優雅な晩餐と秘密の話
アルテア邸のお泊りも、色々あったが無事に夜になった。
貸して貰った図鑑を夢中で読んでいたネアは、漂ってきたいい匂いに鼻をくんくんさせる。
明らかに香ばしく焼けるチーズの香りがして、尚且つお肉の油の香りに、ローズマリーやオレガノの香り。
しゅわっと鼻に抜ける瑞々しい香りは、もしやネアの大好きなエシュカルだろうか。
まだ読み途中の図鑑をテーブルに置いてそちらに行こうとしたが、ムグリスディノと銀狐が、まだ砂の海にあるという砂結晶の花畑の頁を夢中で読んでいる。
さわさわと本の中の花畑が風に揺れ、花に触れると硬質な砂の結晶が砕け散るような音を立てるので、それが面白くてならないのか、ムグリスディノは小さな前足で、一生懸命に花を押さえて叩いて鳴らそうとしていた。
銀狐が夢中になっているのは、ページの右半分にある砂結晶の花畑に住む生き物達の解説の頁だ。
そこには、尻尾と耳だけは猫に似ているが、全体的には檸檬色のちぎり餅という謎の毛皮生物が紹介されており、そちらも本の中で生きているのか、銀狐と見つめ合って威嚇し合っている。
(ニャンムチン……………。このコグリス風ちぎり餅は、砂の妖精の一種なんだ…………)
そうなると現在のネアは、左側の頁でお花に触れているムグリスディノから、しゃりんしゃりんと音が聞こえ、左側の銀狐の方からは、ムギーだとか、シャーだとかいう声が聞こえてくる。
たいへん賑やかで微笑ましいのだが、強欲な人間は厨房に立つ使い魔の後ろ姿に思いを馳せていた。
「……………む?」
しかしそこで、本の中のニャンムチンとの戦いに敗れたのか、ムギーと鳴いた銀狐がもふもふのお尻を見せて、ごろごろと長椅子から転がり落ち、床の上でけばけばになる。
視線を本に戻せば、ニャンムチンは元の生き物紹介の枠の中に戻り、どこか誇らしげにしていた。
「おい、暴れてるぞ」
「図鑑の中のニャンムチンに敗れたようです。…………狐さん、所詮あやつは、図鑑の中の頁に過ぎませんからね。…………それと、ここで絨毯をばりばりしたら、きっと恐ろしいご飯抜きの制裁が待ち受けている筈ですので、やってはいけませんよ?」
ネアにそう窘められ、地団太を踏んでいた銀狐は慌てて前足を丸めた。
むくむくほわほわの冬毛の前足でそれをやると、可愛い以外の感情を滅ぼす恐ろしいあざとさだ。
ネアはおもむろに手を伸ばし、そんな銀狐の前足にそっと触れ、満足して顔を上げた。
「……………キュ」
「あら、ディノもですか?大事なむくむくなので、勿論有難く触らせて貰いますね」
「キュ!」
銀狐だけずるいと言わんばかりに、びゃっと小さな前足を差し出したムグリスディノに、ネアは微笑んだ。
恭しくムグリスになった伴侶の手を取るこの行為には、小さな手に触れる体で魅惑のお腹毛にも触れてしまうという、したたかな人間の計算も含まれている。
狙い通りにむくむくのお腹に指先が当たり、ネアはこっそりほくそ笑む。
手を繋ぐということはたいへん大胆な愛の告白だと思っているディノは、それだけのことでちびこい三つ編みをへなへなにして恥じらってしまったが、自分も手を繋げたので満足そうだ。
そんなムグリスディノを見ていたら、ネアまで何だか、唇の端が持ち上がってしまう。
こちらもへにょりとしたところで、厨房の方から声がかかった。
「そろそろ並べるぞ」
「はい!お手伝いします!!」
「お前だと落としかねないからな。座ってろ」
「……………まぁ、私の覚悟を甘く見ていますね?お料理を落すくらいなら、私が滅びます」
「キュ?!」
「唸るな。…………ったく、これを持って行け。テーブルの真ん中より少し左だ」
「座標の指定まであるのですか…………?」
「当然だろう。メニューによって置くべき位置は違うだろうが」
驚いたネアに、アルテアは至極当然のように答える。
ネアは、またしても知らない領域に踏み込んでしまったと目を瞠り、その指示に従うべくきりりと頷いた。
まず最初のお皿は、大きな白い陶器の楕円形のお皿に入った白身魚のバターソースだ。
爽やかな香草とバターを使った白いソースをかけてあるのは、林檎のお酒の香りをつけてふっくらと蒸し上げた白身魚で、付け合せの黄色い小花は檸檬の風味をつけて育ててあるので一緒に食べる事が出来る。
