真紅の石が、白い結晶石に色を変える。
魔術を冷まし血色を拭ったら、これで漸く完成だ。
(時間はかかったが、誰の邪魔も入らない環境で、尚且つある程度の時間が取れる日でないといけなかったからな…………)
完全な遮蔽と専用の施設が必要になる祝福石の細工は、このような日でなければ細工に時間を割けないので、やっとこの作業が終わったことにほっとする。
昨年末までは、ネアが無事にシルハーンの伴侶になれるのか危うい場面が多く、いつ不測の事態で呼び出されるか分からなかったので、時間が空いたとしても外部からの干渉や連絡を遮断する事が出来なかった。
(そもそも、あの時期はどこも忙しい。祝福石の細工をする時間なんぞなかったけどな………)
作業の邪魔にならないように上に掻き上げておいた前髪をくしゃりと崩し、元に戻してから部屋の魔術の状態を確認し、扉を開けた。
「…………また癇癪を起こしたな」
部屋を出たところで、ふわりと足元に漂う霧の気配に気付いて眉を顰めた。
目視出来るかどうかの微かなものだが、ここを歩く時には注意を払うようにしているので、またかと溜め息を吐いた。
廊下の突き当たりにある小部屋には、一枚の絵があり、その絵は、時折癇癪を起こして霧を発生させるのだ。
そんなものであれば、早々に手放せばいいと思うだろうが、その絵には特殊な固有魔術が塗り込まれている。
霧雨の妖精の庇護を受けた画家が描いた霧の城の絵は、形のない美しいものを塗り込めるという画家の執念により魔術の檻となっており、無形魔術の蓄積にこの上なく便利なのだった。
「…………管理に手間がかかるのが難点だな」
そう呟き、保管室の扉を開けば、部屋の一角に飾られた霧の城の絵はちょうど霧を吐き出しているところであった。
溜め息のような白い霧を手で払い、イーゼルごと取り上げると、そのまま保管庫を出て庭に出る。
さすがに、この世に二つと無い絵を庭に出しっ放しにはしておけないので、絵に息抜きをさせてやる為にわざわざ簡易結界を立ち上げ、そこにイーゼルを置けば満足したようだ。
さわさわと風に揺れる花々や木の陰の中、霧の城の絵はただ静かに佇んでいる。
一時間も出しておけば、満足して二年は大人しくしているだろう。
(…………ついでだ)
うっかり視界に入ってしまったので、屋敷の周りの景色を初夏に設定したままであっても、そこだけは雪を積もらせた庭の一角に向かう。
淡い水色に白を塗り重ねたような色調の結晶石の煉瓦の上に葉や果実をこぼすようにして豊かに育った雪苺は、遠目にも鮮やかだ。
この小さな花壇だけは、雪結晶と氷結晶で特別な花壇を作ってあるので、真夏であれ雪がなくなることはない。
選択の魔術で、花壇を作る冬の資質を優先させることで、冬だけに花を咲かせ実を結ぶ植物を育てることができ、年に一度はその魔術が摩耗しないように結晶石の煉瓦の手入れもしている。
温室に入れても良かったのだが、そちらで育てられるのは強靭な株だけで、雪の系譜は本来は温室魔術に閉ざされることを好まないのでこうして特別な区画も作ってあった。
細やかな水色と白の小花を咲かせた下草を踏み歩いてゆくと、持って出なかった収穫用の森結晶の鋏を魔術で取り寄せた。
ついでに収穫用の微睡みの魔術を編み上げた籠も取り寄せ、小さく息を吐く。
(たまたま、収穫どきだったからな…………)
ふくよかな緑の葉を指先で持ち上げれば、そこには真っ赤に色づいた雪苺が幾つも実っていた。
艶々とした赤い実は夜明けの霧に濡れたものか僅かな朝露を残しており、その雫が宝石のようにきらりと光る。
まだ早熟な実が多ければそのまま戻るつもりであったが、ここまで赤くなってしまうとなると、やはり収穫の時期は今日であるらしい。
更に、このまま微睡みの魔術の籠に入れて保冷庫に入れておけば三ヶ月は保つものだが、収穫してすぐに食べるか、調理してしまうのが植物の祝福を新鮮に摂り込む手段としては最良と言える。
特に、喜びや愛情などを司る苺の類の祝福は、待たされることを嫌う。
どんな高位の生き物が巧みな保存魔術をかけたとしても、摘みたてに勝る味わいと効能はないのだった。
腕にかけた籠は、あっという間に雪苺でいっぱいになった。
ついでに、星屑葡萄と雪薔薇の花蜜も収穫しておき、オーブンに火を入れるなら他の菓子も焼いてしまおうと考える。
(であれば、昼食もオーブンで片付けられるものがいいか……………)
