夜明けの森と剪定の朝食
薄暗い部屋のカーテンの向こうに、清廉な白が揺れていた。
微かに薄目を開け、その雪の色を眠りの淵から立ち上がる意識の端に触れさせる。
朝だ。
体を動かそうとしたところでなぜこんなにも疲弊してるのだろうかと考えかけ、昨晩は海沿いの小さな国で、なかなかに手間のかかる仕掛けをしてきたのだと思い出した。
アルテアは選択の魔物だ。
選択という資質を司る者として、時には良質な選択が育つように魅力を感じない土地でその土壌を整えることも多い。
時には古き王の復権を助け、或いは内乱で全ての王族が処刑され国が滅びるまでを楽しむ。
神父として孤児達を育てたこともあれば、教鞭を取り大学に勤め、更には宮廷で宰相の書記をしたこともある。
どれも愉快かと言えばそうではなく、選択だからこそ、百年後の収穫の為に不愉快さに甘んじることもあり、昨晩訪れた国ではまさしくそのような仕事をしてきたのだった。
海沿いの小さな国には、澱の寺院と呼ばれる、海から上がった怨嗟や祟りものを鎮める為の古い遺跡と、そこを治めるに足りる古の魔術の泉があった。
一人の年老いた王が治めており、大国ひしめき合う大陸の中では取り立てて特徴もない、凡庸な国だ。
その国を大国に育てたり、豊かにするというようなことがしたい訳ではない。
ただ、古の魔術と澱の寺院を持ちながらも、その豊かな土壌を生かし切れず、面白みのある人間や産業が育たないのが気にかかった。
あまりにも堅実な現王は、残念ながら堅実さを維持する為にはなかなかに狡猾な策を張り巡らせるくらいには狡賢くもあり、尚且つ妖精の守護が厚く、最低でももう五十年は王座に居座るのだろう。
いささか目障りな人間だと判断し、十年以内には現王を王座から引き摺り落とす駒を選抜し、そこに種を蒔いてきたのだ。
耳の奥に、昨晩聞き続けていた波音が蘇る。
薄暗い店の橙色の明かりと、煙草と酒の匂い。
そして、大して上手くもないピアノを弾く妖精の後ろ姿。
海辺の酒場で、一人の青年に古い伝承の話をしてやったのだが、こちらの話を聞く準備が整うまでの随分と長い時間、その男の下らない不満を聞いてやらなければいけなかった。
その男が、やがて王を殺す革命家達の旗印になるからと仕込みをしたのだが、それを踏まえても、心底うんざりするような時間だったのだ。
(王を悪食として火刑台に送り込んだところで、あの男は、早々に仲間から消されるだろうがな………)
さかんに、自分は顔が広く友人が多いと話していたが、人々に慕われて仲間を集めた人間ではなく、この先も革命家達の道具にされるのがせいぜいだ。
とは言え、本人が自身の孤独さや浅はかさに気付いていないのだから、それもまた幸福と言えるのかもしれない。
「………………やれやれだな」
毛布の中から引き出した片手で前髪を掻き上げ、小さく息を吐いた。
これまで、毛布に包まれて眠る趣味はなかったのだが、いつの間にかリーエンベルクでの暮らしに毒されたらしい。
そのリーエンベルクには、魔物の王である万象のシルハーンと、その伴侶でありアルテアと使い魔の契約を結んだ人間、ネアが暮らしている。
アルテアの契約者は、類を見ない程に魔術可動域が低くすぐに事故るので、結果としてそちらに滞在することも多くなり、寝台に当たり前のように毛布を用意され続けたことで嗜好が変わったのだろう。
シルハーンが毛布に執着するせいで、ネアは、魔物は毛布がないと眠れないと信じている。
そのリーエンベルクには他にも魔物が住まい、また滞在することがあるのだが、何故か塩の魔物である筈のノアベルトも霧竜の毛皮を模して作られた毛布を愛用しており、それどころか、終焉の魔物であるウィリアムまでそのようなものを愛用しているらしい。
とは言え、砂漠の夜は冷え込むからと毛布を好むようになったというウィリアムについては、自分のテントに泊めた時に、ネア好みの毛布を何枚も用意しておいた言い訳として捻り出した雑な理由だろう。