小さ目のカットのものを大皿に作ってあるので、好きなだけ自分のお皿に取れるのが嬉しい。
スープでくたくたに煮たポロネギは、そのまましゃばしゃばと食べても美味しいが、マスタードの効いたソースにつけていただくそうで、鴨肉のローストには香ばしく焼いた皮目には塩が効いていて、黒すぐりと杏のソースを添えてある。
たっぷり出されたサラダには果物も入っており、香辛料の効いたクリームドレッシングか、シンプルに雪樫の実のオイルとお酢、塩胡椒でいただくのか自分で選べるようだ。
食事と一緒に楽しむお酒と、薄く切ったハムやサラミ、フリットされた小さな小海老と蛸。
更には、チーズなども出されている。
ディノの大好きな酢漬け野菜の小鉢もあるので、さっぱりとお酒を楽しむことも出来るらしい。
「……………楽園が生まれました……………」
「デザートはジェラートが二種と、足りないなら小さな焼き菓子がある」
「ジェラート!」
「カルステッチと、サクランボの酒のものだ」
カルステッチは異世界版のピスタチオのようなもので、その香ばしさに、酸味とお酒の風味のある大人な感じのジェラートを合わせたのがアルテアらしい。
銀狐用には、ミルクたっぷりのプレーンなジェラートもあるようだ。
ムギーと鳴いた銀狐が、尻尾をぶりぶり振り回して一心不乱に魚を見つめている。
教えて貰ったところによると、これはヴェルリアとの国境沿いにあるウィームの土地の名物料理で、林檎のお酒の美味しいこの時期に食べるのが一般的なのだそうだ。
(ノアは、この料理が好きなのかな…………)
若干、狐の体にポロネギは大丈夫だろうかとハラハラしつつも、美味しい晩餐が始まった。
「まぁ、サラダがとっても美味しいです。生の葉っぱだけではなくて、ほっくり焼いてあるお野菜と、茹でてあるお野菜もあって食感が楽しいですね」
「その前に、シルハーンを人型に戻しておけよ。食事の後はどうしようと構わないが、食後に口元を洗うのは一匹で限界だ」
「……………ディノ、せっかくなので、人型で美味しくいただきませんか?」
「……………キュ」
こちらは、すっかりカトラリ―を手にして自分の面倒しか見られませんという雰囲気の人間であるので、ムグリスな伴侶は、ネアに迷惑をかけてはいけないと思ったらしい。
ぽふんと音を立てて人型の魔物の姿に戻ると、はっとする程の美しい水紺の瞳を瞬き、なぜか恥じらうようにこちらを見る。
「ディノ?」
「こちらの姿でないと、君と料理を交換出来ないからね。ほら、新婚だと沢山交換出来るだろう?」
「そこを抽出してきてしまうのですね………」
もじもじしながらそう言うのは、新婚期間はたくさん甘えてもいいのだという情報を掴まされ、残酷な人間にちょっと面倒臭いと思われてしまうこともある万象の魔物だ。
普通に甘えてくれれば、こちらも大切な伴侶で家族が出来たことにはしゃいでいるので吝かではないのだが、毎回、ちょっと何だか違うという方向から飛び込んでくる。
たいへん悩ましい、けれども大切な魔物なのである。
「ふふ、お花を叩くのに夢中だったからでしょうか。三つ編みが後ろ側にいってしまってますよ?」
「……………ネア」
三つ編みを直してやったネアに、ディノはもじもじして目元を染めた。
緩やかな曲線を描く長い髪は、白に虹色の艶のある真珠色。
長めの前髪をふわっと横に流し、前に持ってきた髪の毛を一本の三つ編みにして片側に垂らしている。
そんな三つ編みに結ばれているリボンは、新しく買ったばかりの、滲むような艶のある濃紺のものだ。
祝福の豊かなイブメリアの夜闇を紡いだものであるらしく、新年の記念にと、年明けに買ってやったばかりであった。
この魔物は爪先を踏まれたり、体当たりをされたり、更には三つ編みをリード代わりにして引っ張られたり、もっと重症度の高いもので言えば、専用の腰紐で括られて繋がれるのが大好きだ。
そんな趣向のある魔物の食事の時の喜び行事として、ディノはご主人様のお皿の上のものを貰い、自分のお皿からご主人様の喜びそうなものを献上するのが大好きだ。
ネアにとっては、今回の食事のように好きなものを取れる席ではあまり得るものはないが、各自で注文したり、コース料理のように自分の食べるものが厳密に決まっている場合には、魔物のお皿から欲しいものを奪える勝手の良いシステムなのだった。
