瓶の中の庭園と小さな反乱
ゆらゆらと目の前で氷結晶の瓶が揺れる。
クルークと呼ばれるその中に詰め込まれたのは小さな植物と祝福で、初めてクルークの祝福を育てたネアは嬉しそうに小瓶を覗き込んでいる。
綺麗に整えられた爪先が、透明な瓶をなぞる動きに愛おしさがつのる。
生きて動いているのが嬉しいのだと言えばネアは困った顔をするが、そうすると眉が下がるのもとても可愛い。
けれども、体を寄せて小さな瓶を覗き込んでいるので、ネアの気に入っているクリームの香りがして何だか落ち着かなくなってしまい、視線を彷徨わせた。
「ずるい……………」
「………………唐突にどうしてそうなってしまったものか、たいへん謎めいております」
「ネアがくっついてくる……………」
「ディノ、これでも私はディノの伴侶なので、こうしてぴったりでもいいのではないでしょうか?何しろ我々は新婚ですし、今回、この瓶の中を観察するのはお仕事でもありますしね」
そう言うネアは、窓からの光を鳩羽色の瞳に煌めかせてこちらを見上げた。
その透明さと静謐さにまた心が震える。
(どれだけ君が心を緩めても、それは変わらないのだろうか……………)
ネアの瞳は、静かな夜の湖のように静謐だ。
深く、底も見えないくらいに深く、透明でぴたりと澄んでいる。
この世界に呼び落としたばかりの頃のような言葉で話さなくなり、寝ている時に近付いても怯えなくなった。
雨音の響く夜明けに毛布に包まって震えてもいないし、走った後にこんなことをしても心臓が軋まないのだと驚くこともない。
それでもこの瞳は、今も変わらずに不可思議で美しい静けさに包まれて、時折こちらをじっと覗き込む。
これが彼女の魂の資質なのだと思えば、ネアがあの古い屋敷で、飲み込む涙もなくなり微笑めるようになった日々のことを、自分が理解出来るようになった幸いに安堵した。
この眼差しの問いかけを見逃して、いつか彼女が姿を消してしまうかもしれないと思うことは、もうだいぶ少なくなった。
それは多分、自分がネアの心の動きに気付けるようになったからなのかもしれない。
その心が見えていても理解出来ずに困らせることは、きっととても少なくなった。
(でも、…………君が、もっと他のものを欲しくなってしまったら、どうすればいいのだろう。伴侶になると、丁寧に手をかけなければ飽きられることもあると、ロマックが話していたけれど…………)
なぜ大切な伴侶に飽きてしまうのかが、よく分からない。
そして、分からないということは、とても得体の知れないものなのだ。
「仕事なら、…………他の者ともこうするのかい?」
「…………………他の方とであれば、一人ずつ交代で瓶を覗くのではないでしょうか。こうして一緒に覗くのは、ディノだけですよ」
「交代なら覗いてしまうのだね……………」
「そこから封じられてしまうと、私の社会生活が立ち行かなくなりますので、どうか落ち着いて下さいね」
「……………それは、浮気ではないのかい?」
「浮気とは全く別の領域の作業なので、安心していいんですよ」
そう言ったネアが、人差し指を立ててこちらを見たので、あまり見かけない仕草に釘付けになる。
何しろその指先を、ネアは、こちらの鼻先にぴたりと当ててくるのだ。
鼻の頭に感じたネアの指の温度と、柔らかなクリームの香りに、どうしたらいいのか分からなくなった。
腕の中に閉じ込めてしまいたいけれど、ネアは捕まえると暴れることがある。
暴れてしまったら可哀想だとは思うのだが、困ったことにそんな姿もたくさん動くので可愛いのだ。
「………………ネアが虐待する…………」
「それは、瓶を覗くことに関してですか?」
「指かな………………」
「むむ。私が大事な伴侶のお鼻に触れるのは、禁止されてしまうのです?」
「……………ずるい」
「伴侶になっても、ディノのずるいの用法は行方不明のままなのですね……………」
そう呟き首を傾げてこちらを見上げた姿に、慌てて少しだけ距離を取った。
そうすると悲しい顔をするのだが、この距離で仕事をするとなると、やはり刺激が強過ぎる。
「ネアが可愛いことばかりする…………………」
「ディノが儚過ぎるのです……………。むむ!瓶の中でお花がまた開きましたよ。しゅわりとした祝福の光がこぼれて、何て綺麗なんでしょう」
(ああ、こんな時だ…………)