終焉の魔物が毛布に包まって眠っているなどという話は、今迄聞いたこともない。
毛布を剥いで起き上がったところで、一瞬白っぽい生き物を見たような気がしてぎくりとし、ネアが編んだ靴下を寝台の横の椅子の上に置いておいたことを思い出した。
(……………いつ履くんだこれは…………)
ちびふわなどという名称を定着させられてしまった拳大の真っ白な獣を模した靴下は、その辺に投げ出しておこうにも一応は手編みである。
また、誕生日の魔術祝福に結ばれてしまい、なかなかに粗雑にし難いものとなっていた。
瑠璃紺の天鵞絨を張った椅子に置かれた、白い毛糸の靴下は、獣の顔を模した作りになっている。
爪先の部分に、目と鼻を黒い毛糸で編み込むことで何とも簡略化されたあの獣の似姿となっていて、幸いにも兎のような垂れ耳や、狐のような尻尾はない。
この角度から見下ろせば、二匹のちびふわに見上げられているような気持ちにならないこともない。
しばしその虚ろな顔と見つめ合い、また溜め息を吐いた。
祝い事の祝福を繋ぐ為に一度は身につけなければと思いつつ、これまで先延ばしにしてきたものだ。
しかし、今日はこの屋敷から出る予定はないのである。
「……………くそ…………」
小さく悪態をつき、アルテアはその靴下を手に取ると、浴室の近くにある椅子に移動させ、窓辺に歩いて行った。
カーテンを開けば、寝台にまで朝の光を透かし届けた正面の窓の外は雪景色で、この窓からの景色はウィームの本日の天気を示している。
アルテアが魔物として統括を任された土地は、人間の国で言うところのヴェルクレア国全域であったが、ウィーム以外の領地の天気を本邸の窓に紐付けようと思ったことはない。
青みがかった白灰色の壁には、掠れたような木目と木材が結晶化した宝石質な部分、そして細やかな細工を施した装飾がある。
装飾は壁と同色にしているが、ウィームの祝祭と冬の祝福から紡いだ宝石を削り出したものに着彩しているので、内側からその色に淡い光を含ませ、微かに色を変えるのが気に入っていた。
(雪も悪くないが、………いや、夜明けの森にするか…………)
目の前のカーテンを閉め、歩いて行って部屋の右奥にある窓のカーテンを開ければ、そこに広がる景色は霧に包まれた初夏の夜明けの森だった。
朝の内はこちらでいいかとその情景に合わせて他の窓のカーテンを開き直せば、全ての窓の向こうに同じ時節に合わせた景色が整っている。
カーテンそのものが、選択の魔術を紡ぎ、扉としての祝福で染め上げた特別なものなのだ。
最初に開いたままにした窓の景色に、全ての窓からの風景を合わせるように調整してある。
(この景色なら暖炉はいらないな…………)
火の気配のない暖炉は素通りし、寝室を出ると読書や軽い仕事などをする部屋に移動し、壁を人差し指の背で軽く叩き、全てのカーテンを開けた。
どの窓の向こうにも、霧を這わせ白く霞む青緑色のふくよかな森の情景がある。
ウィームの雪景色は気に入っていたが、あの海辺の国での仕事の翌朝なので、この朝は森の眺めこそが相応しい。
テーブルの上には、本日の新聞とアクス商会の発行する情報紙、そして仕事関係の魔術連絡板などが並べられている。
浴室に向かいながらそれを一瞥し、ふと眉を寄せて立ち止まると、寝台の横にある燭台を乗せた夜鉱石のテーブルに戻った。
そこには、昨晩眠る前に確認した白いカードが置かれていて、手に取り広げてみたが、特に連絡などは入っていないようだ。
このカードはネアと繋いでいるもので、どんな場所からもそこに書かれた文字は分け合ったこちらのカードに届く。
(……………これで、今日は邪魔をされずにゆっくり過ごせそうだな…………)
そう考えて息を吐き、そのカードも部屋の中央のテーブルの上に並べて置くと、浴室に向かった。
