寝起きの魔物と魔物の寝室
その日は色々な事件があった。
だからだと言い訳をするつもりはないが、注意力が散漫だったのは確かだ。
夕食の後にまずはアルテアの屋敷の敷地内にある湖に月光菫の花蜜を取りに出かけて行き、その湖で様々な冒険をした。
(湖で何があったって……………?)
それはもう、素晴らしい時間だった。
そう思うと唇の端が持ち上がり、あの豊かな雪と湖の香りを思い出す。
それは、豊かで深い森の中だった。
アルテアの屋敷のある土地なのだから当然だが、元々の土地に手を入れる形で植えられた木々と敷かれた草花の織りなす魔術の艶やかさは、思わず息を飲むくらいに計算し尽くされている。
深い森の中には様々な花が咲き乱れ、木の実には潤沢な雪明りが蓄えられていた。
枝から垂れ下がった花は魔術の光を灯してぼうっと蜜を燃やし、雪の下にも土地の祝福が宿り夜空の星屑のようにきらきらと光っていた。
そこには、愛するウィーム特有の上等でふくよかな魔術がこれでもかと敷かれており、ウィームらしさを鮮やかに浮き彫りにする箱庭のような、うっとりするほどに美しい森で、銀狐はあっという間に夜の散歩の虜になった。
あまりにも心地よくて、さくさく雪を踏みびょいんと弾めば、ぼすんと真っさらな雪に沈む。
顔を突っ込んだ雪の下には祝福の光が煌めき土地の魔術の芳しい香りがして、尻尾を振り回してまた雪の上で跳ねた。
ネアも、ムグリスに戻った伴侶を胸元に入れて、薄氷のように夜空の結晶を張った湖に夢中になっていた。
ムグリスになったシルハーンをそこに入れたのは、肩の上に乗せたままでいて、うっかり湖に落としたりしないようにだという。
小さな夜空の結晶の欠片をアルテアに貰い、嬉しそうにそれを手にして微笑んでいたネアの姿に、ノアベルトはいつかの遠いラベンダー畑でスカートの裾を翻した彼女を思い、また嬉しくなる。
あの夜からどれだけの日々を超えてここにいて、あの夜に思い描いた以上の幸福が今はここにあった。
あの日、時間軸の歪む迷路からノアベルトの前に落ちて来たネアを探して訪れたウィームで、ネアだと思い込んだ歌乞いが会いに来てくれるのをずっと待っていた日々、そして彼女が戦乱に巻き込まれ無残な死を遂げ、並べられ焼け焦げた遺体を一つ一つ確かめて回った暗い朝。
(でも、ネアはここにいて僕の妹になった。シルも、エーダリアもヒルドも。みんな僕の大切な家族だけど、そこに僕を連れて来てくれて家族を与えてくれたネアはやっぱり、特別な家族なんだ………)
どこでだって、この世界の煌きに目を奪われて唇の端を持ち上げるネアの姿は美しい。
それはわくわくするような、胸がじわりと熱を孕むような、特別に幸せな日々を約束してくれる、ノアベルトの大切な宝物なのだった。
(ああ、僕の大事な妹が楽しそうだ)
その喜びが祝福の光の粒のように降り注ぎ、ノアベルトはまた嬉しくなって雪の中を弾んだ。
ここにいるものが、もう自分を置き去りにしない大切な家族で、安心してその家族を守ったり、家族から守られたり出来るのだと思えば、ついつい心が蕩けてしまう。
エーダリアやヒルドと一緒にいる時もそうだが、安心して慈しめる自分のものは、こんなにも素晴らしく美しい。
今でも女性達とのひと時を楽しむのは、誰かの温度がなければ眠ることも出来ず、胸焼けを堪えながら噛み砕いたあの日々への報復なのかもしれない。
今度の誰かも自分を満たさないと分かっていて、心のどこかで憎みながら触れた快楽とは違い、今はただ彼女達とのお喋りを楽しむことが出来る。
その自由さが嬉しくて堪らなかった。
(僕にはネアとシルがいて、エーダリアとヒルドがいる。狐の姿でいれば、グラストとゼノーシュや、騎士達も、おまけにアルテアまで、みんなが僕を大事にしてくれる。おかえりだとか、ただいまだとか、そんな言葉を当たり前のようにくれるんだ………!)