静謐な湖面だった瞳が嬉しそうに震え、柔らかく崩れてこちらを見る。
そんな風に微笑むネアが堪らなく可愛くて、もっと色々なものを見せてあげたくなった。
この世界はもう充分だからと思ってしまったら、いつかネアはこの手を離して、遠くに行ってしまうかもしれない。
そう考える怖さをもう二度と味わいたくないからでもあったけれど、ただ、こうして微笑んでいる姿を何度も見たいからでもあり、その為なら彼女には何だってあげたくなるのだ。
(君は、時々私を見てそう微笑む時もある…………)
どうしてそんな風に喜んでくれるのか、それは考えても考えてもよく分からなかった。
けれども最近は時々、一緒に眠ると夜明け前に肩の窪みに顔を寄せてきて、眠そうにではあるが、こんな風に微笑んでくれる。
朝起きておはようと言う時や、一緒に食事をしている時も。
かと思えば、ノアベルトが狐姿で弾んでいる時や、ローストビーフを食べている時も、そして、ちびふわになったアルテアが砂糖に酔っている時にも同じような顔をするので、独り占め出来るものでもないらしい。
(でも今は、君は私だけのものだ…………)
そう考えると、とても安堵した。
それも毎回のことではなく、おかしなことに、自分一人ではないことで安堵することも多い。
例えば、アルテアの屋敷で共に過ごした時間も安心出来て気に入ったし、会食堂で皆で食べる朝食や晩餐も、驚く程に安らかで暖かい。
ウィリアムがリーエンベルクに来て、ネアと話しながら疲弊を緩める姿や、グレアムやギードがネアを大事にしてくれることも嬉しかった。
誰にも渡したくはないのに、どうして皆で過ごすと嬉しいのか。
エーダリアがネアと二人で話をしていても、どうして以前のように不愉快にならないのか。
そのようにして、ネアを手放したくないと思う気持ちにも、複雑に色を違えた様々な分岐がある。
どれもが目新しく、どれもが美しい。
そう考えると嬉しくなり、口元がむずむずした。
「ディノは、こうして瓶で祝福を集めたことはありますか?」
「このような道具があるのは、ウィームだけかもしれないね。人間は面白いことをする」
「ふむ。人間は強欲なのでひとかけらの祝福も逃がしたくないのですが、お外だと難しいですものね…………」
そう呟いたネアがまた覗き込んでいる瓶の中には、新雪から抽出した液体の冬結晶が、なみなみと注がれている。
冬が結晶化すると一般的には淡い水灰色の結晶石になることが多いが、こうして特殊な技法で抽出されると、とろりとした透明な液体になるようだ。
円柱形の瓶の中に注がれたものは透明度も高く、かなり高度な抽出作業を行ったのだろう。
冬結晶を、竜の骨を使ったすり鉢で砂糖のように細かく砕いてから、夜の滴と黎明の滴を合わせたものに浸しておき、十日目の満月の夜に抽出作業を行うとこのような液体になるというのだから、その手法を編み出した人間の執念には驚いてしまう。
正確さを要求される仕事だが可動域は三十もあれば可能なので、専門の職人がいるのだそうだ。
ウィームでは、この液体を氷結晶の中に注ぎ、祝福を蓄えた植物を綺麗に洗った根ごと入れると、クルークという魔術道具になる。
安全で豊かな瓶の中を小さな世界だと認識した植物が育ち、小さな花畑や森を作って瓶の中に祝福を蓄えるらしい。
材料を揃えることの出来る職人の存在も勿論だが、この瓶の中で植物が育つのはウィームのような大気中に潤沢な魔術が蓄えられた土地だけだった。
よって、ウィームの人間達には古くからあるありふれた手法でありながら、固有魔術に等しいものとして今も伝えられているという。
「むぐぐ………………」
「ネア?」
「………根っこごと入れた時には普通の大きさだったちび月光鈴蘭が、どうしていつの間にか小さな瓶の中のお花畑になっているのでしょう?この大きさだと、一輪の大きさは元の大きさの何十分の一ですよね?」
「瓶の中を世界に見立てて馴染むからね。その世界に見合った姿になるようだよ」
「ふぁ……………。不思議でとても素敵です…………。ディノ、木のものも見てみたいので、今度はお仕事ではなく木の瓶も作ってみませんか………?」
「うん。どんな木がいいんだい?」
「ライラックが大好きなのですが、出来ます?」
「ああ、階位がそこまで高くなくて花を咲かせる木であれば、大抵のものは出来ると思うよ」
「……………階位も関係あるのですね?」