適当に焼けばいいだろうと考えたものの、ヴェルリアの市場でハイフク海老を買ったばかりだったのを思い出した。
ハイフク海老は大ぶりな青みがかった海老で、身が大きくとも大味にならない、高価な海老の一種だ。
他の魚の網に群れがかかったようで、思いがけない安価で大量に購入出来たのだが、保存が難しいので高価な割に購入者を選ぶ食材でもある。
以前に食べた生海老の薫香づけのものを思い出したが、せっかく新鮮な海老ではあるが、ハイフク海老は海の加護が強く火を通さないと食べられないので、必ず加熱調理しなければならない。
(であれば、…………)
香草と塩と白葡萄酒で蒸したものと、大蒜をたっぷり使い香辛料で炒めたものを作ることにして、頭の中で幾つかのレシピを組み立て直す。
庭から屋内に戻る時にまたあの毛糸の靴下が見えてしまったが、多少目が合う感じがしてももう気にならなくなってきた。
室内履きに履き替えて厨房に入ると、収穫したものを洗ったり下拵えしてしまい、手のかかるタルトから作ってしまうことにする。
(ジャムも作っておいた方がいいな)
雪苺の一部には雪抜きの砂糖をかけて馴染ませておき、湖水水晶のボウルで寝かせておく。
あまり雪の気が強過ぎると、ジャムには向かなくなるのでこの手間がかかるのだ。
タルト生地そのものは先日焼き溜めて状態保存の魔術をかけておいたので、それを出して雪苺と雪牛のクリームチーズのタルトに仕上げてゆく。
他にも幾つかの焼き菓子を作り、内部で仕切りをつけたオーブンの他の部屋を開け、食事用のサレと、ついでに作り置くことにしたキッシュも入れた。
縦型の箪笥のような形をした魔術炉のオーブンは、幾つもの小部屋を持ち、匂いが移らずに複数のオーブン料理を同時に仕上げる事が出来る。
サレにはオリーブとベーコンの簡単なものと、チーズと干し葡萄のものを作り、キッシュは具材を多めにして一品でも食事になるようなものにしておく。
「……………ほわぎゅ、焼き上がりまでどれだけ待てばいいのですか?」
そんな声が聞こえてきたのは、その時のことだ。
ひゅっと小さく息を飲み、ゆっくりと横を向けば、青みがかった灰色の髪の契約者が隣でオーブンを覗き込んでいる。
鳩羽色の瞳を輝かせるその姿を呆然と見つめていると、こちらを見て袖を掴むではないか。
「こ、これはお昼ご飯ですか?それとも、おやつ………………」
「どこから入り込みやがった。帰れ」
「むぐぅ」
「…………待てよ、領域の結界は閉じてあった筈だぞ。本当にどこから入った?!」
この厨房には、扱いの難しい調味料も多い。
慌ててネアの肩を掴むと、肩の上にもふもふとした真珠色の生き物が現れる。
「キュ」
「………………おい、伴侶になったばかりのシルハーンをムグリスにしているのはどういうことだ?」
「まぁ、こんなに素敵な香りの厨房で、質問だらけの使い魔さんですねぇ。この美味しそうなものどもを一緒に食べて差し上げますので、まずは落ち着いて下さ…………むぐ、淑女の頬っぺたを引っ張る悪事に出ましたね。ゆるすまじ………」
「質問に答えたくないなら、キッシュはなしだ」
「…………キッシュの隣の、マドレーヌ的な形状でオリーブが見える美味しそうなあやつもです。そしてあちらのタルトは、私への献上品ですね!」
「何でだよ」
「アルテアさん、世の中の情報にはとても価値があり、相応しい交換条件でなければ、私とて頷くことは出来ません」
「キュ!」
「……………ほお?その前にここが、俺の屋敷でお前達は不法侵入だけれどな」
そう言ってやれば、ネアは不思議そうに目を瞠って首を傾げた。
その動きに合わせ、指先を巻き付けたくなるような曲線を描く青灰色の髪の毛先が揺れる。
「まぁ、アルテアさんは全て私のものという契約ではなかったでしょうか?…………は!もしや、ご主人様に突然訪問されてはまずい、嬉し恥ずかしな恋人さん滞在中………?!」
「よし、黙れ」
生意気なことを言い出したので鼻を摘むと暴れていたが、先にオーブンに入れておいた焼き上がりのサレの一つを千切って口の中に押し込んでやると、ぴたりと黙った。
「…………で、どうやって忍び込んだんだ?」
「お部屋で、エーダリア様にあげる予定の魔術書が、危なくないかどうか調べ読みしてたのです」
「…………土筆の可動域のお前が?」
「まぁ、失礼ですよ!可動域が上品だからこそ、悪いものがあっても発動しないのです。とても高位な術式が潜んでいても、私がそのページを開くと大人しくなりますからね」