相変わらず、狐の姿になると、心が剥き出しになってしまう。
ムギーと鳴いて尻尾を振ってみせれば、月光菫の花蜜を回収し終えたアルテアの横で、微笑んだネアが頭を撫でてくれた。
やっと手に入れられたその宝物に囲まれ、ウィームの魔術に触れる幸せな夜。
その中を弾み、跳ねまわり、途中でアルテアから湖に落ちるぞと叱られてしまった。
(でも、狐の姿になると、嬉しい時はあんな風に嬉しいだけになるんだよね………)
混じり気のないその思いだけに包まれ、心地よさにまた酔いしれる。
それは代え難い中毒にも似た強烈さで、その時の喜びを思い出し、ぶるりと身震いした。
(おっと、……………)
けれどもそれは今、厳禁なのだった。
ノアベルトは現在とても危険な状態にあり、こうして楽しかった夜を思い出しているのは、その恐怖を何とか紛らわそうと必死だからなのだ。
心が折れたら、ここで終わる。
微かな衣擦れの音にぎくりとし、布団の中の温まった空気がこぼれてしまわないように、細心の注意を払う。
隣に寝ている人物を起こさないよう、何とかここから逃げ出さなければならない。
けれどもそれはあまりにも惨憺たる現実で、またふわりと違うことを考えた。
(そういや、シルがもう一度ムグリスに擬態したのって、アルテアへの気遣いだよなぁ…………。リーエンベルクで人型で一緒に過ごすのは問題ないだろうけれど、このアルテアの屋敷でそんな風にずっと人型でいたら、まだアルテアには刺激が強いっていうか…………、彼の気質的には、バランスを取る為に反対のこともしたくなりそうだからさ……………)
アルテアも最近は、シルハーンと過ごす時間にだいぶ馴染んだ。
一緒にあれこれしている姿を見ていたら、案外楽しそうに見えてしまい、いつの間にかここも仲良しだなぁと嬉しくなった。
ノアベルト自身は、特にアルテアに対しての執着も嫌悪感も持っていなかったが、ネアやシルハーンとの相性はかなりいいと思う。
当たり前のことだが、高位の魔物達はそれぞれの資質において、別の誰かとはまるで気質が違うものだ。
だからこそ、アルテアにはアルテアにしか埋められないものがあり、他の誰かでは引き出してやれないような、ネアやシルハーンの心の動きを引き出すことが出来る。
それは、同じ家族の輪の中にいる、ノアベルトは勿論、エーダリアやヒルドでも、ネアと仲良しのゼノーシュにも得られないものだ。
数少ない欠片で成り立つリースもあるけれど、こうして輪になった自分達の今の形には欠かせないもの。
(上手く言えないけれど、アルテアも、僕の家族がこのお気に入りのリースみたいな綺麗な輪になる為には、必要な枝の一つなんだろうな……………)
そう言えば、いつだったかグラストが、こんなことを言っていた。
『よく見ていると、ネア殿がその輪の中心のようで、かと思えば、ディノ殿がひっそりと中心にいて皆を見守っている。それがノアベルト殿の時や、アルテア殿の時、エーダリア様やヒルドだったりもする。ああ、勿論、ウィリアム殿のことも………。不思議で力強いものですね』
ウィリアムもこの輪に入れられるとなると、少し複雑だったが、時々あの霧竜になる気があるのなら吝かではない。
ノアベルトの大事な家族の輪に入りたいなら、家族としての恩恵を彼も示すべきだ。
(アルテアだって、僕に食べ物をたくさん作ってくれるんだからね)
そう考えて頷きそうになり、再び意識をこちらに戻す。
何とか、繊細な作業の成果として片足だけは外側に出せたところだ。
体勢が不安定になってきたこの状態からが勝負なのだが、いっそ諦めて謝ってしまおうかという気持ちになりかけるくらい、置かれているのは絶望的な状況であった。
何しろ、離脱の作業だけに意識を集中すると、あらためて現状を反芻してしまい、多分心が死んでしまうので、 ノアベルトは楽しかった夜のことや、今のリーエンベルクの家族達のことを考えて何とか冷静さを保っている。
布団の隙間から冷気を入れないようにと自分に言い聞かせながら、投げ出したくなるような困難に立ち向かい勝利した結果、今度は片手を救出することに成功した。
体の上に乗った布団がなければ、このまま床に滑り落ちて逃れられるが、背中合わせになっている寝台の主がいる以上、少しでもこちらの気配を悟らせたら、待っているのは破滅だけだ。
(……………ネア、お兄ちゃんが大変なことになってるよ!助けに来て!!)