「瓶を世界に見立てるのだから、その植物を受け入れられるだけのものでないといけないんだ。例えば林檎やオリーブなどは、収められる瓶を作るのが難しいだろうね」
「もしかして、お花だと薔薇や百合のものがないのも、それでなのでしょうか……………」
「そうだろうね。容れ物としての階位を上げるのであれば、大きな瓶を作ればいいのだろうけれど、それなら温室の方が手間が少ないのかもしれない…………」
その言葉に頷き、ネアはまた月光鈴蘭を入れた瓶を覗き込む。
今回の仕事は、扱い易い植物の瓶を一晩預かり、育てながらどのような特性なのかを身を以て知った上で、とある苔のクルーク瓶で起きている問題を解決するというものだった。
一晩この部屋にあった月光鈴蘭の瓶の中には、ネアが綺麗だと何度も褒めるからか、充分な祝福が溜まったようだ。
花の系譜のものは、月光や陽光という様々な恩恵を受けて育ち、その美しさを成就させることで祝福の質を高める。
第三者がいない環境下で育つ花も、ただ健やかに育てば自分は美しいのだと豊かな祝福を育むが、こうして慈しまれると、いっそうに祝福の煌めきが強くなるのだ。
「まぁ、またきらきらが落ちました!祝福がこぼれる直前に鈴蘭のお花がしゃりんと光るのがとても素敵ですよね!」
「……………でも、もういいのではないかな。随分と沢山褒めただろう?」
「でも、本来は、植物が大好きなちびこい妖精さん達に工房で管理されていて、たくさん大事にして貰えているのでしょう?」
「君は私のものなのだから、鈴蘭ばかりを見ていてはいけないよ」
「……………まぁ、ディノはそれでしょんぼりなのですか?」
振り返ったネアが、小さく微笑む。
困らせているのかなと思ったが、月光鈴蘭が育んだ祝福が、ネアに大事にされたからだと思うと、もう充分ではないかと思う。
ネアが大事にするものはとても多いけれど、このリーエンベルクに住む者達や、ノアベルトやアルテア、ウィリアムとは違って、どうしても月光鈴蘭にはそれでもいいという思いを抱けない。
思っていることをそのまま伝えると、ネアは目を瞠ってから微笑みを深めた。
「それは、ディノが許容出来るものは、ディノの好きなものでもあるからですね」
「……………好きなものだと、許せてしまうのだね…………」
「例えば、今名前を挙げてくれた人達とは別に、グレアムさんやギードさんも嫌じゃないでしょう?」
「うん……………」
「私も、美味しいお菓子があったとしたら、それを分けてあげられるのは、自分にとって大切な人達だけです。それ以外の人に対しては、お菓子を素早く隠し、こっそり後で食べることで対処するに違いありません」
「お菓子だと、戻ってこないのではないかな……………」
「では、大事な雪豹アルテアを貸してあげると想定してみましょうか」
「……………騎士達には貸さないと思うよ」
「ふふ、ディノはあのぬいぐるみが大好きですものね」
伸ばされた手が、優しく頭を撫でてくれる。
その温度が嬉しくて、頭を擦り付けた。
もっとと強請ることは上手く出来ないが、そうするとネアは沢山撫でてくれるのだ。
けれど、そうして撫でられてしまうと、なぜだかより多くのものが欲しくなった。
その不思議な飢餓感は、彼女が伴侶になってから切実さを増したように思う。
その肌に触れて体を重ねたいという欲とはまた違う、もっと彼女に大事にされたいという衝動にも似たもの。
「……………ネア、その…………」
「……………何かして欲しいことはありますか?」
「ずるい……………」
「私は伴侶に幸せでいて欲しい強欲な人間なので、今の表情は見逃しませんよ!お仕事が早めに終わったら、お散歩にでも行きます?」
「可愛い…………」
「それとも、おやつフレンチトーストを作ってあげましょうか?」
「……………歌も歌ってくれるのかい?」
「ディノが弱ってしまわないと約束してくれるなら、私の大事な魔物の為だけに歌ってあげますね」
「ご主人様!!」
その代わり、とネアは言った。
その代わりに、今週の休みの日には一緒に川でのスケートに行って欲しいと言うのだ。
その提案は嬉しいだけだったので、すぐに了承し、スケート靴を履いているネアの可愛さを思い出した。
スケートをしている時のネアは、狩りをしている時の彼女に少し似ているのかもしれない。