「あまりにも残念な所有者に、落胆して動かなくなるの間違いだな」
「むぐるる……………」
恐らくそれが真実以外の何物でもないのだが、そう指摘するとネアは低く唸った。
唸り声で威嚇する人間は、今のところ祟りもの以外ではネアしか見た事がない。
「その魔術書で事故ったんだな?」
「お宅訪問の呪いのページに、“試してみる”という挿絵があったので、えいやっと触れてみたところ、アルテアさんのお家に居ました」
「馬鹿かお前は!ここだったからいいものの、ろくでもない所に転がり込んだらどうするつもりだったんだ!」
目を離した隙に死者の国に落ちていたり、滅亡した国の影絵に閉じ込められているような人間なのだ。
あまりの迂闊さに指先で額をびしりと弾けば、また小さく唸った後に弁明を始める。
「対象者を思い浮かべて、お宅訪問出来るのですよ?私にタルトを捧げる筈なのにお返事のない使い魔さんのことを思って触りました。ねぇ、ディノ?」
「キュ!」
「……………お前からの依頼は今朝だろうが。昼には出来ていると思ったら大間違いだぞ?」
「……………しかし、既にオーブンには入っています」
そう言われてしまい、あの時庭の方を見て雪苺を収穫してしまった自分を呪った。
別に、成長を止めておき明日にしても良かったのだ。
「…………シルハーンをムグリスに擬態させたのは、その魔術の強制転移で弾かれないようにする為か」
「はい。私一人だと危ないので、こうしてディノと狐さんと一緒に来て、さっとタルトを貰った後、リーエンベルクに帰ろうと……」
「………………狐だと?」
すっと目を細めて厨房を見回してみると、いつの間にか反対側の足元にリーエンベルクで飼われている銀狐が座っており、尻尾を振り回してこちらを見上げる。
あの土地の潤沢な魔術に触れ続けたせいか通常の野生の獣よりは魔獣に近くなってはいるが、あまり自分達の近くでは見かけない純然たるただの獣だ。
「…………厨房で毛を落としたら、何もやらんぞ」
オーブンからの匂いに弾み出したのでそう忠告すると、銀狐は、毛を逆立てて尻尾を膨らませ、涙目で頷いている。
「いいか、お前達はじっとしてろ。それから周囲のものに勝手に触るな。満足したらさっさと帰れ」
「……………タルト様は…………」
「焼けたら持たせてやる。おい、…………俺の話を聞いてなかったのか?」
そう言い含めている間にも、近くのフライパンを覗き込んでいるネアの腕をもう一回掴まなければならなかった。
「海老がありました。香草で香りづけ中ですが、晩餐用の海老さんですか?………じゅるり」
「やらんぞ。帰れ」
「アルテアさん、良き使い魔とは、ここでおやこの海老も振る舞いましょうかと大人しくある物を全てを差し出すものなのですよ?」
「山賊の言い分だな」
「と言うより、使い魔さんのご主人様なのでは……………」
このままだと何をするのか分からないので、ひとまずネアは食卓の方に移動させた。
オーブンはまだ大丈夫そうなので、ネアを小脇に抱え、床の上から銀狐も摘み上げる。
無言で椅子に座らせ、先に焼けたオリーブの方のサレをテーブルの上の籠に出してやれば、何とかそのまま大人しくしていそうだ。
焼きたてのサレなので、魔術保冷庫からは冷たく冷やしておいた香草茶を取り出し、グラスに注いでそれも並べておいてやる。
既に夢中で食べているようなので、一安心だ。
「それは俺の昼食用だ。全部食うなよ?」
「……………む。今日は遅いお昼だったのですね?ディノに、お薬でも作って貰います?」
こちらの言葉に反応して、今度は、鳩羽色の瞳を揺らして案じるようにそう言うのだから、この人間はまったく読めない。
「ただ遅くなっただけだ。それと、シルハーンは薬の魔物じゃなくなったんだろうが。まだ薬作りをさせているのか?」
「むむぅ。私がと言うよりも、ディノは初めて勤労の喜びを知った薬作りのお仕事を失うのが悲しいようで、お仕事の時間になると、しょんぼり薬瓶を並べてくるのです。あまりにも悲しげなので、エーダリア様に相談して、“無名の魔物”として薬作りも出来るようにして貰いました」
「キュ!」
ネアの言葉に、その胸元に収まった太った鼠兎のような真珠色の生き物がなぜか胸を張る。
ムグリスの姿に擬態しているが、これでもネアの伴侶であり魔物の王なのだ。