心の中でそう呼びかけたけれど、可動域の低い妹には届かないだろう。
シルハーンを呼んでみたかったけれど、彼に任せたら、まず間違いなく余計に状況を悪化させるような形で助けに来てしまう筈だ。
その点、ネアなら何とか誤魔化してくれそうなものなのだが、如何せん心の呼びかけが届かない。
(っていうか、アルテアもアルテアだよ!狐の僕に気を許し過ぎじゃないかな?!)
このような悲惨な状況に陥ったのは、ノアベルト自身の不徳の致すところでもあるが、アルテアの警戒心のなさでもある。
なぜ数時間前の自分は、昼寝をし過ぎてしまい、その結果、真夜中に眠れなくなり、アルテアに構って貰おうとしてアルテアの部屋を訪ねたのだろう。
その上でなぜ、部屋から出て行けと言いながらも頑なに寝台から出ようとしないアルテアに不信感を持ち、追い返された後にもう一度この部屋に忍び込んだのだろう。
(いや、ちびふわ靴下を履いてるから、アルテアは、布団から足を出せなかったんだよね!でもさ、アルテアが寝静まるのを待ってから布団に忍び込んでそれを確認して、僕にもアルテアにもいいことなんてある?!)
ここはアルテアの屋敷だ。
であれば、警戒している相手であれば、寝室で屋敷の主人が眠りについていたとしても、不審者は魔術が弾き出すのが普通である。
しかしどういう訳か、アルテアは銀狐をその対象にしていなかったらしい。
それどころか、ネアや銀狐に対しては面倒見のいい彼らしく、何かあった時には部屋に来られるように設定してあったからこそ、銀狐はこうも容易く扉を開けてアルテアの部屋に入れたのだ。
そのお陰で、銀狐はアルテアの寝台に忍び込むところまでは成功し、やっぱりちびふわ靴下を履いているという確認を終えて目的を達したところで、疲れ果ててアルテアの寝台の中で寝落ちした。
それだけでは済まず、事もあろうに夜明け前に目を覚まし、自分ではない誰かの気配を感じる寝台に、とんでもない勘違いをしてしまった。
(寝惚けていたから、うっかり女の子と眠っている時に無意識に銀狐になったのかと思って、焦って擬態を解いちゃったんだよなぁ…………)
ノアベルトにとって幸運だったのは、擬態を解いた段階では、アルテアが目を覚まさなかったことだ。
しかし、銀狐から人型に戻る時には魔術は必要ない仕組みにしてあったものの、再び銀狐の擬態を纏うには魔術を組み上げざるを得なく、そうなればアルテアとて高位の魔物だ。
一瞬にして目を覚ましてしまうだろう。
今のノアベルトに出来る事と言えば、何とか広かったお陰でアルテアに気付かれずに済んだこの寝台の中から退避し、安全な場所でもう一度銀狐に戻ることである。
しかしとても残念なことに、ちっとも上手くいく気がしない。
寧ろここまでアルテアが起きずに済んでいることが不思議で、恐らく、探知されるような魔術を使わずに自身の気配を極限まで薄める為に会得した能力が、ぎりぎりのところで機能しているのだろう。
思わぬところで、激昂する女性達から逃げる為の技術が役立っているが、これも、あとどれだけ保つことか。
少しだけ泣きそうになりながら、ノアベルトは孤独な戦いを続けていた。
(多分さ、僕の感覚だと一時間くらいに感じてるけど、まだ数分だよね。…………うわ、まだまだ時間がかかるとか、もう辛くて気を失いそう……………)
選択の魔物の意識の端に引っかからずに、どれだけこの状態を維持出来るか、自分との戦いに敗れそうになり、何とか心の中で自分を鼓舞する。
ここでこの戦いに敗れたら、今後の自分の評判はどうなることか。