浴室の手前の部屋で着ていた寝間着を脱ぐと、霧水晶と湖水結晶の棚から洗髪剤を選んで指先に持ち、念の為に、床石の一つに描き記した魔術探索の術式陣を踏んでおいた。
これは、知らずに潜伏している侵食や契約、或いは呪いなどが浮かび上がる仕様で、そうそう文字や術陣などが浮かぶ筈もないそこには、ネアと出会ってからは、様々な印が現れるようになった。
(激辛スープの呪いの時は、術陣に毎朝唐辛子が現れていたな…………)
あの時は、珍妙な服飾嗜好になる呪いと合わせて二つもの呪いをかけられ、どれだけ辟易としたことか。
他にもと考えかけ、帆立の呪いを思い出して思考に蓋をした。
あの呪いにだけは、二度とお目にかかりたくない。
足を乗せた術陣にざっと光が走った。
今朝もまた、ふつりと細やかな光の粒子が凝るようにして鳩羽色の薔薇が咲き、身を屈めてその薔薇を摘む。
ネアとの契約がある限り、この薔薇はいつまでも咲き続けるのだろう。
指先に挟んで手のひらを上に向け摘み上げたそのバラに鼻腔を寄せ香りを嗅げば、一昨日と変わらない澄んだ雪と冬の湖のような契約の香りがした。
この香りが劣化するとしたら、それは使い魔としての契約に障りがあるということだ。
(その場合は、あいつを早々に捕まえて、どんな事故を起こしたのか問いただす羽目になるんだろう…………)
何しろ、サナアークの夜市場より奇妙で目まぐるしい人間なのだ。
たった一日目を離せば、おかしな呪いをかけられていたり、高位の竜や魔物を狩ってきてしまっている。
その選択は小気味好く愉快だが、こちらの目が届かないところで何をしているのかと思えば肝を冷やすことも多い。
こうしている今も、あの人間は、息をするように早々お目にかかれない災厄に手を出しているかもしれないくらいだ。
「さもありなん、か…………」
摘んだ薔薇はそのまま浴室に持って行くのも、もはや入浴時には馴染んだ習慣である。
このまま浴槽に浮かべ、湯を出る頃には細やかな魔術の粒子になって消えてしまう、魔術検証の印の花でしかない。
ただ、かつて使い魔としての契約をネアと結んだその日に摘んだ一輪だけは、状態保全の魔術をかけて残してある。
気紛れのようなものだが、契約当初のものを残しておけば、魔術の誓約に劣化などがあってもすぐに察知出来るだろう。
かしゃんと澄んだ音を立てて淡い艶消しの金色の取っ手を引き、浴室の扉を開ければ、浴室の中のシャンデリアに穏やかな魔術の火が灯った。
この浴室は、今は窓の外の夜明けの森からの光を採り込んではいるものの、夜にはあのリーエンベルクの大浴場に近しい雰囲気になるよう、装飾に工夫している。
なんてことはない、浴槽はただの白い浴槽だ。
とは言え、白磁の浴槽にも見えるこればかりは、かなり入手に苦労した素材のものなので、他の浴槽に替えるつもりはなかった。
だが、特殊な調香の魔術であの大浴場の香りに近付けた湯を汲み上げる蛇口と、この浴室に見合う大きさで華美になり過ぎないようにしたシャンデリア、そしてふんだんに生けた花があればそれらしくなる。
あの香りと光景に紐付いた馥郁たる安らぎと快楽を思い出す舞台でさえあれば、自宅の浴室としては充分だろう。
蛇口を捻って湯を張る間に、シャワーの下に入り、夜明けの祝福石に氷河の祝福を釉薬に作ったタイルの床に立つ。
今日の気分で選んだ洗髪剤の瓶を開け、夜明けの霧と僅かばかりの果実の香りのするその液体で髪を洗った。
水音の中で湯気が上がり、今日するべきことを幾つか考えた。
こうして朝に入浴するのは、資質を隠し仮面の魔物として、証跡を残せない仕込みをして来た日の翌日と、本来の選択の魔物として舞踏会などで他の近しい階位の者達と会った日に限られる。