「アルテア、今日は有難う。突然で迷惑をかけたね」
ネアの隣の席に座り、ディノはまず、きちんとアルテアにお礼を言った。
このようなことに不慣れだった魔物なので、アルテアは小さく瞳を揺らすと、あえてつんと澄ましてみせる。
ここにいるのはかつて、気象性の悪夢の中でディノの首をいたずらに掻き切ったこともある魔物だが、ネアは、もうそんなことはしないだろうと思う。
どこからかこの二人も随分と仲良くなった。
アルテアはたいへんよく懐いた使い魔であるが、ネアとしては、ディノとの仲良し度もそれに関係していると睨んでいる。
「……………伴侶にしたとはいえ、要素の定着が思わしくないんだろ。妙なものに触らせるなよ」
「そうだね、確かに思った程可動域は上がらなかったけれど、一応はもう、私に紐付けることは出来ている。であれば、前より多くのことを経験させてあげたいのだけれど、…………あのような本でも飛ばされてしまうのだね…………」
「ディノ、あれは試してみるという挿絵がおかしいのだと、エーダリア様が仰っていました。普通の魔術書は、紹介した魔術に対し、試してみるというような項目はない筈であるらしく、ちょっと意地悪な本だったみたいです」
行動に過剰な制限を設けられてもいけないので、ネアは慌ててその部分を強調した。
アルテアは酷く疑わしげな目でこちらを見たが、ディノは、そうだねと微笑んで頷いてくれる。
幸いにもネアの伴侶になった魔物は、大事なご主人様に色々なことをしてあげたいという欲求を持ってくれている、優しい魔物なのだ。
アルテアはまだ何か言いたげであったが、ディノは淡く微笑んで首を振った。
すぐにへなへなになってしまう儚い魔物だが、このような時にふと、ここにいるのは魔物の王様なのだと、はっとする時がある。
ディノにはディノなりの伴侶としてのきっちりとした線引きがあるようで、このように緩めてくれるところと、逆に伴侶になったことで狭量になった部分があるのが面白い。
(でも、伴侶以外の人と二人きりで橇に乗るのが禁止されたのはなぜなのだ…………)
他にも様々な決まり事が設けられ、他の魔物の毛布の巣に入ってはいけないというようなディノ特有のものから、見知らぬ人と手を繋いではいけないという、伴侶仕様なのか、保護者仕様なのか分からないものまで様々だ。
食事は和やかに、そして美味しく進んだ。
アルテアが、大皿で魚料理は珍しいなと思っていたが、細かく刻んだ香草の入ったバターソースの蒸し魚はたまらなく美味しく、ネアは銀狐に負けじとぱくぱくいただいてしまう。
淡白だが脂の乗った美味しい白身のお魚に、香草の風味にあるバターソースがじゅわっと絡む。
ほくほくじゅわりと食べられてしまい、檸檬の風味のある黄色い花を一緒に食べると、俄かに爽やかになってまた違う風味で美味しい。
鴨のローストはもう神だと決まっているが、ポロネギもとろとろで美味しく、合せるマスタードソースのつんとした辛味がなんとも絶妙ではないか。
焼きたてのパンは、トマトのパンとふかふかの白い牛乳パン。
どちらも美味しいバターによく合い、ますます食事が進んでしまう。
そして、こんな時に安心してお腹を一杯に出来るデザートこそ、ジェラートに違いない。
ネアは幸せな気持ちでコンフィを食べ、また少しだけサラダに戻った。
白身魚とポロネギはもう完売だ。
「ふふ、ディノはポロネギが気に入ったのですね」
「…………ネギはあまり好きではないのだけど、こういうものは美味しいね」
「ディノはきっと、生ネギの感じが苦手なのかもしれませんね。玉ねぎも生だと苦手でしょう?」
「……………うん」
「まぁ、しょんぼりしなくてもいいんですよ?そうやって、好きなものや苦手なものを見付けてくれると嬉しいんです」
「ご主人様!」
強いて言うならば、ここでは伴侶として喜んで欲しかったのだが、もうこれは長い付き合いになってゆく文言なのかもしれない。
お食事があらかた終わってしまうと、おつまみ用の揚げ物や、サラミやチーズなどでふんわりとした酒席になる。