後々に銀狐が自分だということを告白するにせよ、アルテアの寝台に潜り込んでいたということだけは誰にも知られたくないし、この状況でばれるのだけは何としても避けたい。
それを言えば入浴させて貰うのも似たようなものかもしれないが、起きている状態で面倒を見て貰うのと、眠っているアルテアの寝台に潜り込むのとでは、やはり受ける印象がまるで違う。
(…………そりゃ、ヒルドのところにはよく行くし、エーダリアのところにも行くけどさ、あの二人は僕が狐の時はそんな感じだって分かってくれているから、馬鹿にしたり嫌がったりしないんだ……………)
ネアが不在の時に、シルハーンの巣にだって入れて貰ったことがある。
そう考えかけてふと、そう言えばアルテアなちびふわだって自分の巣の中に招いたではないかと考えてしまった。
一瞬、それならこれもいいのではと考えかけ、全然違うと慌てて心の中で首を振る。
あの時は、銀狐が廊下を走って逃げようとしていたちびふわを捕まえ、首筋を咥えてエーダリアの執務室にある狐籠まで運び、ゆっくり眠るようにと入れてやっただけだ。
アルテアなちびふわは尻尾を逆立てて震えてしまい、何とかこの辱めから逃げようとじたばたしていた。
(…………そもそも僕は、何でアルテアのちびふわだけ、愛おしくなるんだろうな…………。うーん、我が子的な……………?)
自分でもよく分からない衝動に駆られ、ついついそんなことをしてしまうのだ。
何とも思わない時もあるのだが、ふとした時に、毛繕いをしてやったり、安全な巣に戻してやりたくなる。
これはもう、魔術的な弊害のようなものがあるとしか思えず、アルテアのちびふわ魔術と、ノアベルトの擬態魔術が触れることで、何らかの侵食魔術が発生するのだろう。
寧ろ、そうでなければとても困る。
(そうじゃないと………………っ?!)
その直後に起こったことは、例え当事者であっても説明するのは難しい、刹那のことであった。
ふっとアルテアの覚醒の気配があり、ぴしりと細い糸が張られるように、意識をこちらに向けかけた。
ノアベルトは咄嗟に、その糸の端が自分の存在に触れる前に寝台の上で体勢を入れ替える。
寝台から滑り落ちて逃げ出すには時間が足らず、転移で姿を晦まそうにも、ここはアルテアの排他領域であり、許可のない侵入や退出の魔術は動かせない。
「………………ノアベルト?」
この夜に起こった全ての不幸とその要因が重なり合い、目を覚まして横向きだった体を捻ってこちらを見たアルテアと、そんなアルテアの寝台に片手と片足を突っ込んだ姿勢のノアベルトの目が合った。
血も凍るような沈黙の中で、ノアベルトが強引に開き直ったことで失ったのは、魔物としてとても大切な何かだったのかもしれない。
「……………ありゃ、ネアとシルじゃないんだけど」
かなり苦しいのは分かりきっていたが、最後の望みをかけてそう呟いてみる。
信じられないような目でこちらを見ているアルテアが、赤紫色の瞳を愕然としたように瞠った。
「…………おい、どうやって入り込んだ」
「………………おかしいな、ネアだと思ったんだけど。うーん、まぁいいか」
その時のノアベルトは、なぜか、素面だと思われたら追求を躱し切れないと考え、おまけに開き直って、ここは引かない方がいいと感じてしまった。
とても悲しい事だが、そうなると取るべき行動は一つだけなのだ。
先程まであれだけ苦労をして抜け出そうとしていた布団の中に入ると、前後不覚で、自分が今何をしているのか分からないような状態を装う。
「…………っ?!おい、何のつもりだ?!」