挨拶や握手だけでなく、空気や粉塵、誰かの肌から香る香油や、そこで振舞われた飲食物などから侵食したものが効果を表し始めれば魔術洗浄する必要があるし、気に食わない相手の魔術に触れた体を清めるのは、その相手との繋がりを断つという儀式的な側面もある。
以前、こまめに入浴すると知ったネアから潔癖なのかと尋ねられたが、別にそのような理由がなければ入浴せずとも気にならない。
元より、この階位であればそうそう汚れることもないのだ。
しかしそれを伝えても、可動域が蟻と同程度しかないネアには、他の属性と紐付かないので本来は汚れないという説明は、よく分からないようだった。
体も洗い終えて浴槽に浸かっていると、浴室の鏡に流麗な文字で、とある仕事で使っている部下の一人からの、現場での指示を仰ぐ言葉が浮かび上がった。
指で曇った鏡面に文字を描くような文字だが、用を成せばきちんと消えるようにしてある。
「通信を繋いだ。構わないぞ」
指先で虚空に術式を描いて簡単な通信魔術の音を開き、鏡の、文字が浮かび上がった部分に向けて話しかける。
この鏡の一部には、緊急時に魔術通信板としても使えるように予め魔術陣を仕込んである。
「………お休みのところすみません。ハイドラターツの森の西方で、大規模な樹氷結晶化が見られます。お伝えしておいた方がいいかと思いまして」
「…………西方となると、ターハウの渓谷寄りか?」
「ええ。あの辺りは、森結晶の良い採掘現場でしたからね。樹氷結晶化が進むと、黄色みがかった森結晶が高騰しますよ」
「……………ハイドラターツの森結晶は買いだ。それと、樹氷結晶化が進むなら三日以内に災厄規模の樹氷の祟りものが現れるぞ。それとなく、その国の森林警備隊の耳に入れておけ。あの土地の宝石は質がいいからな、国力を落とさせるな」
「彼等だけで討伐可能ですかね?」
「規模によるな。とは言え、深刻な規模であればウィリアムが動くだろう。あの土地には、終焉の系譜の精霊も多く住んでいた筈だ」
他にも幾つかの取り決めをし、更には幾つかの新しい指示を出すと通信を切った。
とぷんと音を立てて顎先まで湯に沈み、濡れた白い髪を片手で後ろ側に撫でつける。
こうして、入浴時に仕事の連絡が入るのは、珍しいことではない。
とは言えそれに自分を削らせるつもりもないので、仕事に割り込まれた時間だけしっかりと体を緩め入浴を終えた。
「………………ったく」
浴室から出て部屋に戻ると、ネアと分け合ったカードには、淡くシュプリの泡のように煌めく金色の文字が揺れていた。
顔を顰めて覗き込めば、雪苺と月光水牛のミルクから作ったクリームチーズのタルトを食べてみたいと記されている。
「…………こいつは、俺が専属の料理人か何かだと思ってるんじゃないだろうな…………」
公爵位の魔物に、近所の店で完売してしまったタルトの再現を頼む人間はこの世界のどこにもネアをおいていないだろうし、そもそも、魔物が食べ物を与える、それも手作りのものを与えるということが、魔術的にどれだけ重い意味を持つのかを、認識する気があるのだろうか。
食事を与えるということは、おおよそが求愛や求婚にあたり、同じ皿のものを分け与えることですら親愛や求愛の意味となる。
作り与えるともなればもう、求婚とそれへの同意と変わらないくらいではないか。
だが、あの人間は可動域が蟻ほどしかないくせに、自分に都合の悪い魔術規則は、記憶から追い出してしまうようだ。
(いや、今は九だから、飛蝗くらいにはなったのか……………)
そう考えかけ、眉を寄せた。
その例えを出したところ、ネアが嫌がって暴れたことを思い出したのだ。
どうやら飛蝗があまり得意ではないらしく、慌てたシルハーンが他の可動域が九の生き物を探し出し、辛うじて土筆を見付け出した。
もはや動くものですらないが、ネアはそれで溜飲を下げたようだ。
(いや、万象の魔物の伴侶の可動域が、そもそも土筆と同程度なのもどうなんだ…………?)