川辺で売っているホットミルクを買ってあげたら喜ぶだろうから、笑顔になるネアを見る為には忘れないようにしよう。
そう考えると幸せな気持ちになり、ネアの膝の上にそっと三つ編みを置いておいた。
「む、…………エーダリア様でしょうか」
けれどもちょうどその時に、誰かが扉をノックしたので、ネアは三つ編みをこちらに戻して立ち上がってしまった。
戻された三つ編みを見てがっかりしたが、仕事が終わればフレンチトーストを作ってくれるので、それだけでも充分なのかもしれない。
扉を開けると、ノアベルトとエーダリアの姿が見えた。
エーダリアがこの部屋を訪れるのは珍しい。
「どう、僕の妹は、鈴蘭のクルークは気に入ったかい?」
「むぐぐ、妹…………」
「部屋まですまないな。問題の苔のクルークを持って来た。鈴蘭のものが正しいクルークの状態だと認識した上で、こちらのものを見て欲しいのだ」
「まぁ、エーダリア様がわざわざ持って来てくれたのですね。連絡をくれれば執務室に行きましたよ?」
「ほら、エーダリアはこっち側の庭に増えた祝福結晶目当てだから」
「ノアベルト…………」
「…………そう言われてみれば、確かにお庭にきらきらしたものが増えたような気がします……………」
「新婚さんだからさ、シルが嬉しい時にその祝福が漏れるんだと思うよ。草花や森の木の祝福が結晶化しやすくなってるんじゃないかな。それとネア、その後アルテアはどう…………?」
心配そうに尋ねたノアベルトに、ネアと顔を見合わせた。
ノアベルトは、この前アルテアの屋敷で狐から人型に戻ってしまった時、アルテアがネアから貰った靴下を履いているのを見てしまったのだ。
幸い、狐がノアベルトだとは気付かれなかったようだが、アルテアは、ノアベルトのことを避けている。
「使い魔さんは、相変わらずノアのことをとても警戒しているようなので、傷付きやすくなったアルテアさんを、あまり刺激しないであげて下さいね」
「……………そう言いながら、お前はちびふわのマフラーを編もうとしていると聞いたのだが………………」
「まぁ、エーダリア様。それは、アルテアさんが履いていた靴下が、思いの外可愛かったからなんですよ!でも、アルテアさんが嫌がるなら、これはウィリアムさんにあげてもいいかもしれませんね……………」
「ネアが浮気する…………」
「まぁ、ディノにもお庭用の簡単マフラーを編んであげていますよ?」
それは思いがけない一言だった。
小さく息を飲んでネアの方を見ると、ちびふわマフラーは顔の模様をつける以外は何の工夫もないので、簡単に編めてしまうのだと言う。
元々は、こちらのマフラーを編む為に毛糸の質を見ようと始めたらしく、こちらが本番だと教えてくれた。
「……………ずるい。可愛い」
「またしてもずるいが行方不明です…………」
「えー、僕にも何か編んでよ。アルテアばっかり狡いってば!」
「ノアには素敵なマフラーがありますし、手袋は面倒ですぐになくしてしまう魔物さんです。そうなると、腹巻き…………?」
「えっ、素肌に巻くの……………?」
「なぜ裸で寝る前提なのだ…………」
「うーん、部屋で一人で寝る時は、その方が楽だからね。勿論、君がいつ遊びに来てもいいように最低限の一枚はあるよ?」
「…………そこに、毛糸の腹巻きはやめておきましょうか。ノアは身につけるものをあまり増やさない派なので、毛糸のものではなくて、春先に刺繍したハンカチをあげましょうか?」
「あ、僕それがいいや!」
「ノアベルトなんて…………」
「むむぅ。…………では、ディノにも作ってあげますので、ハンカチに刺繍して欲しい絵柄を考えておいて下さいね」
「ネアかな…………」
「………………お花か小動物、文字に限られます」
「…………ネアの刺繍はないんだね……………」
「ありゃ、僕の刺繍は選べないの?」
「ノアは狐さん一択ですよ!」
「わーお、それは、アルテアに自慢出来ないなぁ…………」
「…………………じゃあ、ボールにします?」
「それにしよう!」
「それは、ただの丸い形が刺繍されるだけなのではないか…………?」
「ボールなのだね………」
少し話をした後、問題の苔の瓶を囲み、この部屋で見てみることになった。
この部屋はネアとの特別な場所なので、昔は誰も入れたくなかったが、今では、エーダリアやノアベルトは気にならなくなった。