「…………ありゃ、何でアルテアがここにいるのさ。僕は妹を探しに来たんだけど」
「おい、ふざけるな!さっさと出て行け!」
「…………わーお、………」
まずは困惑したように目を瞬いてみせ、漸く目の前にいるのがネアとシルハーンではなく、アルテアだったということに気付いた風を装い、一拍置いてから呆然としてみせる。
幸い、女の子達との付き合いでもそうだし、かつてヴェルリア王家を付け狙っていた時にも、演技力には磨きをかけてきたつもりだ。
その経験の全てを注ぎ込み、ノアベルトは、酔いが覚めたらアルテアの寝台に入ろうとしていた自分という演技に全てを賭けた。
突っ込みどころは満載だが、何度も言うが、その時はそれだけが唯一見出した活路なのだった。
「何で僕はここにいるのかな?」
「知るか!この屋敷には排他領域の魔術が敷かれていた筈だぞ。そもそも、お前はいつもこんなことをしてるのか…………?」
「悲しいことがあったから、緊急時用の魔術の道を使って、ネアとシルに慰めて貰いに来たんだよ。……………おっと、本気で首を落とそうとするなんて、酷くない?!」
「……………成る程な。あいつと結んだ兄妹の契約を使ったのか。二度と入れないように、魔術領域を書き換えておいてやる。さっさと帰れ」
「言われなくても帰るよ!って言うか、……………あ、」
どこからともなく取り出した杖で首を落とされそうになり、慌てて飛び退って部屋の隅に着地した。
幸いにも勝手にノアベルトがここに入り込めた理由を組み立ててくれたので、訝しまれてはいないようだ。
そこに乗じて屋敷の外側に魔術の道の繋ぎ目を作りつけておき、こちらでも目眩しにする。
けれども、ノアベルトは最後に仕損じた。
パジャマについては意識があったものか、アルテアは身を起こしながら魔術で着衣を書き換えていた。
だから勿論、それを見なかったふりは出来たのだ。
しかし、元々書き換えをしないようにしていたものか、出来ないような凶悪な魔術か呪いがかけられていたのか、靴下はそのままだった。
そんなちびふわ靴下が視界に入ってしまい、思わずそちらを見てしまったのだ。
アルテアがこちらの視線を追い、そのままぴしりと凍りつく。
「ぼ、僕は何も見なかった!!」
ノアベルトは咄嗟にそう宣言すると、その部屋から駆け出していって、ネア達が泊まっている部屋に逃げ込んだ。
「ネア、シル、助けて!!」
「……………むぐ?!」
「……………ノアベルト?」
シルハーンは人型に戻っていたが、有難いことに、こちらの新婚さんは使い魔の家でいちゃいちゃしていたりはせずに、二人とも寝間着でお行儀よく寝ていたようだ。
逃げ込んで来たノアベルトの声にがばっと起き上がると、二人揃って目を丸くする。
事情を説明する為に慌てて音の壁を立ち上げ、アルテアに追い付かれる前にと、今起きた悲劇の全てを二人に説明した。
「まずは、ノアは狐さんに戻って下さい。ディノは、…………そうですね、このノアのシャツを、ここから私達のお部屋に魔術でぽいすることは出来ますか?何かを帰したという事実は必要な気がするのです」
「それは出来るよ。あの魔術書の呪いは、あくまでも生き物にかけられているものだからね」
思った通り、ネアはとても頼りになった。
すぐさま言われた通りの工作が行われ、ネア達の部屋に駆け込んで来た侵入者は、アルテアに排除されないようにと気を利かせたシルハーンが、リーエンベルクに送り返したことにする。
そして、ネア達の寝台の二人の真ん中に入れて貰い、尻尾の先までけばけばになった銀狐姿で、アルテアがこの部屋にやって来るのを今か今かと怯えながら待っていたのだが、なぜだかいっこうにその様子がない。