そう考えかけてしまい、ひとまずネアからのカードは暫く見なかったことにしておこうと頷いた。
髪先に指で触れて魔術で水気を飛ばし、使ったタオルを洗濯室に放り込んでおく。
こういう時に、自分は潔癖症とやらではないと思うのだが、洗濯は日に一度で充分だと思っている。
ただし、アイロンがけに関しては考え事に向いているので嫌いではなかった。
新聞とアクスの情報紙を手に取り厨房に向かうと、食卓のテーブルの端に乗せておく。
保冷庫を開けて幾つかの食材を手に取り、火竜の炎で焼かれた焔赤水晶のケトルに水を入れて沸かした。
手に取ったのは、ネアからの誕生日に贈られたナイフだ。
これは使い手に合わせて大きさを変えるナイフでもあるので、朝食の準備のようにあまり手間のかからない調理の際には便利である。
手早く野菜を切り、使った道具を洗うといい具合に湯も沸いた。
このような一人の朝食で、マナーのようなものを気にかけることもない。
沸いた湯で最近気に入っている茶葉を入れたポットで紅茶を作り、これまた最近気に入っているカップでその紅茶を飲みながら、料理の続きをする。
ネアが指摘するように野菜を切っておくと、その切り口からこぼれてしまう植物の祝福が気になるが、予め料理にしておけばそれも問題はない。
作り置きの常備菜の中から、二品ほどを皿に取り、アルバンの雪牛のチーズを使った、野菜のスフレオムレツとサラダの簡単な朝食が出来上がる。
スープなどを作ることもあるが、今朝は窓からの景観を初夏の森にしているので必要ないだろう。
料理を食卓に移しながら使ったフライパンなどを手早く洗ってしまい、水気を切って片付けておく。
厨房の窓際に小さな森結晶の鉢で育てている香草を専用の鋏で収穫し、それを持ってテーブルに戻った。
(…………そう言えば、庭の雪苺は、収穫時ではあるな…………)
そんな事を考えながら、出過ぎないように茶葉は既に出してある紅茶のポットと飲みかけの紅茶が入ったカップの位置を直し、漸く椅子に座った。
ここからは暫く、新しい国際情報や取り零した事件の情報などを紙面から拾いながら、ゆっくりとした朝食となる。
(ほお、……………あの国での内乱は、そっちに転んだか。アイザックが手をかけたな…………)
アルテアは得るものなしとして放置しておいたその土地の内乱に手を貸したとなると、アイザックの目には気にかかるものが映ったようだ。
となれば興味深いと思いながら、今年は昨年末に現れた世界的な魔術の吉兆を受け、農産物の豊作が見込まれるという記事を読む。
昨年には、久し振りに起きる世界的な蝕もあった。
その蝕の発現が秋であったことから、大きな被害を出した土地も少なくはない。
せめて農地であれば、まだ豊穣の魔物の祝福を借りて早めの収穫を可能と出来たが、森などから自然の恵みを収穫する仕事をしていた者達には手痛い損失だっただろう。
優秀な採取者達がそれを機に引退してしまうことは避けたく、取引きがあり、贔屓にしている者達には、事前に蝕の情報を共有し、ある程度の保障もしてやっている。
それでもなお、あの蝕では多くの弱い生き物達や長命で頑強だった者達も失われた。
公表されていないところでは、水竜の王族が一人命を落とし、今代の林檎の魔物も黎明の系譜の妖精達に殺されている。
(人魚の女王に、東方の国を治めた泉の妖精王、そのあたりも恐らくはもういない筈だ…………)
代わりにその蝕の混乱の後に派生した者達もおり、階位を上げたり、新しくその力を示した既存の生き物達もいたという。
これから、この新しい年がどうなってゆくのか、まだまだ読みきれないところもある筈だ。
であれば、読み切れるその範疇のものは、今の内に駒を動かし、カードを切っておかなければならない。
朝食を終える迄に二本の商談をまとめ、新しい調合の魔術薬のレシピが、目をつけた国の調剤師の手に入るように手を打った。
他にも、今の内に剪定を済ませておくべき幾つかの国の手入れをした。
仮面の魔物として暗躍し役に立ちそうな人間から奪った皮が役に立つのはこのような時で、かつて亡国の皇子から剥ぎ取られた皮を被せられた少年は、アルテアが整地の遅さを憂いていたかつての国土を立て直す為に尽力するだろう。
(あの国の水路網が再建されれば、春までには畑が整い、夏雫の花が収穫出来るようになるだろう………)
敵国に破壊された水路を修復すれば、あの国の農作業は蘇る。
かつて、侵略の為にその国の水路網を破壊した蛮国は、緻密な設計による水路の修復に匙を投げ、湿地帯に逆戻りしたその土地を放棄した。
残された亡国の国民達は、背面に控えた友好的な隣国の支援の下、早急な国の立て直しを進めている。
情報収集と仕事の調整が落ち着く頃には食事も終わり、使った食器を洗って片付けると、洗濯を済ませてしまい、屋敷の中に併設した魔術工房に籠る準備をする。
(いや、その前に、庭の菜園に豊穣の祝福を足しておくか……………)
庭に出る為に靴を履き替えようとしたところで、またぎくりと固まった。
室内履きから引き抜いた爪先には、白い毛糸の靴下に編み込まれたちびふわの顔がある。
蹲って頭を抱えたくなったが、気力を振り絞って靴を履き替えると、直前に見たものは忘れることにして菜園や庭木の手入れをした。
木漏れ日がレースのように地面に模様を描き、健やかに茂る香草には薄紫や白の花が咲いている。
ふと、あえて身につけずに置いてきたあの白いカードが気にかかったが、あまり考えないようにした。