ネアが、アルテアはディノのことが好きなのだなと思うのはこんな時で、煩わしければささっと片してしまってもいいのに、こうやってみんなでテーブルを囲んでいるからだ。
「おい、干し葡萄はやめておけ。ほら、こっちにしろ」
そして何かと面倒を見てしまう銀狐のことも、やはりかなり気に入っているようだ。
ネアはとても儚い気持ちになり、アルテアを連れてゆく傷心旅行先について考える。
アルテアに構ってもらえて尻尾がぶりぶりの銀狐は、恐らくもう暫くは告白をするつもりはないだろう。
テーブルの上の華奢な水色の朝雫のグラスには、乳白色のエシュカルが注がれている。
昨年末にウィームの街でこのエシュカルを飲んだのは、ディノと伴侶になったばかりのことだった。
あの時にはまだふわふわとしていたものが、今は少しずつネアの心や体に馴染み、定着してきている。
ディノは無銘の魔物になり、そして伴侶としてこれからもずっとネアの側にいてくれるのだ。
そんな魔物は今、アルテアと少し専門的な世界情勢の話をしている。
「とは言え、あの界隈はグレアムの統括だ。あいつなら上手くやるだろう」
「かもしれないけれどね。………ただ、怨嗟や呪いの魔術に長けた土地でもある。人間特有のものも多いし、君が手入れをしている国の隣は、剣の魔物と通り雨の魔物がここ数年覇権を争う領域だ。あの二人は、………少し気難しいからね」
(通り雨の魔物さん…………)
どうやらディノは、珍しくアルテアに用心を促しているようだ。
神父服で有名な通り雨の魔物については、ネアも一度対面したことがあったが、確かに気難しそうではある。
とは言えそこには、ネアが感じる以上に、ディノがアルテアを案じるだけの理由もあるのだろう。
「剣の魔物さんのことはあまり聞きませんが、厄介な方なのですか?」
「気質は魔物らしい程度のものだが、剣の魔物も通り雨も、特定の個人を標的としない大規模な固有魔術を持つんだ。基盤となる魔術の形態が、少しこちら側と違うからね」
「まぁ…………、基盤の魔術の違い、と言うものがあるのですね?」
「派生した土地に残る魔術や文化があまりにも大陸と違うと、固有魔術の成り立ちがこっちとは違うからな。剣や通り雨は、ランシーン側の、旧時代の思想が残った土地から派生している。白夜と白樺もだ」
「この世界の命の営みはこちら側から再生したものだから、あちらから派生した古い魔物はあまり多くないんだよ。その代わり、精霊はあちらのものが多いかな」
(聞いてしまえば当たり前のことかもしれないとも思うけれど、派生した土地によっても少し違いが出るものなんだ……………)
「妖精さんも、そちらの方がいらっしゃるのですか?」
「人型の妖精は少ないね。あちらの土地には、他にも種族のはっきりしない獣のようなものは沢山いるよ。ほら、…………あの魚も……………そうだからね」
うっかり人面魚の話題を自分から出してしまい、トラウマが蘇ったのか、ディノはぱたりとテーブルに突っ伏した。
まさしく自損事故なのだが、一緒に被弾したアルテアも顔色が悪くなり、新しいエシュカルの瓶を開けるとがぶがぶと飲んでいるし、ネアの隣の、クッションで底上げした臨時子供椅子の上の銀狐もけばけばになってしまう。
「……………なんと儚いのだ」
そう呟いたネアは、新年こそ伝えようと思っていた重大な秘密を、そっと胸の奥深くにしまい込んだ。
実は以前、そのランシーンの山間に住む知り合いから聞いた事があるのだが、あの土地に生息している固有種は何も人面魚だけではないらしい。
(ルドヴィークさんが、人面蟹と羊の頭を持つ蝶がいると話してくれていたけど、まだ言わない方がいいかしら…………)
人面魚と聞けばこの通り弱ってしまうか弱い魔物達なので、最初の人面魚に慣れてから、その情報を伝えようと考え少し寝かせてみたが、まだまだ残酷な真実を伝えるには時期尚早であるようだ。
やがていい感じにエシュカルがなくなると、ネア達はまず夜の湖に行くイベントをこなしてしまい、そこで少し酔いを覚ましてからお風呂に入ることになった。
窓の外には、きらきらとした細やかな雪が降っている。
ここは特別な土地なので、外にあるウィームの街に降る雪ともまた違う質感で、ネアはその美しさに暫し見惚れた。
夜の湖に出かけるのは、とても楽しい時間になりそうだ。