それどころか、屋敷はしんと静まり返り、人の気配すらしないような気がする。
三人で顔を見合わせ、シルハーンがアルテアの部屋を訪ねてくれることになった。
そしてすぐに、とても困惑して戻って来た。
「ここには、…………アルテアはいないようだよ。残された魔術を見ると、出ていってしまったようだ。もしかして、狐であることが知られてしまったのかい?」
そう言われたので一度人型に戻り、三人でこの非常事態について会議をすることになった。
念の為にアルテアが戻って来ても見られぬよう、特殊な場の魔術をシルハーンに巡らせて貰う。
「…………ほわ、もしかして、狐さんのことが知られてしまい、傷付いたアルテアさんが旅に出てしまったのですか…………?」
「………………うーん、普通に考えたら気付くだろうけど、アルテアに限っては、それはなさそうなんだよね。何て言うか、無意識に脳内からその可能性を消し去ってる感じ?」
「そうなると、何か他の事でアルテアさんの繊細な心を傷付けたのかもしれません。いきなり寝台に忍び込まれたので、夜這いだと思って怖かったのでしょうか…………」
「………………それ、僕の心も死ぬやつ」
「アルテアが、ノアベルトに……………」
「でも、他に理由もないのでしょう?」
「強いて言うなら、アルテアがちびふわ靴下を履いているのを見たかな。……………あ、それだ」
「…………………それですね」
「アルテアが……………」
シルハーンはとても悲しげだったが、ネアはさもありなんと頷いている。
どうやらあの靴下に使われた毛糸には、一度でも履くと、心地よさが微かな中毒性を齎す着心地の魔術が染み込ませてあったらしい。
知らず知らずに愛用してしまうという恐ろしいもので、ネアが、せっかく編んだ靴下が捨てられてしまわないようにと仕込んだ恐ろしいものだった。
「ですので、アルテアさんも、ほぼ無意識にまた履いてしまったのかもしれません」
「ご主人様……………」
「わーお、僕の妹は何て残酷なんだ……………」
アルテアの失踪は、ネアが情報提供を求めたウィリアムからウィームの市場で見かけたと一報が入ったその半刻後に、暗い目をした本人が自力で帰還したことで、無事に幕を閉じた。
家を出ていた理由には触れず、暗い目をして少し遅くなった朝食の準備をしているアルテアに、ネアは何事もなかったかのように、どんなメニューになるのかを尋ねている。
思った通り、銀狐の正体はばれなかったようだ。
それもそれでどうかと思うが、心には不思議な働きがあって、甚大な被害を与えるかもしれない残酷な真実を、意図的に遠ざける働きがあるのかもしれない。
「夜明け前に、ノアベルトがこちらに来たようだよ。その、……………何かあったのかい?」
「………………二度とここには入れないようにしておいた」
「……………ディノが、リーエンベルクに帰してくれましたよ。酔っ払いさんだったみたいですね」
「……………あいつの顔は暫く見たくもないな」
「まぁ、……………。何か悲しいことがあったのなら、背中を優しく叩いてあげましょうか?」
「やめろ……………」
そう言いながらも、心は癒しを求めていたものか、銀狐は今、アルテアの手でわしわしと撫でられている。
ネアもシルハーンも、その光景がとても悲しいのか、何とも言えない目でこちらを見ていた。
この秘密を明かすには、もう百年くらい必要かもしれないと思いながら、ノアベルトは、とても悲しい気持ちでその手に撫でられていた。