それなのにと、この姿を見ていると色々堪えるものがある。
「…………アルテアさん、もしかして、アルテアさんもちびふわになって、お腹を撫でて貰いたくなってしまいました?ごめんなさい、実は、今日はもじゃもじゃちびふわになれる術符をエーダリア様に貸し出してまして………」
「…………お前は、どこからその推論を引っ張り出してきた?」
「ムグリスディノを、じっと羨望の眼差しで見ていたからです!また今度、ちびふわにして撫でてあげますからね」
「やめろ」
そうこうしている内に、諸々焼き上がったのでひとまずネア達は待たせておき、オーブンから取り出したものを保温や保冷の魔術に収め、サレが食べ尽くされない内にと、海老を調理してしまった。
(湖水メゾンの白葡萄酒を冷やしてあったな…………。一番辛口のものにするか………)
そんな事を考えながら強烈な視線に背後を振り返ると、ネアが立ち上がってこちらを見ている。
なぜか、その手はポケットに差し込まれているではないか。
「…………じゅるり。海老…………」
「…………少しだけだぞ。それと、そのポケットから手を出しておけ」
「海老様!!」
「おい、弾むな」
その場で立ち上がって弾もうとしたので、顔を顰めて叱っておくと、ネアが指先をポケットから出すまでしっかりと見守った。
目が合うと、ネアは微笑んで頷いてみせる。
「海老を分けてくれる優しい使い魔さんでしたので、きりんさんで無力化せずに済みました」
「キュ?!」
「…………やめろ。下位の魔物だと死ぬやつだろうが」
「きりんさんの可愛い絵一つで滅びてしまうだなんて、魔物さんはたいそう儚いですねぇ…………」
「いいか、あの悍ましい生き物を可愛いと言っているのは、お前だけだからな?」
「何と儚い生き物達なのだ。繊細過ぎるのです……………」
そう言って遠い目をしたネアに、その表情をしたいのはこちらだと言いたくなる。
結果として、ネアは海老だけではなくキッシュまで一切れ食べてしまい、最後に冬苺とクリームチーズのタルトを食べて満足したのか漸く帰宅の準備を始めた。
その間アルテアは、目を離した隙に勝手に海老を食べてしまった銀狐の口周りを濡れタオルで拭いてやったりと、想像もしていなかった忙しない時間を過ごす羽目になる。
「カードから、エーダリア様達にはこれから帰るとお伝えしました。エーダリア様がカードを見てくれていなかったので、お宅訪問の呪いだと知らせられずに胸を痛めていましたが、ヒルドさんからこちらに連絡が入って良かったです!」
「胸を痛めているにしては、色々食ってなかったか?」
「え、栄養補給ですからね!」
アルテアの屋敷は特殊な魔術隔離地にあるので、ネアが持っている会話の可能な魔術通信の道具は使えない。
なので、その場の魔術を取り込み文字のやり取りを出来るカードから連絡をしていたようだが、そちらは開いて見るまでは伝言に気付かれないこともあり、先にこの屋敷に捜索の協力を要請する連絡が入ってしまった。
リーエンベルクには、この屋敷に繋がる魔術連絡板を一枚置いてきてある。
それもこれも、放っておくとすぐに事故るネアがいるからだ。
「……………まぁ」
今もまた、視線を外したほんの数秒で、ネアは顔色を悪くしている。
今度は何だと眉を寄せて見返せば、どこか困惑したような顔で眉を下げた。
「まさか、また事故ったんじゃないだろうな?」
「……………今夜は帰れません」
「……………は?」
「お宅訪問の呪いは、そのお宅で夜明けまで過ごさないと家に帰れないのだそうです。つまり、私達は今夜はアルテアさん宅でお泊り………………」
「……………なんだと?」
呆然とそう呟けば、ネアはなぜか項垂れている。
おやっと思っていると、両手で顔を覆ってしまい、慌てたシルハーンと銀狐に体を擦り寄せられている。
「……………いつものことだろ」
「…………今日はおやつに、ヒルドさんが貰ったザハの蜂蜜ケーキを分けてくれる予定だったのです………」
「…………お前は直前まで昼食相当の分量を食べていなかったか?相変わらず、情緒の成長もなく、食い気しかないな」
「むぐる………………」
小さく唸ったネアに、心の中で、唸りたいのはこちらの方だと呟いた。
(くそ、泊まりになるとは思わなかったな…………)
ネアは意外に鋭い時があるので、一刻も早くあの靴下を脱ぐ必要があった。
履いてるところをネアに見られたら、ろくでもないことになるのは間違いない。