当たり前のように入り込まれるのは不愉快だが、招くという形であれば気にならないのが不思議だ。
(ウィリアムやアルテアも、獣に擬態している時は寝室に入れても嫌ではないかな…………)
ゼノーシュはここを訪れることはまずないが、彼も嫌ではないと思う。
「……………これなのだ」
「…………まぁ。…………これは、苔なのでしょうか?」
「青林檎苔と呼ばれる、岩場が多い山間部で見られる苔なのだが、…………この通り、少し様子がな……………」
エーダリアがそう言ってテーブルに乗せた瓶の中には、小さな青林檎の形をした塊のような苔が入れられていた。
四人で囲んで見つめるその先で、苔達は先程の鈴蘭の比ではないくらいに、忙しなく動いている。
「……………私の目には、ちび青林檎めいた苔玉が、もすもすも弾みながら荒ぶっているようにしか見えません。小さな瓶の中でつぶつぶが沢山跳ね回っているので、何だか目がしぱしぱしますね……………」
「…………ご主人様」
小さな粒が沢山跳ねている瓶を見ていると、ひどく不安な気持ちになった。
これはあまり好きではないと感じ、ネアの膝の上に三つ編みを乗せて体を寄せると、ネアも三つ編みを握ってくれたようだ。
「他の同じ種の瓶は、こうはならないのだ。ヒルドにも見せたのだがな、森の系譜のヒルドでもどうにも出来なかったらしい…………」
「…………瓶内部のつぶつぶ達の、圧倒的な仲の悪さを感じます。…………見て下さい、ここに少し大きめのつぶつぶがいて、こやつを中心とした左側と、右側のつぶつぶとで戦っているようですね……………」
「戦っているのだね……………」
「…………ふむ。このような場合は、より大きな恐怖の前に、民衆が一致団結するような構図を作り出すしかありませんね」
「恐怖…………なのかい?」
「ええ。残忍な人間である私には、こやつらを震え上がらせるくらい容易なことです。ただ、ディノとノアは死んでしまうかもしれないので、少しだけ避難していて下さいね」
「わーお、…………それってまさか…………」
ネアが何をしようとしているのか分かったので、慌ててそこから逃げ出し、ノアベルトと一緒に寝室の方の扉の影に隠れる。
「ま、待て!私も得意ではないのだからな?!それと、クルークの中身を死滅させないでくれ…………」
「エーダリア様は目を逸らしていていいので、現場管理者として立ち会って下さいね。角のあたりからじわりと見せつけるだけですから、大丈夫ですよ。……………ふっ、愚かなものどもめ、恐怖の降臨を見るがいい…………」
そう暗い声で呟いたネアに、ノアベルトと一緒に慌てて扉の影に隠れた。
エーダリアの説明によると、ネアは、テーブルの影から少しだけきりんの絵を出して、瓶の中の苔達に見せたらしい。
苔達にその絵を認識させるまでに多少の試行錯誤はしたようだが、気付いた途端に苔達は震え上がってしまい、体を寄せ固まって怯えていたようだ。
「そうして、より大きな脅威に晒された者達は、また次の襲撃があるかもしれないと、共に手を取り合って、平和を尊び生きてゆくようになるのです」
その後、そんなネアの言葉通り、問題のあった瓶の中の苔達は仲良く暮らし始めたようだ。
瓶の中の暮らしには天敵がいなかったので、あらためて皆で健やかに暮らすことの大切さを学んだのだろうとネアは喜んでいたが、また内紛が起きるようであれば、容赦無くきりんを出すと言う。
その瓶から収穫される祝福は、秘めやかな繁栄として、裏門や通用口の守護魔術を強固にするようだ。
リーエンベルクの騎士棟には、魔術を補填する為のそのような祝福が数多く取り揃えられているらしい。
「……………はい!美味しいフレンチトーストの出来上がりです!」
「……………有難う、ネア」
その日の仕事は、ネアがあっという間に片付けてしまい早めに終わったので、昼食がフレンチトーストになった。
幸せな気持ちでその甘さを噛み締め、目の前で生きて動いている伴侶を眺める。
「………………可愛い。動いてるんだね」
「…………ディノ、伴侶になったのですから、生き物としての通常仕様には慣れて下さいね」
ネアはいつもそう言うけれど、ただそれだけでも堪らなく幸せになれるのだ。
聞かせて貰ったばかりのフレンチトーストの歌を思い出して嬉しくなると、また一口、特別なフレンチトーストを口に入れ、幸せを噛み締めた。




